静岡市の製紙工場で、孫文などのすかしが入った特殊な用紙が見つかった。明治大学の研究者が確認し、旧陸軍登戸研究所の発注で中華民国の紙幣を偽造するために作った用紙と判断した。戦前に特殊兵器を開発していた同研究所では偽札も作っていたという証言があり、民間企業を巻き込んで偽札が製造されていた実態が浮かび上がった。

 明治大学平和教育登戸研究所資料館(川崎市多摩区)が昨年7月、「巴川(ともえがわ)製紙所」(本社・東京)の静岡市駿河区にある工場で確認。約30センチ四方279枚がつづられていた。

 資料館によると、用紙には中華民国建国の父・孫文の横顔のすかしがあり、絹の繊維がすき込まれていた。当時の中華民国で広く流通していた5円札の特徴だった。北京の歴史的建造物「天壇」のすかしが入った紙もつづられており、これも当時の別の5円札の特徴という。すかしの出来や絹の繊維の密度などを点検した形跡もあった。

 記されていた文字から、用紙は1940年8月~41年7月に作られたと資料館はみている。偽札作りの責任者だった将校は、戦後に出した本で「偽札作りは39年に始まり、40億円分作った」と記していた。

 資料館によると、中華民国の紙幣は英米の技術を使って香港で印刷していた。太平洋戦争初期に日本が香港を占領すると、機械や原版などを押収して登戸研究所に運び込んだと当時の職員が証言している。ただ、高台にある研究所は紙作りに必要な水の便が悪く、大量の偽札は作れなかったとの見方もあったという。

 登戸研究所資料館の館長を務める山田朗・明治大学教授(日本近代史)は「偽札作りという犯罪に日本が国家として取り組んでいたのは分かっていたが、機密性が高く、用紙も研究所で作ったと考えていた。民間企業も巻き込むことで大量製造を可能にしたのだろう。中国で戦線を展開できたのは大量の偽札で物資を調達できたためと考えられる」と指摘する。

 発見されたつづりは資料館で展示中。問い合わせは資料館(044・934・7993)へ。(渡辺延志)

■「歴史明らかに」活動実る

 敗戦時に証拠を隠滅したとされる秘密活動の痕跡を世に出したのは、「歴史の空白を明らかにしたい」と考える人たちの活動だった。

 登戸研究所の跡地(川崎市多摩区)にキャンパスを持つ明治大学は2010年に平和教育登戸研究所資料館を開いた。14~15年のテーマは「紙と戦争」。「何か残っていませんか」と昨春、研究所と取引のあった企業に問い合わせた。「巴川製紙所」(本社・東京)の返答は予想を超えていた。「すかしのある紙がある」

 同社は06年に社史をまとめた。その時に事務局を務めたのが、常勤監査役の吉田光宏さん(60)。「空白だった戦時中の活動を明らかにしたい」という気持ちで取り組んだ。

 古い社員からの聞き取りに力を入れた。その中に「中国に出征して現地の紙幣を手にした際、私のすいた紙だと思った」と語る人がいた。「サーベルをつるした軍人が絹の繊維を調合していた」との証言もあった。

 社内で屋根裏まで探したが記録は残っていなかった。OBから助言されて点検したのが、工場の電気室に大量に保存されていた用紙のつづりだった。

 そこですかしのある用紙がみつかった。繊維の濃淡によって模様を作るすかしには2種類あるという。孫文の横顔は繊維を濃くする「黒すかし」と呼ばれるもの。明治以来、政府以外は使うことが禁止されていた紙幣専用の技術だった。

 よくみると用紙には書き込みがたくさんあった。すかしの出来具合や繊維の密度などを点検した形跡とみられ、「よほど難しい紙作りだったのだろう」と技術者の吉田さんは思った。自らの定年が近づき、「偶然が重なって残った資料。このままでは散逸する」と心配していたら、明治大学から問い合わせがあったという。

     ◇

 〈陸軍登戸研究所〉 現在の川崎市多摩区に陸軍科学研究所登戸実験場として1937年に開設された。名称は何度か変わり、「陸軍登戸研究所」はその総称。敗戦時に施設は破壊され、資料も焼却されたが、地元の高校教諭らが元職員の証言を集め、風船爆弾の製造、細菌兵器の開発、毒物の合成など秘密性の高い兵器や軍事技術の研究をしていたことが明らかに。明治大学平和教育登戸研究所資料館によると、最盛期の44年には36ヘクタールの用地に約100棟の施設があり、1千人の所員がいたとされる。