http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20140514/p1より転載
2014-05-14
日本国憲法の制定過程(その9) 深謀遠慮の首相幣原喜重郎②
≪①の続きです≫
「問 天皇陛下はどのように考えておかれるのですか。
答 僕は天皇陛下は実に偉い人だと今もしみじみと思っている。マッカーサーの草案をもって天皇の御意見を伺いに行った時、実は陛下に反対されたらどうしようかと内心不安でならなかった。僕は元帥と会うときはいつも二人きりだったが、陛下の時は吉田君にも立ち会ってもらった。しかし心配は無用だった。陛下は言下に、徹底した改革案を作れ、その結果天皇がどうなってもかまわぬ、といわれた。この英断で閣議も納まった。終戦の御前会議の時も陛下の御裁断で日本は救われたと言えるが、憲法も陛下の一言が決したと言ってもよいだろう。もしあのとき天皇が権力に固執されたらどうなっていたか。恐らく今日天皇はなかったであろう。日本人の常識として天皇が戦争犯罪人になるというようなことは考えられないであろうが、実際はそんな甘いものではなかった。当初の戦犯リストには冒頭に天皇の名があったのである。それを外してくれたのは元帥であった。だが元帥の草案に天皇が反対されたなら、情勢は一変していたに違いない。天皇は己を捨てて国民を救おうとさらのであったが、それによって天皇制をも救われたのである。天皇は誠に英明であった。
正直に言って憲法は天皇と元帥の聡明と勇断によって出来たと言ってよい。たとえ象徴とは言え,天皇と元帥が一致しなかったら天皇制は存続しなかったろう。危機一髪であったと言えるが、結果において僕は満足している。
なお念のためだが、君も知っている通り、去年金森君から聞かれた時も僕が断ったように、このいきさつは僕の胸の中だけに留めておかねばならないことだから、その積りでいてくれ給え。」
ここに登場する「金森君」とは、国立国会図書館長、金森徳次郎(1886-1959)のことである。彼は25年秋、幣原衆議院議長を訪ね、日本国憲法成立の経緯を明らかにするように求めた。だが幣原は「まだその時期ではないようです」と答えて、沈黙を護った。
やがてマッカーサーは、自分が幣原の深謀遠慮にはめられたことに気づいたようである。1950年5月3日憲法記念日、幣原は衆議院議長としてマッカーサーを訪ねている。そのとき同行した衆議院事務総長大池真の手記に次のようにある。
「マックァーサー元帥から次のような発言が出たことを記憶している。『日本国憲法制定に当たり、ミスター幣原は日本は一切の戦力を放棄すると言われたが、私はそれは約五十年間早すぎる議論ではないかというような気がした。しかしこの高邁な理想こそ世界に範を示すものと思って深い敬意を払ったのであるが、今日の世界情勢から見ると、何としても早すぎたような感じがする』
堤堯は言う。「ニガ笑いの意味は何か。英語でいえばgrinである。幣原の心中は、改心のニヤリだったのではないか。平たく言えば、幣原はマックをハメ込んだ。・・・憲法九条はいわば『救国のトリック』だった云々。」(堤堯『昭和の三傑』集英社インターナショナル2004年)
堤の書は学術書でなく一般書なので、引用などは不正確なところがあるが、その洞察は非常にすぐれていると筆者には思われる。
以上、まとめておく。マッカーサーと幣原という当事者両名の証言をあえて疑って、9条は幣原由来ではないと主張するのは無理な「ためにする主張」であろう。日本国憲法の三大原理の三つ目、憲法第九条戦争・戦力放棄条項もまた、本質的に国産だと見るのが妥当である。
1946年1月24日に幣原がマッカーサーに戦力放棄についての発案を伝えた。このあと30日に守旧派で国際政治の状況がまったく見えていない自信家の松本委員長による改正案が閣議に配布されているが幣原は沈黙を守っている。そして、2月3日にマッカーサーは件のマッカーサー・ノート三項目を発し、その第二項に戦争・戦力放棄を盛り込んだ。そして、2月8日、松本委員会は松本案をGHQに提出したが、これは当然棚上げにされ、2月10日GHQ草案は完成し、13日に日本政府に提示された。
1946年3月6日、日本政府は戦争放棄、象徴天皇、基本的人権などを盛り込んだ「憲法改正草案要綱」を発表したが、同時に、昭和天皇は次の勅語を発している。
