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政教分離(政治と宗教の分離)と三権分立(立法、行政、司法の独立)は、民主主義の基本原則 〔金 煕哲氏 2017.9.19〕

2017-09-19 08:19:23 | 政治 選挙 
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金 煕哲氏FBより
政教分離(政治と宗教の分離)と三権分立(立法、行政、司法の独立)は、今や民主主義国家・近代国家の社会システムを維持運営する政治的基本原則である。

 これらが確立されていないか、崩れた国家は、その帰結として「独裁国家」に成り果てる。ドイツの、ナチスの党首アドルフ・ヒトラーが、独裁者になれたのは、近代国家の原則である立法府と行政府の権力分立が破棄されたからであった。
                                           

「1933年1月30日、ナチスの党首アドルフ・ヒトラーが、大統領パウル・フォン・ヒンデンブルクによってドイツの首相に任命される。もっともこの時点では、まだナチスが国会で単独過半数の議席を有するには至っていなかった。
 ヒトラーはこの状況を打開するため、首相就任後ただちに国会を解散して総選挙に打って出る。だが、同年3月5日に行なわれた選挙でもやはり、ナチスが過半数の議席を獲得することはできなかった。

 この期待外れの選挙結果を受けてヒトラーが打った次の手が、同年3月23日のいわゆる全権委任法である。
 これは国会に代わって政府が法律を制定することを認めるものであり、これによって国会は事実上、立法府としての役割を奪われることになった。
 こうしてナチス体制のもと、近代国家の原則である立法府と行政府の権力分立は廃棄され、議会制民主主義は独裁へと道を譲ることになったのである(© 文春オンライン ©文藝春秋)」

 

福祉国家たらんとしたヴァイマル共和国で、議会制民主主義への不信が高まっていたのはなぜか?

 

 ◆“行政権力の肥大化”が“ヒトラー独裁”を生んだ:https://goo.gl/u7ntU7 を参照

 

「朝鮮民主主義人民共和国」が「独裁国家」とみなされる理由も、政教分離と三権分立が”見事”に欠如している国家だからだ。

 

神(宗教)こそ祀っていないが、主体思想(https://goo.gl/HwJvHQ)を教義として金日成・金正日父子を神格化(神の如く)し、「唯一思想体系(https://goo.gl/qzKunZ)」と言う指導理念を絶対化することで、立法・行政・司法の三権は金ファミリーと朝鮮労働党の一部幹部の手中に握られ、国民的討論や議論もなしに彼らの恣意的な”欲望”だけがむき出しに実行される国家へとなり下がった。

 

その独裁国家が、核兵器と核弾道ミサイルを保有する?恐ろしいことだ。それが”善”であろうはずがないのに…?

 

  

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行政権力の肥大化”が“ヒトラー独裁”を生んだ――学校では学べない世界近現代史入門

大竹 広二

福祉国家たらんとしたヴァイマル共和国で、議会制民主主義への不信が高まっていたのはなぜか?

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 1933年1月30日、ナチスの党首アドルフ・ヒトラーが、大統領パウル・フォン・ヒンデンブルクによってドイツの首相に任命される。もっともこの時点では、まだナチスが国会で単独過半数の議席を有するには至っていなかった。ヒトラーはこの状況を打開するため、首相就任後ただちに国会を解散して総選挙に打って出る。だが、同年3月5日に行なわれた選挙でもやはり、ナチスが過半数の議席を獲得することはできなかった。

©文藝春秋© 文春オンライン ©文藝春秋

 この期待外れの選挙結果を受けてヒトラーが打った次の手が、同年3月23日のいわゆる全権委任法である。これは国会に代わって政府が法律を制定することを認めるものであり、これによって国会は事実上、立法府としての役割を奪われることになった。こうしてナチス体制のもと、近代国家の原則である立法府と行政府の権力分立は廃棄され、議会制民主主義は独裁へと道を譲ることになったのである。

 行政府が立法権を手中にする全権委任法は、ナチスによって議会政治と法治国家が蹂躙(じゅうりん)されたことを示す顕著な例である。だが、議会制民主主義のこうした破壊は、すでにナチス政権に先立つ共和国時代から準備されていた。

