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泉田前新潟知事、自民より出馬!(新潟5区)~古賀茂明「“究極の演技派”泉田前新潟知事の裏切りで笑う安倍自民党」2017.9.18

2017-09-19 09:18:10 | 政治 選挙 

※実は、泉田氏は「反東電」ではあったが、「反原発」でも「脱原発」でもなかった!!

  条件さえ整えば、再稼働しても良いという「条件付き再稼働容認派」だったのだ。

2016年10月、新潟県知事選で泉田氏に支援を要請した二階幹事長 (c)朝日新聞社
2016年10月、新潟県知事選で泉田氏に支援を要請した二階幹事長 (c)朝日新聞社

 

https://dot.asahi.com/dot/2017091700027.html?page=1より転載

古賀茂明「“究極の演技派”泉田前新潟知事の裏切りで笑う安倍自民党」

2017.9.18 07:00 dot.

 自民党は9月13日、衆議院新潟第5区の補欠選挙(10月22日投開票)の公認候補に泉田裕彦前新潟県知事(54)を推すことを決めた。

 報道では地味な扱いだったが、実はこれは今後の政局に大きな影響を与える事件だ。

 支持率が大きく低下し、「安倍一強」の危機と言われるが、その最大の原因は、都議選大敗で、「選挙に強い安倍」というイメージが崩壊したことにある。

 仮に、10月22日に青森、新潟、愛媛で行われる3つの衆議院補選で自民が1勝2敗以下の戦績となれば、「安倍ではもうダメだ」という印象を決定づけ、来年の総裁選の見通しは極めて暗くなる。逆に、3戦全勝となれば、「選挙に強い安倍」というイメージが復活するかもしれない。

 補選が行われる3県はいずれも自民党が強い地方の選挙区だが、最近の新潟は例外だ。2016年夏の参議院選挙では、野党連合の森裕子氏に敗れ、また同年10月の新潟県知事選では、民進党抜きの弱小野党連合候補の米山隆一氏に大差で敗北を喫している。

 泉田裕彦氏は、新潟県知事を12年間務めた実績もあり、抜群の知名度を誇る。しかも、保守政治家でありながら、脱原発の野党や左翼系の市民にまで幅広く支持されるスーパースターだ。安倍自民としては、喉から手が出るほど欲しい候補である。

 民進党も、立候補を要請したが、あっさりと断られ、先の見通しは立っていない。

 このまま行けば、新潟での自民党勝利は固い。愛媛と青森で1勝1敗なら、全体では2勝1敗の勝ち越し。うまく行けば、3戦全勝も視野に入って来る。


■“反原発”とは言わない、実は「再稼働容認派」

 泉田氏が自民から出馬と聞いて、「反原発の泉田氏が原発推進の自民から出るのはおかしい」と思った方も多いだろう。

 私は、経済産業省時代に泉田氏と一緒に仕事をしたこともあり、彼が県知事なってからも折に触れて連絡を取ってきた。昨年の知事選前後も会食や電話などで連絡を頻繁に取った。

 そんな私にとって、今回の「自民から立候補」という話を聞いての印象は、「ああ、やっぱり」というものだ。

 私が知る泉田氏は、「反原発」でも「脱原発」でもない。ただ、「反東電」ではあった。中越沖地震で起きた柏崎刈羽の火災事故の際の東電の対応や、福島第一原発事故後の東電の嘘と情報隠蔽への泉田氏の反発は特に強かった。泉田氏は、「福島の事故の検証が終わっていないのに再稼働の議論をすることはできない」とか、「避難計画が万全のものになっていないまま再稼働できるはずがない」と繰り返し述べ、東電の廣瀬直己社長(当時)に非常に強い口調で批判をしていたので、いかにも「脱原発派」だという印象を国民に与えていた。