「朕曩(さき)ニポツダム宣言ヲ受諾セルニ伴ヒ日本国政治ノ最終ノ形態ハ日本国民ノ自由ニ表明シタル意思ニ依リ決定セラルベキモノナルニ顧ミ日本国民ガ正義ノ自覚ニ依リテ平和ノ生活ヲ享有シ文化ノ向上ヲ希求シ進ンデ戦争ヲ放棄シテ誼ヲ万邦ニ修ムルノ決意ナルヲ念ヒ乃チ国民ノ総意ヲ基調トシ人格の基本的権利ヲ尊重スルノ主義ニ則リ憲法ニ根本的ノ改正ヲ加ヘ以テ国家再建ノ礎ヲ定メムコトヲ庶幾フ(こいねがう)政府当局其レ克ク朕ノ意ヲ体シ必ズ其ノ目的ヲ達成セムコトヲ期セヨ(官報号外)」(アンダーラインは筆者による)
昭和天皇の勅語には、ポツダム宣言受諾を法的根拠として、戦争放棄、国民主権、基本的人権の尊重が表現されている。公文書として、「昭和天皇が、はっきりと「ポツダム宣言の受諾」という言葉を使ったのはこれだけですが、ここには国民主権の原則も戦争放棄も基本的人権の尊重も明記され、それが『朕の意思』であると宣言している。」(河上民雄「<河上民雄氏に聞く>「日本国憲法」をいま新しく考える―憲法研究会の「憲法草案要綱」をめぐって―」)昭和天皇はすでに徹底した憲法改定をするように、幣原に指示を与えていた。古関(前掲書pp20-22)はこの勅語を分析して、大急ぎで作られたことを明らかにし、最初の二行つまり「朕・・・顧ミ」の部分は幣原文書によればGHQとの交渉のなかで加えられたことを指摘している。GHQにとって天皇がポツダム宣言の要求する国民主権を自らの意思で履行することを確認するために加える必要があったとしている。その通りであろうが、さりとて勅語の公文書としての意義は変わらない。
結び
以上のようなわけで、たしかに「日本政府にとって」日本国憲法はGHQによって押し付けられたものであった。しかし、押し付けたれたものの骨子は、日本のリベラル派の発案によるところが大きく、それが米国の親日派の研究結果としての対日戦後処理政策と一致したものであった。
日本国憲法の特長は、「国民主権」「基本的人権の村長」「平和主義」および「象徴天皇」である。日本国憲法の「象徴天皇(儀礼的天皇)」「国民主権」「基本的人権」は明治期の自由民権運動の思想的指導者植木枝盛を源泉とする鈴木安蔵から出ており、憲法の「平和主義」は戦前平和外交に徹し戦争放棄を理想としていた幣原首相を源泉としている。ハワイ旅行でお土産物屋さんに押し付けられたのだけれど、家に帰ってよくよく見てみたらmade in Japanとあったというようなものである。
しかも、憲法9条は、日本の青年たちが米国の尖兵として朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争など米国が各地で行ってきた戦争に使役されることを防いできたことは、先に指摘したとおりである。まさに、深謀遠慮の宰相幣原がひそかに意図したとおりである。
1946年5月27日の毎日新聞に憲法に関する世論調査の結果が掲載されているが、象徴天皇制に反対した人は13パーセントにすぎず、85パーセントの人が支持している。当時の日本国民は国民主権となった新憲法を支持していた(伊藤真『伊藤真の日本一わかりやすい憲法入門』2009年p60)
日本国憲法の三大原則は、<国民主権・基本的人権の尊重・平和主義>であるが、前の二つの原則は、明治の自由民権運動の憲法案(特に植木枝盛)を研究した鈴木安蔵が起草した憲法研究会案が出典であり、第三原則は時の総理大臣幣原喜重郎の発案である。象徴天皇制も内容的には憲法研究会の儀礼的天皇と一致している。これらがGHQによって英訳され肉付けされて、GHQ草稿日本国憲法が作られ、これを日本政府が邦訳した。日本国憲法はこういうわけで、その根本的要素については逆輸入国産品であるといってよい。
大きな歴史の流れを見ると、明治初期の自由民権運動を国権論の帝国憲法が押しつぶして軍国主義に暴走して破綻し、戦後、民権論が復活して日本国憲法ができた。しかし、今また、自民党改憲案(2012年4月27日版)は昔の国権論に戻そうとしているわけである。
日本は憲法9条の戦争放棄条項のゆえにこそ、米国の世界戦略の戦争に巻き込まれ、米国の奴隷とされることなく歩むことができた。実際、憲法9条のなかった韓国はベトナム戦争に延べ35万人の兵士を出させられ、4万人のベトナム人を殺し、5000人の戦死者を出した。もし9条がなければ、日本の青年たちもまた、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争、その他で多くの血を流させられたであろう。
以上のようなわけで、いわゆる自主憲法制定こそ対米追従の奴隷の道であり、日本国憲法こそ自主の道なのである。自民党憲法改正草案が実現され9条が改変されていくならば、日本はますます対米従属へと進むことになってしまう。