http://mainichi.jp/shimen/news/20150802ddm001040136000c.html
ストーリー:日赤救護班「熊本第六六八」(その1) 語られた戦時の看護
毎日新聞 2015年08月02日 東京朝刊
阿蘇山の南に位置する熊本県の農村で、赤紙が来るのを待ちわびていた。戦死、戦傷した4人の兄を思うと、戦地へ赴くことは怖くなかった。「私もお国のために」。少女の心に迷いはなかった。
福岡市で暮らす津村ミトメさん(93)が、心に深く刻み込まれた記憶の糸をゆっくりとたぐる。「さっき食べたご飯は忘れても、あの日々は覚えてるんですよ」。戦時下、海軍病院に派遣された日本赤十字社の看護婦だった。
陸軍大臣や海軍大臣は日赤に要請し、看護婦は赤紙で召集された。1937年の日中戦争開戦から太平洋戦争にかけて、組織された救護班は計960班。延べ約3万3000人が戦地や、国内にある陸海軍の病院へ「出征」し、主に兵士の看護という任務に就いた。日赤の記録では、殉職者は1000人を超える。
44年夏に召集された津村さんの初任地は長崎県の佐世保海軍病院。その後、長崎原爆の被爆者、精神を病んで前線から戻された兵士をみた。「治療じゃないの、何もできない。慰めるしかできなかった」
戦時下の医療に関する公的記録は少ない。日本軍は戦後、多くの重要書類を処分した。軍医や看護婦ら個人の手記や証言が貴重な手がかりだ。津村さんは戦後、看護婦を続けようとしたが「女は家庭」の時代、思うように歩めなかった。3人の子を育て、夫の転勤で故郷を離れた。看護婦だった頃を話すことも書き残すこともなく、時は流れた。
「私も昔、看護婦だったのよ」。病院に通ったり、訪問看護を受けたりするようになり、若い看護師を相手に昔話をし始めたのは最近のこと。点滴が終わるまで、マッサージ治療が終わるまで、少しずつ打ち明けていった。
津村さんの話に驚いた医療関係者から、記者の元に連絡が来たのは今年初め。自宅を訪ねると、津村さんは訪問看護師と共に迎えてくれた。語られることがなかった日赤救護班「熊本第六六八」の看護婦が見た戦争である。
http://mainichi.jp/shimen/news/20150802ddm010040142000c.html
ストーリー:日赤救護班「熊本第六六八」(その2止) 染めた看護服
毎日新聞 2015年08月02日 東京朝刊
◆太平洋戦争下、国内医療の現実
◇届いた赤紙「よし!」
兄たちの敵をとりたい。兄たちが不幸な思いをしているのを見ていたからですね。5人の兄のうち4人が軍隊に召されていましたからですね。
津村ミトメさん(93)=福岡市=は、右頬を隠すように体を斜めにした長兄の写真を見つめた。20歳ほど年の離れた長兄は旧満州(現中国東北部)に出征し、凍りつくほどの寒さで固まった右頬を上官に殴られた。大きな傷痕が消えなかった。
可哀そうでたまりません。傷のせいでいつも居心地が悪そうで。四つ年上の兄は名誉の甲種合格。万歳、万歳って送り出して、生きて帰れませんでした。「霧島」だったと思います。南方の海に軍艦と沈みました。機関兵で肺浸潤(結核)になり、治療途中で帰された兄もおります。炭鉱で勤労奉仕をしていた兄もいます。
私は女学校を卒業して、進路を決めかねていた時に、日赤が看護婦を募集しているというのを新聞で見て。16、17の頃だったと思います。私もお国のためにって受験したんです。
京都市の日赤看護婦養成所で3年ほど学んだという。養成所を終えた津村さんは故郷の熊本へ帰り、召集を待つ。知らせが来たのは22歳の1944年6月ごろ。米軍がサイパンに上陸し、7月にはインパール作戦が中止される。だが、戦況の厳しさは国民に知らされていなかった。
赤紙です。本当に赤い紙。よし、よし!って思いました。それはもう、うれしくて。どこへ出征するかは分からない。怖くなんかない。病気になってけがした兵隊さんが可哀そうで。慰めてあげたいというのが一番の思い。(私のことを)親戚中、喜んで送ってくれて。村中の婦人会や在郷軍人会の皆さんに送られて。万歳、万歳で。沖縄に行く準備をしておくように言われたと記憶しております。
今は米軍施設となった長崎県の佐世保海軍病院が最初の任地だった。津村さんは熊本県出身者が多い「熊本第六六八」に所属。約20人の看護婦がいた。
いくつも病舎があって。私は第11病舎。結核病棟でした。すぐそばにオペができるほど大きな防空壕(ごう)があって、空襲警報の度に患者さんを運ぶ。裏は兵舎。この頃は(空襲で狙われるため)白い看護衣を染めて。グレーというか緑みたいな色に。