 しかし、彼は自身でも認めていたが、決して「反原発」でも「脱原発」でもなかった。条件さえ整えば、再稼働しても良いという「条件付き再稼働容認派」だったのだ。


■究極の演技派? 新潟知事選直前の辞退は出来レース

 泉田氏は、世の中では、原発再稼働を止めている知事として有名だったが、それ以外はあまり知られていない。しかし、私の印象では、彼はどちらかというとタカ派的な保守政治家だ。国政にも強い意欲を持っていたが、出るなら当然自民党ということになる。その観点から見れば、昨年の知事選辞退騒動は、彼にとっては非常に合理的な選択だった。

 昨年春には、近々、柏崎刈羽原発再稼働が原子力規制委員会の審査で認められるという見通しだった。これは泉田氏にとって非常に厄介な問題だ。一般には、泉田氏が原発を止めていたという印象が広がっていたが、実は、止めていたのは規制委であって、泉田氏は外野から東電批判をしていただけだった。

 しかし、規制委がゴーサインを出せば、次は県知事の同意という段階になる。それは県知事に「原発を止めるか動かすか」の踏み絵を迫る。不同意なら、安倍政権とは決定的な対立となる。将来、自民党から国政に転出したい泉田氏としては、非常に困る。

 一方、再稼働に同意すれば、市民から「嘘つき」というレッテルを貼られる。そのどちらをも避けるには、知事を辞めるしかない。「逃げるが勝ち」ということだ。

 その場合、彼としては、当然、保守層の支持を維持するとともに、野党支持者や無党派層の支持も減らしたくない。彼は、選挙直前に出馬辞退を表明することで、この相矛盾する要請を両方満たす答を出すことに成功した。

 彼は最後まで、なぜ出馬を辞めたのかという問いに対して、地元紙・新潟日報との対立という理解不能な言い訳を述べるだけで、最後まで有権者を納得させる答をしなかった。

 当然、世間では種々うわさが飛び交った。さらには「命を奪われるような怖ろしい脅迫を受けた」という話がまことしやかに広がった。

 泉田氏は、「私からは具体的には何も言えないが、いろいろなことがあるんです」というような思わせぶりな発言をして、こうした噂が広がることをむしろ助長していた感がある。

 これによって、彼は一気に「悲劇のヒーロー」となった。いわば、市民がだまされるのを放置したのである。

 これを称して、「究極のペテン師」ということもできるし、それが言い過ぎだとしたら、少なくとも、「究極の演技派」とは言えるだろう。

 一方、選挙直前の辞退によって、自民党は非常に有利な立場に立ち、逆に野党側は不戦敗さえ懸念された。泉田氏としては、自民党に大きな恩を売った形である。

 実は、この時から泉田氏と二階氏の間には、国政進出を二階派丸抱えで支援するという密約があったという説があるが、その後の展開を見ると、非常に納得のいく説である。密約がなかったとしても、少なくとも、泉田氏が、後の展開を予想して、うまく立ちまわったということだけは言えると思う。


■私が泉田氏に抱いた二つの疑念

 その後、米山隆一氏(現新潟県知事)の出馬で情勢は急転するが、その選挙戦で私が非常に不審に思ったことが二つある。

 まず、泉田氏が市民連合の再三の求めにもかかわらず、再稼働慎重派の米山氏を支持することを最後まで断り続けたことだ。今から考えれば、自民党との関係で米山氏支持は打ち出せなかったということなのだ。

 さらに不思議だったのは、泉田氏は、選挙戦終盤で、二階俊博自民党幹事長の求めに応じて、官邸で安倍晋三総理と会談した。これを受けて、菅義偉官房長官が、「知事にお越しいただいたことは大きい」と述べて、泉田氏と自民党の蜜月ぶりをアピールした。

