ご無沙汰をしております
いつもはスマホから投稿しているのですが
何故かここ数日、スマホのブログ画面が開けない・・・
ですので久しぶりにパソコンからの投稿です
コロナウイルスが猛威をふるっております
皆さまにおかれましてはご無事にお過ごしでしょうか
響焔も3月は句会が悉く中止になりました
例年3月のはじめには同人懇親会兼句会があり
一年間の行事予定などの話もあるのですが
そちらも中止との連絡が・・・
句会がないと月末に投句する句が困るのですが・・・
さて今月の名誉主宰の言葉より
・あまり強い意志を押し付けない→そう思ったら逆にやさしく言う
・自分の経験をそのまま五七五にしても俳句にならない
・意味はどうでもいい
・一番言いたいことを言わない。二番目を言う
「一番言いたいことを言わない」
さぁ、またまた名誉主宰らしいぶっ飛びコメントです
「だって、言いたいことがあるからそれを俳句にするんじゃないのぉ?」ですよね
多分これは
今月の名誉主宰の言葉の
「あまり強い意志を押し付けない」
ともかかわってきそうですね
一番言いたいこと=思い入れがあること=強い意志
その思いを思いのまま句にぶつけると
読者としては
「ゔっ・・・」
と、なる
どうしてもそれだけの内容になってしまう
それを回避するために「二番目を言う」
そんなこともひとつの技なのかもしれませんね
二番目を言っても
ちゃんと一番言いたいことはそこはかとなくわかる・・・
読者もそこまで感じて読み取る・・・
そういうやり取り、嫌いじゃないです
俳句、詠み手も読み手もボーッとしていられない
詠み手と読み手の感性のぶつかり合い
それも俳句の楽しさのひとつですね
今月は句会がないのでこの「感性」を
磨く作業をしていきましょう
色々な芸術に触れたり、映画を観たり・・・
心に沢山、心地よい刺激を刻みましょう
いつもはスマホから投稿しているのですが
何故かここ数日、スマホのブログ画面が開けない・・・
ですので久しぶりにパソコンからの投稿です
コロナウイルスが猛威をふるっております
皆さまにおかれましてはご無事にお過ごしでしょうか
響焔も3月は句会が悉く中止になりました
例年3月のはじめには同人懇親会兼句会があり
一年間の行事予定などの話もあるのですが
そちらも中止との連絡が・・・
句会がないと月末に投句する句が困るのですが・・・
さて今月の名誉主宰の言葉より
・あまり強い意志を押し付けない→そう思ったら逆にやさしく言う
・自分の経験をそのまま五七五にしても俳句にならない
・意味はどうでもいい
・一番言いたいことを言わない。二番目を言う
「一番言いたいことを言わない」
さぁ、またまた名誉主宰らしいぶっ飛びコメントです
「だって、言いたいことがあるからそれを俳句にするんじゃないのぉ?」ですよね
多分これは
今月の名誉主宰の言葉の
「あまり強い意志を押し付けない」
ともかかわってきそうですね
一番言いたいこと=思い入れがあること=強い意志
その思いを思いのまま句にぶつけると
読者としては
「ゔっ・・・」
と、なる
どうしてもそれだけの内容になってしまう
それを回避するために「二番目を言う」
そんなこともひとつの技なのかもしれませんね
二番目を言っても
ちゃんと一番言いたいことはそこはかとなくわかる・・・
読者もそこまで感じて読み取る・・・
そういうやり取り、嫌いじゃないです
俳句、詠み手も読み手もボーッとしていられない
詠み手と読み手の感性のぶつかり合い
それも俳句の楽しさのひとつですね
今月は句会がないのでこの「感性」を
磨く作業をしていきましょう
色々な芸術に触れたり、映画を観たり・・・
心に沢山、心地よい刺激を刻みましょう
作者の言いたい事って読者からすると意外とどうでもいいんですよね。
言いたいっていう時点で独り善がりとただの報告になっている可能性があるから。
山崎さんの仰る事には通じないと思いますが。
思いがあって句を作るわけですが、すこし外して言う、とか、思いはほのかにそっと出す、とか、そのくらいの方が読んでいて楽しいような気がします。
いつもコメント、ありがとうございます。
不肖大江深夜に白井百合子という俳句の弟子がおります。
二年程前に一方的に弟子入りされてしまいました。自分は人様に俳句を教えるレベルになかった為彼女の地元の飯田酔孩先生に預かってもらうような形になり、現在は主治医飯田先生、私が応急措置セカンドオピニオンのような立場です。
そんな彼女は飯田先生の指導の甲斐があって私よりも良い句を詠みますが相変わらず言いたい事を言い放しの癖が出てしまう時もあります。
針箱の蓋の緩みや梅雨籠り 白井百合子
寒椿菩薩の足を隠しけり 白井百合子
先生の添削なしでこのレベルまで詠めるようになっても言いたい事をただ言ってしまう癖はなかなか治らないのでしょうか?
先生について勉強されてるなら、基本的なことは身に付いておられるでしょう。
どう表現するかは、それぞれの感性で違ってくると思います。
「や」「けり」は切れなので安易に使わずに、必然性があるときに効果的に使えるといいですね。
あとは教わるというより、自得する、だと思います。そのために、色々な芸術に触れて感性を育てることをしていると、俳句に味が出てくると私は信じています。
確かに俳句以外に映画や絵画、新聞の情報から刺激を受ける事はありますね。
切れ字に関しては石田波郷の「切れ字は無理してでも使え」を未だに実践中です。同じ五七五でも切れ字を使える俳句は川柳にない魅力ですし。
その「切れ」は、や、かな、けり、を使わなくても生まれます。
作者の切るという意思があると、読んでいて、ここで切っているな、とわかります。
それは必ずしも、や、かな、けりだけではありません。
や、かな、けり、を使うと俳句らしくなるので使いたくなりますが、とくに「や」切れは強い切れになるので、本当にここで「や」でいいのか、他の方法はないのか、推敲のときに考えています。
読む時も、「や」切れが必須なのか、効果的なのか、形だけ切ったようになっていないか、を鑑賞のひとつにします。
「切れ」で生まれる断層は句を広げてくれます。短い詩だからこそ、切れは必要と思います。
切れ字を使わない切れは作者の意思より文法で判断するしかないような気がします。
切れ字を否定する人達もいらっしゃいますがそれはそれで自由だと思います。ただ、切れ字が本当に詠嘆(深く感動)しているのかは疑問です。
「春風や」は「作者である私は春風に深く感動しました」って意味ですよね。押し付けがましくて気持ち悪いと思います。
カット、フェードアウト、カットアウト。なるほど!とてもわかりやすいですね。
感覚ではわかっていても、こういう風に例えるとより一層はっきりします。カルチャー教室で使わせていただきます♪
「春風や」…そんなに感動したの?そこまで?と思いますよね。そのあとに続く中七下五によっては、や切れが大袈裟に感じます。だから安易に使えないなと思うのです。
例えるといえば
せきしろ 「たとえる技術」新潮社
は有季定型俳句、川柳、短歌にも応用できそうな本でした。
私は読むとしたらミステリーばかりで、俳句関係のものは雑誌か句集くらいで…。
情報、ありがとうございます。