※木下裕也先生の「教会・国家・平和・人権―とくに若い人々のために」記事を連載しています。
木下裕也(プロテスタント 日本キリスト改革派教会牧師、神戸改革派神学校教師)
神のはかりをもつ
人はだれしも、自分こそが正しいというはかりを宿しています。このはかりに照らすなら、いつも自分は正しく、他人は間違っているということになります。もちろん、このはかりそのものが最初から曲がっているのです。人間を超えたお方、正義そのものであられる神のはかりを知るとき、人は初めて自分の曲がったはかりから抜け出して、自分や他者や世界を正しく見つめ、はかることができるのです。神のはかりをもって生きるということはきわめて大切なことです。国家の場合にも、このことは言い得ると思います。
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戦時下にあっても受難と抵抗の歴史を刻み込んだ教会やクリスチャンたちがありました。内村鑑三門下、無教会の信徒であった矢内原(やないはら)忠雄【注1】はしばしば日本の軍国主義化を憂い、国のありかたを批判しました。1937年、講演会の席上で神よ、理想を失ったこの国を一度葬ってくださいと語ったことがきっかけで、大学教授の職を負われます。戦後は復職し、日本が平和国家となることにも力を尽くしました。
愛国心ということがよく言われます。クリスチャンにとって国を愛するということが成り立つかどうかということには議論があります。クリスチャンはキリストにあって、もはや自分の国だけを愛するという次元を超えているとも考えられるからです。そこではもはや「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女も」【注2】ないからです。
当時の無教会の人々の場合には、みな国を愛する思いをもっていました【注3】。ただ重要なのは、彼らの場合にはキリスト教信仰の立場から、神のはかりに立って愛国心を考えるまなざしをそなえていたという点です。
矢内原は、国を愛するとは自分の国のありかたをそのまま正当化し、良い部分だけを見て都合のわるいところは隠すということではない、国を神の正義のもとに立たせ、神の正義と平和を映し出す歩みへと導くことこそ真の愛国心であると論じました。そして、神のはかりのもとに置かれていることを忘れ、偏狭なナショナリズムをふりかざして自己中心的なふるまいに走るなら、その国はいかに軍備をかため、経済的に豊かになっても滅びを免れ得ないと警告したのです。
これは預言者的警告そのものです。事実矢内原は旧約聖書の預言者たちの信仰と行動をきわめて重んじていたのです。
【注1】1893~1961。
【注2】ガラテヤの信徒への手紙3章28節。
【注3】内村鑑三自身も、自分は「ふたつのJ」すなわちイエスと日本に命をささげると語り、無教会主義とはこの日本に真のキリスト教を根づかせるための取り組みであると主張していました