K RAUM  お料理を主に日々のことを書いています。

福岡 2日目④ 観世音寺

福岡 2日目(2009年8月7日)


大宰府政庁跡の向かいの三十三茶屋(みとみちゃや)のおもてなしに癒されたタヌキとコッコーは、再び炎天下を歩き始めました。

まず、学校院跡




次は観世音寺境内の戒壇院(日本三戒壇の1つ西戒壇)



平安時代に学校院と観世音寺はお隣さんで境界争いをしたようです。といっても学校院あとから観世音寺へ距離はありま~~す。

戒壇院



本尊をトリミングします。  木造盧舎那仏坐像 平安時代


堂内には入れないので、正面扉の金網越しに撮りました。
国風文化の彫刻の影響かな?静かなイイ感じでした。

鑑真が持ってきた菩提樹と説明がありましたが、、、命がけの航海で持ち込めたのかな?


この菩提樹の木の向こうに観世音寺があります。
観世音寺の境内に入って振り向くと、その門は西戒壇の門でした。


観世音寺

日本三戒壇とは?
奈良時代につくられた奈良・東大寺、下野薬師寺(東戒壇)と筑紫観世音寺(西戒壇)

戒壇院とは?
仏教の僧侶として守らなければならない戒律を授戒する場所。正式な僧侶となる儀式です。

仏教の戒律とは?
先ず5戒にはじまります。
生き物を殺してはいけません。(この戒律からお肉を食べません)
ウソをついてはいけません。
夫は妻、妻は夫以外の人と関係を持ってはいけません。
盗みをしてはいけません。
その後戒律は増えて250あるとか。
(モーセの十戒(ユダヤ教・キリスト教共通)・イスラム教(四人の妻をもてますが)・ヒンズー教と共通点が多いですね)


仏教は6世紀に日本に伝来したのに戒壇院ができたのは200年後です。仏教伝来からの期間が長すぎるのでは?
その一
仏教が日本に伝来したのは『日本書紀』によると「552年、百済の聖明王が釈迦仏の金銅像と経論他を献上」とあります。または、『上宮聖徳法王帝説』では538年に伝来と書かれています。(どちらが正しいかとの定説はありません)
仏教が伝わると、当時力があった豪族の蘇我氏は仏教推進派、物部氏は仏教反対派として対立しました。蘇我馬子は厩戸王と組んで物部氏を倒して政治の実権を握り、推古天皇・馬子・厩戸王(聖徳太子)の三人体制で、6世紀末から7世紀初頭にわたり30年余り政治を安定させました。日本最古の仏教文化、飛鳥文化が誕生します。その後。蘇我蝦夷・入鹿の権勢を伸ばした時代から蘇我氏の没落の大化の改新を経て、天智天皇、天武天皇・・と歴史は経過します。天武天皇と妻の持統天皇の時期は白鳳文化とよばれ仏教文化ますます進展しました。奈良薬師寺の創建もこの時期です。その後、710年の平城京遷都から奈良時代になります。この時代は仏教を国が保護し、東大寺などの大寺院が「鎮護国家」を祈願(国の平安を祈る)するために建造されました。東大寺などの僧侶は今流に言えば国家公務員にあたり、その活動を国家が統制していました。
 このように奈良時代、8世紀は日本で仏教が興隆しましたが、お経はほんの少ししか伝来していませんでした。奈良の大寺院は釈迦の教え=経典の研究ではなく、その頃までに伝来していたお経の解釈書を勉強していました。さらに、日本には「授戒の制度」も伝わっていませんでした。
その二
奈良地代になると、授戒者(正式な僧侶としての資格を与える者)を求めて日本の僧栄叡と普照が中国に行きました。しかし、何人もの中国の僧は渡日を嫌いましたが鑑真はその求めに応じました。鑑真は日本への渡航を試みましたが、五回も船の難破のために失敗しました。その疲労か海水のためにか、盲目になってしまいました。皇帝玄宗は高僧鑑真が渡日のために命を落としてはと、鑑真の渡日を禁じました。しかし、その掟を破って、753年の遣唐使の帰り船に乗船しました。玄宗皇帝が鑑真の渡日を禁じたので遣唐使の大使藤原清河は乗船を拒否しましたが、副使の配慮により副使の船に乗船し渡日を成しとげました。は官吏となり35年間中国に滞在し玄宗皇帝にも信頼された阿倍仲麻呂は帰国のため大使の船に乗船していましたら、この遣唐使船は難破して、清河も仲麻呂も帰国を果たすことがず、長安に戻り中国の土となりました。副使の遣唐使船は風雨を何とか持ちこたえ753年12月鹿児島に上陸することができました。鑑真は鹿児島から陸路?大宰府に向かい、何日か観世音寺に滞在したようです。その時、観世音寺で日本初の授戒をしたとのことです。翌年、754年に鑑真は平城京に入り、東大寺に戒壇を築き聖武太上天皇をはじめ光明皇太后、孝謙天皇や奈良の僧侶らに授戒をしました。そして、761年に西国の僧侶の授戒の場所としてその観世音寺、東国の僧の授戒のために下野の薬師寺に戒壇を築きました。東大寺を含め三戒壇ができ日本の戒律制度が急速に整備されました。(下野薬師寺を東戒壇、観世音寺を西戒壇)