そのうち、どんどん患者さんが増えて。それで、熊本班は武雄温泉(佐賀県)に移りました。終戦の1年ほど前。武雄の女郎屋さんを全部、海軍が借り上げて病舎にしていましたですね。私の病舎は「満州楼」っていう女郎屋さん。3階建てで、部屋に2人ずつ兵隊さんを寝かせていました。毎朝が起床ラッパ。「総員起こし、5分前」の号令で。朝6時前にね。
帰りたがっていた兵隊さんもいましたよ。胃が痛くてたまらないって言うから、手術して開けてみたら、きれいだったんです。軍医さんが怒って、縫合もしないで行ってしまった。だから私たちが見よう見まねで縫合したんです。兵隊さんには家族がいますからね。病気ということにして帰りたかったんでしょう。
「日本海軍史」(海軍歴史保存会発行)によると、海軍は入院患者の激増で病院を次々と新設。武雄の他に、湯河原、雲仙、熱海、城崎など温泉地が記されている。武雄に残る記録は少ないが、ラッパの音を覚えているお年寄りに会えた。「遊郭は10軒以上ありましたな。ガリガリの兵隊さんが哀れでねえ」
遊郭があったという場所に建つ旅館「白さぎ荘」を訪ねると、オーナー夫妻が館内を案内してくれた。武雄で唯一、中庭に架かる太鼓橋や急な階段など遊郭の特徴的な構造を残しており、偶然にもこの旅館がかつての満州楼だった。「兵隊さんがお礼に毎朝、太鼓橋を拭き掃除してくれて、お陰で漆がはげた」という話が旅館に伝わる。
特攻に行く兵隊さんもお見舞いに来ましたですよ。佐世保から出撃前の。入院してる兵隊さん、耳なくしたり、手なくしたり、そういう人がいっぱいいましたからね。「行くから」って。特攻の兵隊さんをよく見かけました。戦況は悪くなっていたんでしょうけど、「敵の損害は甚大なり。我が方の損失は僅少なり」って、終戦直前まで新聞は書いてました。アメリカに負けるなんて思いません。いつか神風が吹くって思ってましたから……、バカみたいね。
◇「治療じゃない。何もできない」
45年8月6日、広島に「新型爆弾が使われた」ことを津村さんは新聞で知る。そして9日、原爆は長崎に投下された。戦後30年近くたって取得した津村さんの被爆者手帳には「12日入市」とある。
計り知れない爆弾が広島に落とされた、長崎にも落とされたと聞いたように思います。「長崎へ救護に向かえ」という命令が下されたんでしょうか。婦長から青酸カリを渡されたのも、この頃だったと思います。覚悟しました。アメリカ兵は何やるか分からんって言われて。
トラックや汽車を乗り継いで、焼け野原を歩いたはずなんですけど、どうやって着いたのか覚えていません。諫早から入ったと記憶しますが、これは、何なんだと。もう、何もない。緑がない。建物がない。山の上から谷底まで何もない。
爆心地から約3キロ。津村さんたちは救護所となっていた新興善(しんこうぜん)国民学校に入った。医療なき救護現場だった。
窓がたくさん割れていて、ガラスをいっぱいよけて。ベッドなんてない。兵隊さんが次々と患者さんを運んできて、床に寝かせていく。ひどいやけどの部分は化膿(かのう)して、びっしりうじ虫がわく。やってあげることは、体拭くなんてどころじゃない。うじ虫取って。消毒薬もなくて、海水くんできて、じょうろで(かける)。でないとガーゼが離れない。ぴたっとくっついてしまう。しばらくしてガーゼを取り換えて。その人は明くる日は死体となっていたり。薬もないし、私たちがしたことは治療じゃない。つらい……つらかったです。さっき水をくださいって言った人が、あっという間に事切れる。亡くなるとうじ虫が生きてる人に移動していく。「うじ虫が……」ってどこからか聞こえてくる。
夕方になると、お医者さんが回ってきて、死んだ人に印をつける。夜勤の時は、その人を死体が山積みになった校庭に運ぶ。あの光景を見て、あきらめました。もうだめだって。怖かったです。まっ暗闇の中、2人でちょうちん一つ持って担架で死体を運んで、山と積まれたその脇に置いてくる。上には乗せられない。それから兵隊さんが油をかけて焼く。最初に置かれた死体は最後まで残るから、体から脂が出てくる。その臭いと死体を焼く臭い。玉音放送なんて聞いていません。そういう中での終戦でした。
熊本班の任務は解かれず、やがて全員の体に異変が起きた。40度近い高熱に激しい頭痛、倦怠(けんたい)感。被爆した可能性があったが、当時はデング熱などと言われた。9月初旬、熊本班は「療養のため」に佐賀県の嬉野(うれしの)海軍病院へ送られ、伝染病棟に隔離された。熱も下がり、任務に戻った場所は敷地内にある精神病棟だった。心を病み、戦地から戻された兵士たちが入院していた。