 第一次世界大戦後のドイツの共和国は、ヴァイマルに召集された憲法制定国民議会が1919年8月11日に新憲法を採択したことで正式に発足する。このいわゆるヴァイマル共和国憲法は国民による大統領の直接選挙、男女普通選挙、民意を忠実に反映する完全比例代表制、国民からの請願に基づく国民投票制度などを導入し、当時の世界でもっとも民主的かつ先進的な憲法とみなされていた。

 しかしながら、ヴァイマル共和国のあまりに民主的な制度が、かえって民主主義を不安定なものにしてしまったということは、すでに繰り返し指摘されているところである。完全比例代表の選挙制度は国会での小政党乱立をもたらし、多数の政党が寄り集まった短命な連立政権がヴァイマル期を通して続くことになる。このように政治的リーダーシップが欠如した状況のなかで、特にドイツが極端なハイパーインフレーションに苦しめられた1920年代前半には、旧軍人らを中心とするカップ一揆(1920年)やナチス党によるミュンヘン一揆(1923年)、あるいはドイツ共産党による蜂起・クーデター計画(1921、1923年)など、左右両翼の過激派による共和国打倒運動が頻発するのである。

 1923年末までにはハイパーインフレーションは終息し、以後、1929年10月に世界恐慌が勃発するまでの短い間ではあるが、ヴァイマル共和国は「相対的安定期」と呼ばれる比較的平穏な時代を迎える。しかし、不安定な政治状況が本質的なところで解決されたわけではなく、議会政治の混乱と機能不全に対し、多くの人々が苛立(いらだ)ちを募らせることになる。

 

議会制を批判したシュミット

 20世紀ドイツを代表する憲法学者・政治学者のカール・シュミットもまた、そのようにヴァイマル民主主義の現状を憂(うれ)いていた人々の一人であった。

 シュミットは20年代のヴァイマル期に数多くの著作を発表し、当代有数の優れた学者としての評判を確立していながら、30年代にヒトラーが政権を取るとナチスを熱烈に支持するようになったことから、「ナチスの桂冠(けいかん)法学者」という悪名を後世に残すことになった人物である。ただ、シュミットがナチスを支持するに至る兆候は、すでに20年代の彼の理論のうちに現れている。

 ヴァイマル期のシュミットは、議会政治の体たらくを目の当たりにしたことによって、そもそも議会制民主主義というもの自体が本質的に欠陥を抱えた政治制度であると考えるようになる。彼によれば、議会政治は、ただ延々と議論や話し合いを続けるだけで、責任のある政治決断を下すことを放棄している。また議会は、単なる利益団体の代弁者となった政党政治家が国民の目に見えないところで駆け引きを行なうだけの、ただの利害調整の場に堕してしまっているというのである。

 こうした議会制民主主義の危機を克服するため、シュミットはヴァイマル憲法の或る条文に目を付けることになる。それこそが、共和国大統領の緊急命令権を定めた憲法第48条にほかならない。そこでは、行政府の長である大統領に対し、戦争や内乱などの非常事態のさいに基本的人権を一時的に制限・停止したり、通常の法律を超える緊急措置を下したりする権限が認められていた。大統領独裁条項とも呼ばれるこの条文は、世界でもっとも民主的と言われたヴァイマル憲法の最大の汚点として、今日では極めて評判の悪いものとなっている。ヒトラー自身はこの条文をそれほど利用したわけではないが、それがヴァイマル期に濫用されたことが、ナチス独裁への露払いになったと考えられているからである。だが、シュミットはまさにこの悪名高い第48条を、混乱したヴァイマル共和国の政治を健全化するための手段とみなしたのである。

 シュミットによれば、国家の非常事態においては、法律上の手続きや民主的な話し合いなどはしばしば無力である。それらに固執するあまり危機への対処が遅れて、法や民主主義そのものが破壊されてしまったら本末転倒であろう。むしろ、法や民主主義を守るためにこそ、通常の法的・民主的手続きを飛び越えて決断を下さねばならない時がある。シュミットは行政府の長である大統領の緊急措置こそ、まさにそうした決断たりうると考えた。それは決して単に無法な行為ではなく、法秩序の存立そのものを守るための超法規的な措置なのである。