観世音寺の西戒壇は忘れ去られた存在
平安時代初期、最澄は804年に唐に渡り、翌年天台宗の経典を持ち帰り、朝廷の許可を得て比叡山に日本天台宗を開きました。鑑真も経典を日本にもたらしたと思いますが、その数はわずかだったと思います。日本に本格的に経典をもたらし、本格的な経典の勉強を始めたのは最澄でした。最澄の念願は比叡山に大乗戒壇を設けることでした。当時、東大寺の戒壇院、下野薬師寺・観世音寺の東西戒壇でしか授戒できませんでした。しかも、その戒壇は小乗の戒壇でした。最澄は朝廷に大乗戒壇を作ることを願い出ていましたが、南都(奈良)寺院の猛反対で実現できませんでした。822年、最澄の死後7日目に朝廷から許可が下り、比叡山に大乗戒壇が設けられることになりました。これ以降の僧侶はほとんど比叡山で授戒しています。たとえば、法然・親鸞・日蓮・・・・そのため、三戒壇、その中でも観世音寺の戒壇院は忘れ去られた存在となり、創建当初からの記録もないようです。現在の観世音寺の戒壇院は江戸時代に福岡藩(黒田家)の家臣が17世紀後半に復興しました。
平安時代に僧侶となることを志すものは比叡山を登ったのはこのようなわけがあったからです。しかし、平安末から鎌倉時代には浄土宗(法然)浄土真宗(親鸞)日蓮宗(日蓮)などが成立すると比叡山の大乗戒壇も天台宗の僧侶のみの授戒地になり、さほど日本国としての授戒地の意味もなくなり、政権との関連もなくなります。

さいごに
土を盛り上げたところで授戒式がおこなわれるようですが、釈迦の最初の弟子の五比丘は授戒式はなかったし、戒律もなかったと思われます。釈迦の死後、釈迦の教えの解釈の違いによりサンガ分裂が行われ多数のサンガ(サンスクリット語で仏教教団の意)が誕生しました。さらに、釈迦への尊敬の念から釈迦を褒め称える装飾がお経に盛り込まれました。サンガの維持のためかは分かりませんが、戒律の増加もありました。どうやら釈迦の教えの本質から離れたところで戒律、授戒制度が成立したようです。奈良時代、国家仏教の下で僧侶の統制のために授戒制度は整備されたとみてもいいでしょう。法然から始まる鎌倉仏教は個人救済を目的とするので、従来の授戒という語句も重要性を失ったと思われます。そこで、日本の戒壇は奈良時代という時代を背景としての重要施設だったようで、いつごろかから単なる史蹟としての存在となったのでしょうね。
私にとって、東大寺の戒壇院は天平時代を代表する塑像・四天王がいらっしゃるという記憶が鮮明で、授戒式の場所という印象はない所以もそのようなことかしらとも改めて思うのです。今回の大宰府跡から太宰府天満宮の中間点に観世音寺があったので立ち寄ったという次第で、福岡旅行を計画中には西戒壇について気がつきませんでした。

このブログの場をかりて、日本の仏教史をつまみ食いしてみました。
長々と私の歴史の復習にお付き合いしてくださって有難うございます。
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