 これは、二階氏が要請したものだが、それに乗った泉田氏は、明らかに将来を考えて、二階氏と安倍総理に恩を売ったのである。

 この時、私は彼が二階派から国政に出るつもりなのではないかという疑念を抱いた。人気抜群の泉田氏だが、実は、いつも「お金がない」と漏らしていた。資金面の面倒を見てくれそうな二階氏とのタッグは「願ったりかなったり」のものだったのだろう。少なくとも、彼にそうした思惑があったとしても何ら不思議はない。

 地元の自民党関係者やマスコミの話では、この夏前までに、泉田氏は、5区ではなく4区から立候補することになっていたそうだ。泉田氏は元々4区の加茂市出身。既にかなり積極的な選挙準備の活動が展開されていたという。

 そこに突然の5区長島忠美議員の死去で、5区候補として急浮上したのである。

 泉田氏としては、今5区で出ても、すぐにもう一度衆議院選がある。ここは自重して、4区から出る方が得だ。5区から出れば、4区で活動している後援者たちへの裏切りとなる。

 実は、泉田氏が最後まで迷ったのは、「脱原発派への裏切り」の問題ではなく、「4区への裏切り」問題だった。結局5区から出ることにしたのは、二階氏や安倍総理への大きな貸しになるからであろう。


■泉田氏の裏切りと言い訳とは?

 泉田氏は、「4区支持者との関係で、大義名分が必要」と繰り返していたそうだが、今回彼は、しきりに故・長島忠美衆議院議員(5区の補選は同氏死去によるもの)及び山古志村との関係を強調している。彼の口からは、知事になって最初に公務で会ったのが当時の山古志村の長島村長で、一緒に震災対応を不眠不休でやったとか、最後の公務で訪れたのが山古志村で、住民から感謝と激励の言葉をもらったなどの話が出て来る。そうした「深い縁」が大義名分になるということなのだろう。

 裏切りと言えば、もう一つ、「原発推進の自民党から出るのは、脱原発を願う県民への裏切りだ」という批判への言い訳も必要だ。

 そこで、彼が用意した言い訳は、二つ。

 まず、「自民党を変えなければ脱原発は実現しない」というものだ。しかし、彼が自民党で脱原発を叫んだとしても全く意味がないだろう。永田町で彼に一目置く政治家など皆無だ。私が良く知る経産省OBの政治家も、泉田氏のことを「ああ、あの人ね」と見下している。自分が自民党を変えるなどと言うのは、選挙のセールストーク。本気で言ったら、「寝言」だと馬鹿にされるだけだ。

 もう一つの言い訳は、「米山知事の裏切りを止める」である。泉田氏は、最近、米山知事批判を強めている。彼によれば、米山氏は、再稼働を止めるためのいくつかの歯止めを少しずつ外しているというのだ。そこで、県庁にいろいろ言っても、自分は無役で影響力がない。国会議員になれば、地元選出の国会議員の声を無視するわけにはいかなくなるので、自分が再稼働を止める役割を果たすというようなことを言っている。これもかなり苦しい言い訳だ。そんな批判をするなら、なぜ、知事を辞めたのかという批判がでるだろう。

 ちなみに、最も重要なポイント、泉田氏の「再稼働反対は嘘だったのか」という疑問に対する言い訳が気になるかもしれないが、実は、その言い訳は必要なさそうだ。

 なぜなら、泉田氏は、今も支持者たちに、「これまでの自分の考えは微動だにしない。現状での再稼働には反対だ」と言い続けているからだ。選挙中もそういう路線で行くのだろう。それなら、言い訳は不要だ。

 自民党の政策との整合性が問われるが、実は、当選さえすれば良いというのが自民党の懐の深いところ。河野太郎外相も、大臣になる前までは、いつも原発反対と言う主張を繰り返していたが、党議拘束に反する行動さえしなければ、不問に付されていた。泉田氏が当選すれば、選挙期間中の発言がもんだいになることはないのだ。

