K RAUM  お料理を主に日々のことを書いています。

奈良へ⑨

2009年11月25日(水)

朝方は雨でしたが、昼ごろには快晴となり気温も上がりました。


奈良へ(2009年11月14日)

二月堂を背後に築地塀の石段を下ると東大寺の裏手へ出ます。

そのあたりは紅葉やイチョウの落葉が地面にふんわりと落ち、西からの太陽の光線に、とてもきれいでした。連れの人に気遣いうことなく落ち葉を拾えるのも一人は気楽です。遠目にはきれいに見える落ち葉も近づいてみると、少々がっかりの色づきでした温暖化のためかしらきれいな色づきはキーンとするような寒さがないとダメだということを、この秋に軽井沢の中山農園のおじさんが言っていたことを思い出しました。



東大寺の北には正倉院があります。
正倉院はこの塀の向こうにあります。

張り紙に、正倉院外構の見学は3時で終わりました。
えっ 見学できたのああ、三月堂へ上る前に来ればよかった、、、
ああ、準備不足だったと後悔
帰宅後、ネット検索すると、月~金(休日等を除く)の毎日,午前10時から午後3時まで正倉院外構の見学ができるとのことでした。コッコーは春秋の正倉院展の時のみだと思い込んでいましたので、覚えておきましょ。

そろそろ午後四時を周ったので、戒壇院へと急ぎました。




この階段を上ると戒壇院です。

戒壇院

仏教界では僧になるには戒律を守ることを誓う必要があり、その儀式を授戒といいます。奈良時代には自ら戒めを守ると誓って僧と称していましたが、これでは正式の僧ではなかったのです。授戒を授けることができる僧侶に誓いをたてて初めて正式の僧侶となります。日本には僧侶に授戒を授けることができる僧がいませんでした。そこで日本の僧に「正式の僧侶」と認める授戒を授けるために中国の高僧鑑真が来日しました。鑑真は日本に渡るのに5回も失敗して失明までしてしまいました。唐の皇帝玄宗は鑑真の渡日が危険なので許しませんでした。しかし、鑑真は禁を犯して遣唐使の帰り船にのり、753年にようやく来日しました。翌年754年に鑑真は入京して、東大寺大仏殿前に土を盛り上げ、授戒の場所、すなわち戒壇を築き、聖武太上天皇・光明皇太后・孝謙天皇をはじめ430名に授戒しました。その後、大仏殿の西に戒壇院が建てられました。


堂の中心に多宝塔が飾られていて、多宝塔の内部は釈迦仏と多宝仏が安置されています。そして堂の四隅に塑像の四天王が置かれています。これらの像はきりりとしまった端正なお顔とスマートな姿です。天平文化の代表的な塑像です。


小柄でほっそりした天平仏たち

メタボとは 誰のことかと 仏たち
修行の功徳か 前世の果報か



このお堂のレイアウトはいつごろできたのだろうかと、興味を持ちました。というのは、インドのアジャンターの石窟寺院は2種類の石窟があります。1つはヴィハーラ窟ともう1つはチャイティヤ窟です。ヴィハーラ窟は礼拝の場、チャイティヤ窟は修行の場でした。ヴィハーラ窟の中には中心にストゥーパ(塔)を配置し、シャカ像をストゥーパの中かその前面に配置するものがありました。戒壇院の堂内のレイアウトはアジャンターのヴィハーラ窟を模したものかしら。
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