(「ひきこもり」とは)
不登校の生徒が卒業後も家にひきこもっている、
あるいは大学生や社会人になった後に
家に引きこもるようになった。
このような「ひきこもり」は146万人いると推計されます。
親が扶養している間は暮らせますが、
「ハチマル・ゴーマル問題」と言って、
保護者が扶養できなくなった後の自活が課題。
「ハチマル・ゴーマル」の次の段階は
「キューマル・ロクマル」ではなくて、
「ロクマル」が取り残されます。
(ひきこもりの理解)
ひきこもりの方は、なぜ社会に出られないのか、
なぜ仕事に就けないのか、なぜ他人と交流できないのか。
当事者の気持ちを理解することは
不登校児の理解にも通じると思います。
不登校やひきこもりの理解・支援のための本は、
医師や治療者、学校関係者、福祉、民間支援者、
あるいは当事者等からたくさん出ています。
しかしそれらは、各著者の個人的な体験や個人的見解が主で
非常にバラエティーに富んでおり、読者はどれを信じてよいのか
振り回されます。
そんな中で今回ご紹介する
石川良子著「ひきこもりの<ゴール>」は、
石川さんの博士論文をもとにした本であり、
先行研究や多数の主要関連図書を網羅して整理してあり、
ひきこもりや不登校の理解や支援の現状を
全体的に展望・理解できます。
教育や治療、支援にあたる方には必読の基本書と感じました。
これまでの支援は「学校へ行けない」「人と交流できない」
という外的現象面に注目し、学校へ行ったり、
仕事へ行けるようになることが「解決」とみなされてきました。
しかしそのやり方では、当事者の心の面の解決とは無関係。
なぜ行けないのか、なぜ社会と交流できないのかという
「なぜ」の部分が放置されたままになってしまってます。
(本書の要点をご紹介)
p27 ”本人が働くことを望んでいるのだから、
その手助けをすればいい”という意見には賛同できない。
(中略)なぜかといえば、当事者の訴えは多くの場合、
”<社会参加>したいのに、どうしてもできない>
という形をとるからだ。にもかかわらず、
近年は前半の”~したい”ばかりが強調されて、
後半の”~できない”が捨象されているように思えてならない。
p27 一方、”<社会参加>できない”という訴えのほうに重点を置き、
”ひきこもっていてもいい”といった「ひきこもり」肯定論を
展開する論者もいるが、私はこれを支持することもできない。
これはこれで当事者の葛藤や苦悩を素通りしているように
感じられるからだ。
(多田コメント)
外形的に「行けるようになる」ことで「解決した」とみなすことは
根本的な原因解決になっていないことの指摘と、
「そのまま放置すればよい」にも賛同できないという指摘。
p28 こうして考えてくると、求められるのは”<社会参加>
したい”を当事者の意思表示と受け止めると同時に、
等しく”<社会参加>できない”もそれとして尊重する
ことではないか。そして、この二つがどう絡み合い、
激しいジレンマを引き起こしているのかを丁寧に解きほぐし、
なぜ<社会参加>できないのかを考えることではないか。
さらには、当事者がさまざまな理由から<社会参加>
にこだわるのは当然だとしても、彼/彼女ら自身もまた
”<社会参加>できない”という自分の感覚に、
改めて向き合ってみる必要があるのかもしれない。
(多田コメント)
当事者自身の課題も指摘しています。
p126 (ひきこもり当事者が)現在を位置づけられなければ、
過去と未来も不確かとならざるを得ない。
したがって”いま何をやっているのか?”という問いかけによる
苦痛を和らげるためには、その場しのぎの答えを用意したり、
適当にお茶を濁すことができる技術を身につけたりすればいい
というものでは、決してない。
過去と現在の間に生じた亀裂を埋め、未来を思い描けるように
なること。これこそが求められる。
”自己を語るための語彙”の喪失及び獲得は、こうした観点から
捉えなければならない。
(多田コメント)
現在の自己を位置づけられないと、未来の自分も描けない。
p151 「ひきこもり」を”状態”ではなく”過程”と捉える