 しかもヴァイマル憲法では、大統領は国民の直接投票によって選ばれる。その限りで、この大統領の独裁は、議会政治を通じた間接民主主義に勝るような、直接民主主義的な正当性を有しているとシュミットは考えた。

 

福祉国家が行政権力を拡大する

 ヴァイマル憲法第48条に基づく独裁においては、国民の信託を受けた大統領が、議会によって制定された法律を踏み越えるような措置を下すことができる。危機の際には、行政権力による迅速な執行こそが、議会での討論と立法に勝(まさ)るのである。

 先に見たナチスの全権委任法は、立法府に対する行政府のこうした優位を常態化し、議会と法の支配を形骸化するものであった。ナチス体制に関しては、ヒトラー個人という独裁者が恣意的に権力を振るっていたかのようなイメージが抱かれることが多いが、むしろ肥大化した行政権力による法治国家の破壊という視点から捉えるほうがより適切である。

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 実のところ、このような行政権力の肥大化は、ヴァイマル憲法第48条やナチス体制だけに固有の問題ではない。それは、19世紀後半以降にいわゆる社会国家(福祉国家)が発展してきたことに伴う必然的な傾向であるとみなすこともできる。

 19世紀ドイツの産業革命は資本主義の発展を加速させたが、同時に、貧困労働者層の増大といういわゆる「社会問題」を深刻化させることになった。それにより、国家が市場や経済に一切介入しないという旧来の自由主義(リベラリズム)の理念に限界があることはますます明らかになっていった。そうしたなかでドイツでは、今日のドイツ社会民主党(SPD)の前身となる社会主義政党が1860年代にいち早く結成されるなど、労働運動や社会主義運動がとりわけ高揚することになった。

 これに危機感を募らせたドイツ帝国宰相ビスマルクは、労働者階級を懐柔するため、疾病(しっぺい)保険(1883年)、労災保険(1884年)、廃疾(はいしつ)・老齢保険(1889年)といった一連の社会保険制度を整備していった。こうしてドイツでは世界に先駆けて、19世紀後半に社会国家の形成が始まった。国家はいまや経済や社会の問題に無関心であることはできず、積極的な政策介入を行なわねばならなくなる。それまでの自由主義時代の「消極国家」は、より幅広い社会的役割を引き受ける「積極国家」へと姿を変えていくのである。

 1919年のヴァイマル憲法が先進的であるとされる理由は、国家の積極的な社会政策を求めるような新しい種類の基本的人権が明記された点にもある。すなわちヴァイマル憲法は、国家が国民の自由な活動を制約することを禁じる旧来からの「自由権」(良心の自由、言論の自由、財産権など)に加えて、国家に国民の最低限の生活保障を義務付ける「社会権」(生存権、労働権、教育を受ける権利など)が書き込まれた史上初の憲法だった。そうしてヴァイマル共和国では、国民の社会権を十全に保障するための行政介入が一層求められるようになり、行政国家化の傾向が強まっていくことになる。

 ヴァイマル期には憲法第48条に基づく大統領緊急命令がしばしば濫用(らんよう)されたが、このこともまた、経済・社会問題に対処するための行政介入の必要性という観点から理解することができる。実際、憲法の条文に従えば「公共の安全および秩序」が脅かされた場合に発動されるはずの大統領緊急命令は、戦争や内乱というよりも、むしろ経済危機に際して特に頻繁に利用された。すでに1920年代前半のハイパーインフレーション期には、初代大統領フリードリヒ・エーベルトのもとで100回以上もの緊急命令が乱発されていた。刻々と移り変わる経済情勢に対処するには、議会での議論を通じて立法するよりも、行政権力による迅速な措置のほうが適切だったのである。