精神病棟はね、奥の方。敷地の一番奥の方でしたよ。窓には格子。2階が病棟で、3階が電気ショックの部屋。普通に平凡に暮らしていた人が戦地に行って、殺したり殺されそうになったり。発狂しますね、それは。怖かったんだろうなって思いますよ。床屋さんだった人はカミソリを持たせるとおとなしい。刃物は怖かったけど、うなじをそってくださいよって明るくお願いするの。(自分が)安心して、してもらわないと本人に伝わるから。踊りの先生は踊らせれば落ち着く。
海軍病院跡地には今、国立病院機構嬉野医療センターが建つ。当時の資料が残っていないか訪ねると、唯一、廊下の壁に掛けられた古い配置図があった。2000年ごろに記念誌をまとめた海軍病院の元職員を捜した。既に亡くなっていたが、直筆のメモが記念誌に貼られていた。「終戦時、機密文書、その他重要書類は全部焼却せよとの海軍省の命により、大事なものは何も残っておりません」
当時、精神を病んだ帰還兵の治療方針は、どういうものだったか。97年発行の専門誌「精神医療」に元海軍軍医の回顧が掲載されている。「海軍には精神病患者やその治療についての関心、配慮は全くありませんでした。皇軍に頭のおかしいものなどいないという信念の時代であったし……」
治療という治療はありませんでした。暴れる人もいましたけど、いつも電気ショック。昔の治療はそれだけ。(患者は)嫌がって。3階へ上るのにだましてだまして。楽しいことしましょうねって手拍子したりとか。私は患者さんを横にして部屋を出る。通電の時以外、軍医さんの姿はほとんど見なかったですね。看護婦としての役目を果たせない。笑顔でいること以外、慰めるすべがないんです。優しくするしかなかった。
拭いても拭いても、自分の排せつ物を壁に投げる人がいました。精いっぱいの抵抗だったんでしょう。何だ、こんちくしょう!って。普通に暮らしていたのに、いきなり召集令状で呼び出して、たたかれてたたかれて、殺し合いをさせられて。だからもう、自分の排せつ物を壁にぶっかけて。精神病棟にいたのは2カ月ぐらいです。あの人たちはどうなったのか。みんな戦争から帰ってきた20代ぐらいの若い兵隊さんです。
心に傷を負って帰る場所を失い、病院や療養所で生涯を閉じた「未復員」の兵士は少なくないという。厚生労働省の最新の統計(13年度)では、戦傷病者手帳を交付された精神を病む7人が施設に入院している。
戦後も任務が続いた「熊本第六六八」の看護婦たち。嬉野海軍病院にいた頃に撮った写真には笑顔がある。看護衣は白に戻った。後列左から2人目が津村さん=津村さん提供
熊本第六六八は嬉野海軍病院での任務を終了。46年6月に「召集解除」となり、それぞれの故郷へ帰っていった。津村さんは古い写真を大切にしまっている。仲間たちとの楽しい思い出もある看護婦時代の2年間。武雄では兵隊さんから自転車の乗り方を教わり、仕事のない日は麦畑に出かけておにぎりをほおばった。
だが、体験を手記にした元看護婦がいる一方、六六八は何も残さなかった。日赤熊本支部が発行した支部史の記録からも、新興善国民学校で活動した事実は抜け落ちている。六六八と行動を共にした軍医の子を取材すると、「大変だったとしか聞いていません」という答えが返ってきた。
誰にも話せなかったんです。話したい話じゃないでしょう。私たち熊本班は戦後、集まることは、ほとんどありませんでした。何も残さない、話さないまま、ほとんど死んでしまいました。
感謝してるんです、今こうして生きていて、子供も育って、孫もいて。でもね……、悔しかったです。「原爆菌を持って帰ってきた」って言われて。
最後のインタビューは7月中旬だった。別れ際、どちらからともなく手を伸ばした。「あなたは幸せになってね」。ベッドから身を起こした津村さんが、細い手で私の手を握った時、その強さにはっとした。津村さんには言葉にできない体験がまだあるのだろう。そんな思いが頭をよぎり、心が乱れた。
「今まで話せなかった、つらくて。でも、もうこれ以上、私の体ももたない。この国は昔、お国のために頑張った若い子たちをぼろぼろにして、捨てたんです。戦争は誰も幸せにならない。この国がどういうふうになっていくのか、私には分かりません。でも、嫌なんです、戦争は。また苦しむ人が、きっと出るから」
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◆今回のストーリーの取材は
◇山田奈緒(やまだ・なお)(東京社会部)
2005年入社。京都支局、阪神支局を経て10年から東京社会部。司法を担当した後、13年春から遊軍で平和取材に携わる。昨夏からはTBSテレビとの共同プロジェクト「千の証言」を担当している。今回は写真も担当した。