ひきこもることは、それ以前にありえたのとは
異なる人生の”スタート”と捉えることが可能である。
とすれば”対人関係の獲得”と”就労の達成”のいずれも、
決して”ゴール”すなわち<回復>にはなりえない。
(中略)
「ひきこもり」とは<社会参加>していない”状態”
としてではなく、ひきこもる以前に思い描いていた
自己像や人生像が崩壊したところから
社会に流通する諸言説を取り入れながら、
それらを再構築していく長期的な”過程”として見えてくる。
(多田コメント)
「ひきこもり」を固定した状態として診るのではなく、
以前の自分から新たな自分へ変化する途中の「過程」として
捉える視点は、ブリッジスのトランジション理論みたいです。
(古い自分から新しい自分に生まれ変わる場合、
まずこれまでの考え方ややり方を終える段階があります。
次に何物でもないニュートラルな心理状態となり、
その時期を経て新しい自分が始まります。)
p215 当事者が直面しているのは”<社会参加>する/しない
ではなく”<生きる、生き(られ)ない>という水準の
葛藤であることを示している。(中略)
何を確かめた時に、当事者は社会へと踏み出していけるのか-
に対しては、<生きよう>という意思がその答えとなる。
p229 「ひきこもり」からの<回復目標>をどこに置くのか
答えるとすれば、存在論的安心の確保にほかならない。
つまり、生きることへの覚悟、生きることや働くことの意味
といったものを手にすること、これが本書の提示する
<回復目標>である。(中略)
いずれにせよ<実存的疑問>への答えは、
全面的に個々の当事者にまかされるべきものである。
第三者が特定の答えに誘導したり、その中身に介入したり
するようなことだけは、絶対にあってはならない。
p238 何より大切なことは、当事者一人一人が
自分の人生を肯定し、納得すること、それ以外にない。
p240「社会に問題が起こるのは、実際には、
社会秩序そのものの中に根本的な矛盾があるからなのだが、
そう考えるのではなく、社会に問題が起こるのは
問題そのもののせいだ、と考えるのである」。
この場合は、ある人がひきこもり続け、そこから抜け出せない
のは前述のような社会に問題があるからではなく、
当人の精神力の弱さや怠惰さのためだと見る、というわけだ。
このように、逸脱を「社会の基本的価値観や構造とは関係なく
起こるものとして説明」し、
逸脱的な他者にだけ責任を負わせることを、
ヤングは「他者の悪魔化」と概念化している。
p244 批判の目が向けられるべきは、”私たち”と”かれら”が
ともに生きている、いまこの社会である。
ひきこもっている人々を<社会参加>させるべく
強制的に介入するような支援は、彼/彼女らを矯正の対象
とすることによって、「ひきこもり」を排除することを
迫る社会の在り方を温存させることにつながる。
そうした社会こそが当事者をひきこもらせているという
観点に立つならば、それは結果的に問題解決を遅らせる
ことでしかない。(中略)
ひきこもっている人々を「社会」に適合させるのではなく、
私たちすべての生を充実させてくれるような社会を構想して
いくことが、進むべき方向ではないだろうか。
(多田コメント)
不登校の児童・生徒を、個人的な問題と捉え学校に適合するよう
「矯正」するのではなく、むしろ「学校の方を今の時代に合うように
変えていく必要があるのではないか」という
私のこれまでの指摘を裏付ける分析です。
(参考リンク)
・石川良子教授に聞いた『「生きづらさ」を抱えたあなたへ』の魅力
・文部科学省通知(令和4年6月から一部引用)
「5.学校内の居場所づくり
従来使用していた「適応指導教室」の呼称について、
不登校児童生徒や保護者にとって抵抗感を減らし
親しみやすいものにするため、「教育支援センター」若しくは
各教育委員会等において工夫された名称としていただくよう、
御検討をお願いします。」
(多田コメント)
耳触りの良い名称に変えるけれども、
「不適応者が適応するよう指導する」というスタンスは
変えてないのですね。