戦争を挟んで生きた女性の回顧録

若い方が知らない頃のセピア色に変色した写真とお話をご紹介いたします。

8/15 その2 お盆休みに思う敗戦の日。

2010-08-15 16:01:24 | Weblog
毎日のお客様も今日は日曜日で遠慮したのか、誰も来ない。休めると思えば昨夜から予定が立ててあり、美容院からサンユーへ直行、買う物も決めてある。うちへ帰れば何をどうして何とやら・・・台所仕事も決定してある。作るお料理も決まっている。お盆が明けたらそんなに悠長な事はしていられないから、当分の食料だけは確保しておかなければならない。それも全部暖めれば食べられるようにして置く。或る程度以上は冷凍保存。10種類で半月分、或る物はそれ以上作り置きしてある。今日はその中で作れなかった物、又は材料不足で作れなかった物を中心に短時間で済むように手順まで書いて置く。今晩は竜馬伝があるので忙しい。これだけやるとなると片っ端から洗っていかないとシンクは直ぐ1杯になる。早い事にかけては人に引けは取らない。時には買い食いもしたくなるが、又作っておいた物が残るからと止める事にしている。65年前は食べられれば何でも良かった。何も無かった。お金も無かったと思う。私の東京時代の同級生達は、集団疎開で鵠沼に行った時の話をしてくれた。おなかが空いてどうしようもない時、みんなで砂浜に行き、貝を掘って焼いて食べたと・・・・・その時の私も飢えていた。宇都宮大空襲の後で何もなく、3食ともうちで作ったかぼちゃの出来損ないと大麦の雑炊だった。味付けは精製していない岩塩で、お世辞にもおいしいといえない代物だった。今、私の作り置きの食品群を見て“たまには外食をしてみたい“という気持ちを引っ込めている原因がこれでお分かりであろう!私にとって戦争は記憶から消える事はない。お盆の頃は必ず敗戦の日と重なる。

8/15 終戦記念日は敗戦の日。

2010-08-15 14:54:30 | Weblog
 昨今、戦争に纏わるニュースばかり、去年も一昨年もそうだったが今見るとまるで新しいものを見るような気持ちが起きる。特攻隊の話、少年兵の話、人間魚雷の話、どれを見ても誰が責任を取るのか、責めたい気持ちになる。特攻に行きたくない、行かせたくないといえばどっちも非国民扱いを受ける。警戒警報のサイレンが鳴ると、私の父が市内を逃れて未だ未完成の大曽の横穴防空壕にリヤカーに乗せた子供達を連れて逃れる度、非国民だと指をさして非難された事より辛い事だった。貴金属の供出もあったし、金属類は何でも戦争の遂行に必要だからと供出させられた。お寺や神社の鐘もそんな訳で消えて行った。物は消えても又作る事は出来る。私が1番胸打たれるのは行きたくないと云えなかった特攻隊員やその家族と少年兵達の事だ。その頃私の姉妹は幼かった。2人の弟は小さく、父はひとり息子、母の姉妹は兄ひとりでその兄は軍医、申し訳ない話だが、誰も戦死した人はいない。出征するような年齢に該当する人はいなかった。その頃町を歩くと良く英霊の家と書いた表札が出ていた。戦死者を出した家で、それを見た人はその表札に向かい、最敬礼をするように教育されていた。どんな理不尽も通った世の中が再び来ない事を祈る。