 とりわけ大統領緊急命令の濫用が問題になったのは、1929年以降の世界恐慌の時期である。ときのヘルマン・ミュラー内閣は恐慌のあおりを受けて新年度の予算編成に失敗し、退陣を余儀なくされる。代わって1930年3月に成立したハインリヒ・ブリューニング内閣は、議会で過半数の議席を持たない少数与党内閣であったことから、もっぱら大統領ヒンデンブルクを通じて出される緊急命令を統治手段として利用することになった。議会での立法手続きをはじめから放棄し、行政府が下す措置を頼りに政策を進めようとするこのいわゆる「大統領内閣」のもとで、すでにナチス政権に先立って議会制民主主義の破壊は始まっていたのである。

 シュミットがとりわけ熱心に大統領緊急命令を擁護したのは、まさにこの1930年前後の恐慌期であった。経済危機への対処が急務だったとはいえ、ブリューニング内閣のように税制や財政といった領域にまで緊急命令の範囲を拡大することに対しては、ハンス・ケルゼンを始めとする多くの法学者たちが批判的であった。緊急命令に依存した政策運営を憲法の濫用であるとする法学者が多数を占めるなかで、シュミットは逆に、緊急命令を行使する大統領は、国家の秩序そのものが破壊されるのを防ぐ「憲法の番人」としての役割を果たしているとして高く評価した。

 シュミットはやがて、行政府の措置が立法府の法律に取って代わることは、現代の避けられない傾向であるとさえみなすようになる。経済・社会状況に柔軟に対処することを求められる現代の行政国家においては、行政命令が法律に代わる役割を果たすようになるというのである。しかしこれは、行政府を立法府に優越させることを意味しており、近代法治国家の原則を脅かしかねない危険な主張である。それは単なる社会国家的な行政介入を超えて行政権力がいびつに肥大化していくことを許すものであるが、シュミットは世界恐慌という経済的な非常事態に際して、まさにそのような極端な行政国家の必要性を強調した。

 ブリューニング内閣において大統領緊急命令が日常化するなかで、ドイツ国民もまたそのように議会の頭ごしに政策が進められることに疑問を持たなくなっていった。ヴァイマル期の混乱した議会政治にすでに十分幻滅していたドイツ国民は、議会での民主的な立法手続きを擁護する気などはほとんど失っていた。経済危機に見舞われた国民生活を一刻も早く立て直すには、行政府が緊急命令によって統治するほうがはるかに効率良く思われたからである。

 このように世界恐慌の時期にドイツ国民が上からの命令による権威主義的な政治に慣れてしまったことが、ナチスの独裁体制が受け入れられる下地を作ったと言える。そうしてシュミットもドイツ国民も、議会制と法治国家を解体するほどの極端な行政国家、すなわち「措置国家」とも呼ばれるナチス体制を支持することになった。

 

独裁か議会か

 議会制民主主義への不信を背景として、ヴァイマル憲法第48条はナチス独裁への道を開くことになった。多様な民意が反映された議会での議論を通じて意志形成を行なうことは、民主主義の基本である。だがそれは、政策決定にそれだけ多くの時間と労力が必要となることを意味するのであり、民主主義は必然的にこうした「コスト」を伴う。19世紀以降の社会国家(福祉国家)の進展によって国家が果たすべき役割が増大するなかで、政治に停滞をもたらすこともある「民主主義のコスト」は、しだいに大きいものと感じられるようになっていった。特に世界恐慌の際には、危機に迅速に対処できない民主主義は障害とさえみなされ、ドイツ国民は独裁的な仕方で行なわれる行政運営への依存を深めていった。

 経済のグローバル化やテクノロジーの進歩によって、今日の政治はますます多くの課題に早急に対応することを求められるようになっている。そうしたなかで、民主主義的な熟議などはしばしば、迅速な政策決定を妨げ、「決められない政治」をもたらす不要なコストであるかのようにみなされることもある。だが、こうしたコストを伴わない「強力なリーダーシップ」の政治に飛びつくことこそ、いわば独裁への第一歩となるのではないか。その限りで、ヴァイマル民主主義を悩ませていた問題は、決して過ぎ去った過去の話ではない。

 

 

 

 


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