更新 2015/8/15 11:30
終戦から70年が経ち、減っていく戦争経験者たち。モデルで国連WFP日本大使の知花くららさん(33)の祖父、中村茂さん(86)は、沖縄戦で米軍の捕虜となったひとりだ。当時、住民は「捕虜になるのは恥」だと教えられていたため、集団自決をしようとしたが、中村さんは生き残ったのだ。かつて戦場だった森の中を歩いていたとき、知花さんの背後で突然立ち止まって「生き残って申し訳なかったなあ」と言ったという。その意味とは。
* * *
死ぬために逃げ惑った地獄から解放されホッとしたのだろうか、祖父ははじめて空腹に気づいた。そのとき米軍からもらったチョコレートの味が、今でも忘れられないという。
これまで食べたことのない、ぜいたくな甘さが、空腹にしみた。15歳の少年の心は、揺れた。
「このチョコレートも缶詰も、自決してしまった親戚や友だちはもう食べることができない。同じように、おなかをすかしていたはずなのに」と。
「今でも、おいしいものを食べるたびに、分けてあげたかったなあと思うんじゃよ」
祖父のその言葉を聞いて、私の中で長年思っていた、心のわだかまりがすっと消えてなくなった。「生き残って申し訳なかった」という、数年前に聞いた祖父の言葉は、自分こそ死ねばよかったという呵責(かしゃく)の念からではなかった。生きていることを今、後悔しているからでもない。
戦争終結から70年経って平和に暮らしている自分。そしてあのとき亡くなった人たちの、あまりに短かった人生を思い、「自分たちだけ、本当にすまないね」と、祖父は心の中で手を合わせているのだ。魂が安らかにあるように、と。祖父は今も、むごい光景と、無念にも亡くなっていった魂とともに生きている。
大きく一息ついて、祖父はまた、語り始めた。
「どうしてあのときあの日本兵たちは『死ぬなよ』と、ひとこと言ってくれなかったんじゃろうか」
いつも穏やかな祖父が、珍しく怒っている。運命をともにする同志とさえ思っていた。戦争が始まるまでは、ときに言葉をかけあい、弁当を一緒に食べたこともあった。
けれど、いざ米軍の攻撃が始まっても、日本兵の姿は見えず、いつの間にか住民に何も告げずにいなくなってしまったのだ。せめて一言、軍人としてではなく、同じ人間として「今、死んではだめだ」と言ってくれていたら。そうすれば、罪のない住民が自決で命を落とす必要などなかった。
戦争の犠牲になった命は、もう戻ってはこない。怒りに見え隠れする深い悲しみは、きっとこれからも消えることはない。
「命(ぬち)どぅ宝だよ、くらら」
祖父母はいつもそう言っていた。命こそいちばん大切な宝もの。今なら、その言葉の本当の意味が分かる気がする。祖父が、心の痛みを抱えながらも、つないでくれたこの命がいとおしい。
二度と同じ過ちを繰り返さないために、今度は私たちの世代が語る番だ。70年前に起こった悲惨な歴史を、そして平和への思いを。
※週刊朝日 2015年8月21日号より抜粋