■苦境の民進党は森裕子参院議員に泣きつく

 泉田氏の自民党からの出馬によって、追い詰められたのは民進党だ。幹事長候補山尾志桜里氏の不倫スキャンダルで出ばなをくじかれた前原誠司新代表にとって、この三補選は最重要課題だ。少なくとも、野党側が連勝中の新潟では何としても勝ちたい。

 しかし、今の民進党には魅力がなく、民進党県連は独自候補を立てられず、野党・市民連合の事実上のリーダーである森裕子自由党参議院議員に泣きついた。もちろん、野党共闘前提だ。今後、民進党は主導権を失い、森裕子氏らが市民連合と連携しながら、候補者選びを行うことになるだろう。

 一方、だらしない民進党の動向よりもはるかに大事なのは、泉田氏の「裏切り」に対して、一般市民がどのような反応を示すかである。泉田氏を信じたいという人もまだまだ根強く存在するが、そんな泉田ファンには、是非以下のことを考えていただきたい。

 まず、泉田氏に自民党を変える力があるなどと言うのは幻想に過ぎないことは前述したとおりだ。

 そして、何よりも、泉田氏が当選して誰が喜ぶのかを想像するべきだ。泉田勝利は、脱原発の野党候補敗北を意味する。

 選挙後の安倍総理のコメントはこんなものになるだろう。

「わが自民党は、昨年、参議院選挙と県知事選で、新潟県民から大変厳しい審判を受けました。しかし、今回は、我々自民党の政策を新潟の方々に理解していただくことができた。心から感謝します。これまで通り、原子力規制委員会が安全だと判断した原発に限り、安全第一で、しっかり再稼働を推進して参ります。」

 脱原発の最後の砦とも言われる新潟での自民党勝利は、全国の原発再稼働の流れを決定的なものにするだろう。

 それだけではない。3補選で自民が2勝あるいは3勝すれば、安倍政権は息を吹き返す可能性が高い。

 問題は、こうした複雑な状況を有権者が正しく理解して投票できるかどうかだ。選挙が近づくと、マスコミは当たり障りのない報道しかしない。泉田氏を支持するにしても、野党候補を支持するにしても、十分な情報が提供されたうえでの判断となるように期待しつつ、これから約1カ月後の開票日まで、新潟5区の動向を注視していきたい。


 

著者:古賀茂明(こが・しげあき)/1955年、長崎県生まれ。東京大学法学部卒業後、旧通産省(経済産業省)入省。国家公務員制度改革推進本部審議官、中小企業庁経営支援部長などを経て2011年退官、改革派官僚で「改革はするが戦争はしない」フォーラム4提唱者。元報道ステーションコメンテーター。主著『日本中枢の崩壊』『日本中枢の狂謀』(講談社)など。「シナプス 古賀茂明サロン」主催

 

著者:古賀茂明(こが・しげあき)/1955年、長崎県生まれ。東京大学法学部卒業後、旧通産省(経済産業省)入省。国家公務員制度改革推進本部審議官、中小企業庁経営支援部長などを経て2011年退官、改革派官僚で「改革はするが戦争はしない」フォーラム4提唱者。元報道ステーションコメンテーター。主著『日本中枢の崩壊』『日本中枢の狂謀』(講談社)など。「シナプス 古賀茂明サロン」主催



 


政教分離(政治と宗教の分離)と三権分立(立法、行政、司法の独立)は、民主主義の基本原則 〔金 煕哲氏 2017.9.19〕

2017-09-19 08:19:23 | 政治 選挙 
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金 煕哲氏FBより
政教分離(政治と宗教の分離)と三権分立(立法、行政、司法の独立)は、今や民主主義国家・近代国家の社会システムを維持運営する政治的基本原則である。

 これらが確立されていないか、崩れた国家は、その帰結として「独裁国家」に成り果てる。ドイツの、ナチスの党首アドルフ・ヒトラーが、独裁者になれたのは、近代国家の原則である立法府と行政府の権力分立が破棄されたからであった。
                                           

