大坂の友人から絵手紙が届きました。京都の醍醐の地で娘さんが新しく暮らし始めています。電車を降りて向かう足元に、はらはらと舞い落ちてきた1枚の桜の葉っぱ。「はじめまして。冬が来ましたね」という声を聴いた、と添え書きが。その愉快さにクスっと。
友人が膝人工置換手術をして、リハビリを終え、来週明けには退院の運びに。日時の約束などできなくても、「またいつかお会いしましょうね」のメールの結びの言葉が嬉しくて、ふっくら温かな気持ちになりました。いずれはジョギングさえ可能になるのだと。
今夕、映画好きの友人から「『ゴッホ最後の手紙』を見てきたけど、すごい作品よ! 絵がすごいのよ。あの自画像が動くのよ。keiさんにオススメ!」と、メールを受信。絵画オンチの私に何をもってオススメなのかはわからずですが、「歴史の謎ときっぽい作品」のようです。いつも自分の感動をもってストレートに勧めてくれる人です。
拾い読みなのですが、今、時々ページを開いて読む『詞華断章』(竹西寛子著)。
詩歌に限らず、散文まで含めた好きな詞華を引用して書かれたエッセイです。昭和63年(1988)8月から平成6年(1994)3月まで朝日新聞に毎月1回連載されていたものが単行本になって1994年12月1日に第1刷が発行。この本の最初の所有者は、発売直後に購入されたのでしょうか。「’94、12、9」と記されて、認印が「石田」と押してありました。
さらには、おそらく文庫本から切り取られたと思われる辻邦夫の〈詩歌を生きるということ〉と題した「巻末エッセイ」が、ホッチキスで留められて挟みこまれていたのです。、『詞華断章』を読んでの感想などが綴られています。
いつだったかの古本まつりで購入し、今は私の手元にあります。この連載を、私は読んでいたはずなのですが記憶に残っておらず、まっさらな気持ちで読み返しました。
「山路の栗」と題したエッセイの冒頭個所です。私は今日この部分を反芻して味わいました。
【 ものに感じる心が人にあり、その心を、互いの言葉で知り合う仕合せと不仕合わせについて思う機会は、作品を読む時、書く時に限らない。
相手と向かい合っての、さりげない会話がきっかけになる場合もあれば、受け取った葉書を手にして、また便箋にペン先を当てたまま、受話器を持ったままという時もある。
訪ねてくれた年少の人が、日ごろ誰でも使うような言葉で、良いものをよいと感じる心を証して帰って行った時など、私は嬉しい置土産を抱く気持ちで、その人の言葉を反芻する。
目上の方をお訪ねして、忘れようのない言葉をひそかに抱いて帰ることもあるけれど、それはたいていの場合は、特別な知識がなくても、聞くだけで、こちらの気持ちが静かに動き出すようなやさしい物言いである。時間がたつにつれて、そのやさしさの根がいかに深く、いかに広く張っているかを知らされる。……事のはじまりは、何でも小さく、やさしく、ありふれているのであろう。】
今日、私はこの文章を反芻しました。さりげない言葉で、心や感情を通わせ合うことの安らぎを思って。
(橋は白川の一本橋)
言葉のふれあいから引き寄せられたように感じます。
ブログを始めた頃、keiさんから いただいた言葉に優しさと知性を感じ
とても励みになりました。
今もそう♡やさしさの根は広く深く張っています。
ありがとうございます。
ブログでは、書かれた文字の向こうっかしを、あれこれ想像しては覗かせていただき、
思いを寄せたりしています。
読んだり書いたり、直接ことばを交わしたり。
心の中に灯ったことばを思い出し、反芻するうちに、じんわりと解けてゆくことに温かさを覚えます。
始まりって小さな一滴ですが、
それがとてつもなく大切なものになっていくことがありますね。