京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

花をたてまつる

2022年08月10日 | 日々の暮らしの中で
    花を奉るの辞

 春風萌(きざ)すといえども われら人類の却塵いまや累(かさ)なりて 三界いわん方なく昏し まなこを沈めてわずかに日々を忍ぶに なにに誘わるるにや 虚空はるかに一連の花 まさに咲(ひら)かんとするを聴く ひとひらの花弁 彼方に身じろぐを まぼろしの如くに視れば 常世なる仄明りを 花その懐に抱けり 常世の仄明りとは この界にあけしことなき闇の謂(いい)にして 我ら世々の悲願をあらわせり かの一輪を拝受して今日(こんにち)の仏に奉らんとす

 花や何 ひとそれぞれの涙のしずくに洗われて咲き出づるなり 花やまた何 亡き人を偲ぶよすがを探さんとするに 声に出せぬ胸底の想いあり そを取りて花となし み灯りにせんとや願う 灯らんとして消ゆる言の葉といえども いずれ冥途の風の中にて おのおのひとりゆくときの花あかりなるを

 この世を有縁という あるいは無縁ともいう その境界ありて ただ夢のごとくなるも花 かえりみれば 目前の御彌堂におはすほとけの御形 かりそめのみ姿なれどもおろそかならず なんとなれば 亡き人々の思い来たりては離れゆく 虚空の思惟像なればなり しかるがゆえにわれら この空しきを礼拝す 然(しこう)して空しとは云わず

 おん前にありてたゞ遠く念仏したまう人びとをこそ まことの仏と念(おも)うゆえなればなり
 宗祖ご上人のみ心の意を体せば 現世はいよいよ地獄とや云わん 虚無とや云わん ただ滅亡の世迫るを共に住むのみか こゝに於いて われらなお 地上にひらく 一輪の花の力を念じて合掌す
                 (熊本無量山真宗寺御遠忌のために)
                          『花をたてまつる』収 石牟礼道子著

読むことは言葉を手渡されること。読むことは、一人の私の感受性に働きかけてくる言葉を味わうということだ。
…長田弘さんの言葉をいただき、どう読んだらよいのかと迷いながらも文言の美しさとリズムを味わい、繰り返し読む。そうする中で、言葉に滲む祈り、願いが心に届く。石牟礼道子そのものの言葉。時を越えて今に生き続けるのを感じる。

50年に一度のこの御遠忌の行事のあと、寺に来て一年もものを云わなかった眞澄少年がまさに蕾がほころぶような美しい笑顔になってきて、静かな声で経をとなえる姿を目にされた。その少年の経を聞いていると、「蓮弁の舞っていた阿弥陀経の時間を思いだす」…とも書かれている(「蕾のまさにほころぶ刻)。

「家族らを5人死なせ、心を通わせていた歌人たちの自殺にも耐え、水俣の被災者らのむごい死を多く見送って」、2018年2月に亡くなられた。あの『苦海浄土』を著わされた。言葉の一語一語に、「石牟礼道子」が映る。


     (日ごと花茎を伸ばし、小さな星のような形をしたハゼランの花が咲きだした)

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