「1933年1月30日、ナチスの党首アドルフ・ヒトラーが、大統領パウル・フォン・ヒンデンブルクによってドイツの首相に任命される。もっともこの時点では、まだナチスが国会で単独過半数の議席を有するには至っていなかった。
 ヒトラーはこの状況を打開するため、首相就任後ただちに国会を解散して総選挙に打って出る。だが、同年3月5日に行なわれた選挙でもやはり、ナチスが過半数の議席を獲得することはできなかった。

 この期待外れの選挙結果を受けてヒトラーが打った次の手が、同年3月23日のいわゆる全権委任法である。
 これは国会に代わって政府が法律を制定することを認めるものであり、これによって国会は事実上、立法府としての役割を奪われることになった。
 こうしてナチス体制のもと、近代国家の原則である立法府と行政府の権力分立は廃棄され、議会制民主主義は独裁へと道を譲ることになったのである(© 文春オンライン ©文藝春秋)」

 

福祉国家たらんとしたヴァイマル共和国で、議会制民主主義への不信が高まっていたのはなぜか?

 

 ◆“行政権力の肥大化”が“ヒトラー独裁”を生んだ:https://goo.gl/u7ntU7 を参照

 

「朝鮮民主主義人民共和国」が「独裁国家」とみなされる理由も、政教分離と三権分立が”見事”に欠如している国家だからだ。

 

神(宗教)こそ祀っていないが、主体思想(https://goo.gl/HwJvHQ)を教義として金日成・金正日父子を神格化(神の如く)し、「唯一思想体系(https://goo.gl/qzKunZ)」と言う指導理念を絶対化することで、立法・行政・司法の三権は金ファミリーと朝鮮労働党の一部幹部の手中に握られ、国民的討論や議論もなしに彼らの恣意的な”欲望”だけがむき出しに実行される国家へとなり下がった。

 

その独裁国家が、核兵器と核弾道ミサイルを保有する?恐ろしいことだ。それが”善”であろうはずがないのに…?

 

  

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行政権力の肥大化”が“ヒトラー独裁”を生んだ――学校では学べない世界近現代史入門

大竹 広二

福祉国家たらんとしたヴァイマル共和国で、議会制民主主義への不信が高まっていたのはなぜか?

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 1933年1月30日、ナチスの党首アドルフ・ヒトラーが、大統領パウル・フォン・ヒンデンブルクによってドイツの首相に任命される。もっともこの時点では、まだナチスが国会で単独過半数の議席を有するには至っていなかった。ヒトラーはこの状況を打開するため、首相就任後ただちに国会を解散して総選挙に打って出る。だが、同年3月5日に行なわれた選挙でもやはり、ナチスが過半数の議席を獲得することはできなかった。

©文藝春秋© 文春オンライン ©文藝春秋

 この期待外れの選挙結果を受けてヒトラーが打った次の手が、同年3月23日のいわゆる全権委任法である。これは国会に代わって政府が法律を制定することを認めるものであり、これによって国会は事実上、立法府としての役割を奪われることになった。こうしてナチス体制のもと、近代国家の原則である立法府と行政府の権力分立は廃棄され、議会制民主主義は独裁へと道を譲ることになったのである。

 行政府が立法権を手中にする全権委任法は、ナチスによって議会政治と法治国家が蹂躙(じゅうりん)されたことを示す顕著な例である。だが、議会制民主主義のこうした破壊は、すでにナチス政権に先立つ共和国時代から準備されていた。

 第一次世界大戦後のドイツの共和国は、ヴァイマルに召集された憲法制定国民議会が1919年8月11日に新憲法を採択したことで正式に発足する。このいわゆるヴァイマル共和国憲法は国民による大統領の直接選挙、男女普通選挙、民意を忠実に反映する完全比例代表制、国民からの請願に基づく国民投票制度などを導入し、当時の世界でもっとも民主的かつ先進的な憲法とみなされていた。

