京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

楽しみは心入れて書を読むとき

2021年05月10日 | 日々の暮らしの中で
5年ほど前になったが、中世後期から近世初期を専門とされる歴史学者・田畑泰子さんが、歴史学、歴史小説について語られた地元紙のコラム「天眼」の切り抜きを手元に残している。

その中で、田畑さんの歴史小説との最初の出会いが堀田善衛氏の『海なりの底から』(1961年初版)だったと知り、かなりの親近感を一方的に抱いたのだった。なぜなら少しく年代は違うが、実は私もそうで、高校時代の恩師から読んでおくようにと勧められていた一冊だった。手にしたのは昭和45年発刊・昭和49年8刷となる文庫本。読後は、遠藤周作文学へと誘われていくことになる作品だった。

大作を次々に上梓された歴史小説家の司馬遼太郎さんのことを書かれている。氏はテーマが決まると関連史料や日記、既刊書等々、自費で100万円以上も拠出して古書店などから買い込み、著作に没頭されたという。このことは私も関西文学関係者からお聞きしたことがあった。不要になった書物、資料はトラック何台分も処分されていたと。図書館に通いつめて探し出した点が自分と異なるが、先行研究を読み込んだ上で熟考するという研究姿勢は同じだと言われていた。


そして、最近(5年程前)新鮮さを感じた作品として、諸田玲子さんの『王朝小遊記』を挙げられていた。それを今、私はずいぶんな後追いだが、読もうとしている。学生時代に藤原実資の「小右記」のほんの一端をかじったことがあったが、知らないも同然。ただ、作品はそのものではないから、実資の小右記がどのように下地としてあるのかなど、わからないことと思う。

誰でも知っていそうでよく知らない時代を背景に、歴史上の空白、未解明な部分を新しい発想に基づいて埋める。作家の腕の見せどころであり、読み手の醍醐味と言えるのだろう。史実との絡みなどわからずにいて作品世界に、「虚」に、酔えるだけの作品なら、それもまた素晴らしい。

『熱源』を書かれた川越宗一さんも直木賞受賞後に語られていた。ー 歴史上の人物を描くに際しては、ひるまず踏み込んでいくのが作家の仕事。それが、その人の人生に対する小説家なりの敬意だと思う、と。このところ続いていた澤田瞳子さんの作品群からちょっと離れて、楽しみたい。


こんな下書きを書いていた昼前、昨日アマゾンを通して注文した『プリズン・ブック・クラブ  コリンズ・ベイ刑務所読書会の一年』(アン・ウォ―ムズリー・向井和美訳)が届いた。


『王朝小遊記』を読んで、頭を冷ましてからになる。でも早く読んでみたい。
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