 しかしながら、ヴァイマル共和国のあまりに民主的な制度が、かえって民主主義を不安定なものにしてしまったということは、すでに繰り返し指摘されているところである。完全比例代表の選挙制度は国会での小政党乱立をもたらし、多数の政党が寄り集まった短命な連立政権がヴァイマル期を通して続くことになる。このように政治的リーダーシップが欠如した状況のなかで、特にドイツが極端なハイパーインフレーションに苦しめられた1920年代前半には、旧軍人らを中心とするカップ一揆(1920年)やナチス党によるミュンヘン一揆(1923年)、あるいはドイツ共産党による蜂起・クーデター計画(1921、1923年)など、左右両翼の過激派による共和国打倒運動が頻発するのである。

 1923年末までにはハイパーインフレーションは終息し、以後、1929年10月に世界恐慌が勃発するまでの短い間ではあるが、ヴァイマル共和国は「相対的安定期」と呼ばれる比較的平穏な時代を迎える。しかし、不安定な政治状況が本質的なところで解決されたわけではなく、議会政治の混乱と機能不全に対し、多くの人々が苛立(いらだ)ちを募らせることになる。

 

議会制を批判したシュミット

 20世紀ドイツを代表する憲法学者・政治学者のカール・シュミットもまた、そのようにヴァイマル民主主義の現状を憂(うれ)いていた人々の一人であった。

 シュミットは20年代のヴァイマル期に数多くの著作を発表し、当代有数の優れた学者としての評判を確立していながら、30年代にヒトラーが政権を取るとナチスを熱烈に支持するようになったことから、「ナチスの桂冠(けいかん)法学者」という悪名を後世に残すことになった人物である。ただ、シュミットがナチスを支持するに至る兆候は、すでに20年代の彼の理論のうちに現れている。

 ヴァイマル期のシュミットは、議会政治の体たらくを目の当たりにしたことによって、そもそも議会制民主主義というもの自体が本質的に欠陥を抱えた政治制度であると考えるようになる。彼によれば、議会政治は、ただ延々と議論や話し合いを続けるだけで、責任のある政治決断を下すことを放棄している。また議会は、単なる利益団体の代弁者となった政党政治家が国民の目に見えないところで駆け引きを行なうだけの、ただの利害調整の場に堕してしまっているというのである。

 こうした議会制民主主義の危機を克服するため、シュミットはヴァイマル憲法の或る条文に目を付けることになる。それこそが、共和国大統領の緊急命令権を定めた憲法第48条にほかならない。そこでは、行政府の長である大統領に対し、戦争や内乱などの非常事態のさいに基本的人権を一時的に制限・停止したり、通常の法律を超える緊急措置を下したりする権限が認められていた。大統領独裁条項とも呼ばれるこの条文は、世界でもっとも民主的と言われたヴァイマル憲法の最大の汚点として、今日では極めて評判の悪いものとなっている。ヒトラー自身はこの条文をそれほど利用したわけではないが、それがヴァイマル期に濫用されたことが、ナチス独裁への露払いになったと考えられているからである。だが、シュミットはまさにこの悪名高い第48条を、混乱したヴァイマル共和国の政治を健全化するための手段とみなしたのである。

 シュミットによれば、国家の非常事態においては、法律上の手続きや民主的な話し合いなどはしばしば無力である。それらに固執するあまり危機への対処が遅れて、法や民主主義そのものが破壊されてしまったら本末転倒であろう。むしろ、法や民主主義を守るためにこそ、通常の法的・民主的手続きを飛び越えて決断を下さねばならない時がある。シュミットは行政府の長である大統領の緊急措置こそ、まさにそうした決断たりうると考えた。それは決して単に無法な行為ではなく、法秩序の存立そのものを守るための超法規的な措置なのである。

 しかもヴァイマル憲法では、大統領は国民の直接投票によって選ばれる。その限りで、この大統領の独裁は、議会政治を通じた間接民主主義に勝るような、直接民主主義的な正当性を有しているとシュミットは考えた。

 

福祉国家が行政権力を拡大する

 ヴァイマル憲法第48条に基づく独裁においては、国民の信託を受けた大統領が、議会によって制定された法律を踏み越えるような措置を下すことができる。危機の際には、行政権力による迅速な執行こそが、議会での討論と立法に勝(まさ)るのである。

 先に見たナチスの全権委任法は、立法府に対する行政府のこうした優位を常態化し、議会と法の支配を形骸化するものであった。ナチス体制に関しては、ヒトラー個人という独裁者が恣意的に権力を振るっていたかのようなイメージが抱かれることが多いが、むしろ肥大化した行政権力による法治国家の破壊という視点から捉えるほうがより適切である。

©getty© 文春オンライン ©getty

 実のところ、このような行政権力の肥大化は、ヴァイマル憲法第48条やナチス体制だけに固有の問題ではない。それは、19世紀後半以降にいわゆる社会国家(福祉国家)が発展してきたことに伴う必然的な傾向であるとみなすこともできる。

 19世紀ドイツの産業革命は資本主義の発展を加速させたが、同時に、貧困労働者層の増大といういわゆる「社会問題」を深刻化させることになった。それにより、国家が市場や経済に一切介入しないという旧来の自由主義(リベラリズム)の理念に限界があることはますます明らかになっていった。そうしたなかでドイツでは、今日のドイツ社会民主党(SPD)の前身となる社会主義政党が1860年代にいち早く結成されるなど、労働運動や社会主義運動がとりわけ高揚することになった。

 これに危機感を募らせたドイツ帝国宰相ビスマルクは、労働者階級を懐柔するため、疾病(しっぺい)保険(1883年)、労災保険(1884年)、廃疾(はいしつ)・老齢保険(1889年)といった一連の社会保険制度を整備していった。こうしてドイツでは世界に先駆けて、19世紀後半に社会国家の形成が始まった。国家はいまや経済や社会の問題に無関心であることはできず、積極的な政策介入を行なわねばならなくなる。それまでの自由主義時代の「消極国家」は、より幅広い社会的役割を引き受ける「積極国家」へと姿を変えていくのである。

 1919年のヴァイマル憲法が先進的であるとされる理由は、国家の積極的な社会政策を求めるような新しい種類の基本的人権が明記された点にもある。すなわちヴァイマル憲法は、国家が国民の自由な活動を制約することを禁じる旧来からの「自由権」(良心の自由、言論の自由、財産権など)に加えて、国家に国民の最低限の生活保障を義務付ける「社会権」(生存権、労働権、教育を受ける権利など)が書き込まれた史上初の憲法だった。そうしてヴァイマル共和国では、国民の社会権を十全に保障するための行政介入が一層求められるようになり、行政国家化の傾向が強まっていくことになる。

 ヴァイマル期には憲法第48条に基づく大統領緊急命令がしばしば濫用(らんよう)されたが、このこともまた、経済・社会問題に対処するための行政介入の必要性という観点から理解することができる。実際、憲法の条文に従えば「公共の安全および秩序」が脅かされた場合に発動されるはずの大統領緊急命令は、戦争や内乱というよりも、むしろ経済危機に際して特に頻繁に利用された。すでに1920年代前半のハイパーインフレーション期には、初代大統領フリードリヒ・エーベルトのもとで100回以上もの緊急命令が乱発されていた。刻々と移り変わる経済情勢に対処するには、議会での議論を通じて立法するよりも、行政権力による迅速な措置のほうが適切だったのである。

 とりわけ大統領緊急命令の濫用が問題になったのは、1929年以降の世界恐慌の時期である。ときのヘルマン・ミュラー内閣は恐慌のあおりを受けて新年度の予算編成に失敗し、退陣を余儀なくされる。代わって1930年3月に成立したハインリヒ・ブリューニング内閣は、議会で過半数の議席を持たない少数与党内閣であったことから、もっぱら大統領ヒンデンブルクを通じて出される緊急命令を統治手段として利用することになった。議会での立法手続きをはじめから放棄し、行政府が下す措置を頼りに政策を進めようとするこのいわゆる「大統領内閣」のもとで、すでにナチス政権に先立って議会制民主主義の破壊は始まっていたのである。

 シュミットがとりわけ熱心に大統領緊急命令を擁護したのは、まさにこの1930年前後の恐慌期であった。経済危機への対処が急務だったとはいえ、ブリューニング内閣のように税制や財政といった領域にまで緊急命令の範囲を拡大することに対しては、ハンス・ケルゼンを始めとする多くの法学者たちが批判的であった。緊急命令に依存した政策運営を憲法の濫用であるとする法学者が多数を占めるなかで、シュミットは逆に、緊急命令を行使する大統領は、国家の秩序そのものが破壊されるのを防ぐ「憲法の番人」としての役割を果たしているとして高く評価した。

 シュミットはやがて、行政府の措置が立法府の法律に取って代わることは、現代の避けられない傾向であるとさえみなすようになる。経済・社会状況に柔軟に対処することを求められる現代の行政国家においては、行政命令が法律に代わる役割を果たすようになるというのである。しかしこれは、行政府を立法府に優越させることを意味しており、近代法治国家の原則を脅かしかねない危険な主張である。それは単なる社会国家的な行政介入を超えて行政権力がいびつに肥大化していくことを許すものであるが、シュミットは世界恐慌という経済的な非常事態に際して、まさにそのような極端な行政国家の必要性を強調した。

 ブリューニング内閣において大統領緊急命令が日常化するなかで、ドイツ国民もまたそのように議会の頭ごしに政策が進められることに疑問を持たなくなっていった。ヴァイマル期の混乱した議会政治にすでに十分幻滅していたドイツ国民は、議会での民主的な立法手続きを擁護する気などはほとんど失っていた。経済危機に見舞われた国民生活を一刻も早く立て直すには、行政府が緊急命令によって統治するほうがはるかに効率良く思われたからである。

 このように世界恐慌の時期にドイツ国民が上からの命令による権威主義的な政治に慣れてしまったことが、ナチスの独裁体制が受け入れられる下地を作ったと言える。そうしてシュミットもドイツ国民も、議会制と法治国家を解体するほどの極端な行政国家、すなわち「措置国家」とも呼ばれるナチス体制を支持することになった。

 

独裁か議会か

 議会制民主主義への不信を背景として、ヴァイマル憲法第48条はナチス独裁への道を開くことになった。多様な民意が反映された議会での議論を通じて意志形成を行なうことは、民主主義の基本である。だがそれは、政策決定にそれだけ多くの時間と労力が必要となることを意味するのであり、民主主義は必然的にこうした「コスト」を伴う。19世紀以降の社会国家(福祉国家)の進展によって国家が果たすべき役割が増大するなかで、政治に停滞をもたらすこともある「民主主義のコスト」は、しだいに大きいものと感じられるようになっていった。特に世界恐慌の際には、危機に迅速に対処できない民主主義は障害とさえみなされ、ドイツ国民は独裁的な仕方で行なわれる行政運営への依存を深めていった。

 経済のグローバル化やテクノロジーの進歩によって、今日の政治はますます多くの課題に早急に対応することを求められるようになっている。そうしたなかで、民主主義的な熟議などはしばしば、迅速な政策決定を妨げ、「決められない政治」をもたらす不要なコストであるかのようにみなされることもある。だが、こうしたコストを伴わない「強力なリーダーシップ」の政治に飛びつくことこそ、いわば独裁への第一歩となるのではないか。その限りで、ヴァイマル民主主義を悩ませていた問題は、決して過ぎ去った過去の話ではない。