ミーハーのクラシック音楽鑑賞

ライブ感を交えながら独断と偏見で綴るブログ

ビシュコフ&N響(後半)~『幻想交響曲』~

2013-04-26 15:17:09 | N響
※昨日の続き

2曲目。2週間前に同じサントリーホールでステファヌ・ドゥネーヴ指揮シュトゥットガルト放送交響楽団の『幻想交響曲』を聴いたが、その演奏はドラマ性を重視した演奏で、それはそれなりに良かった。だが、ビショコフ指揮N響による演奏はドラマ性と音楽性の両方を兼ね添えていて素晴らしいものだった。

第1楽章「夢、情熱」。冒頭から美しい弦の音色がサントリーホールに響きわたる。統一感に満ちた繊細な音色はN響ならではのシルキーな艶と輝きがあり、海外オケでもここまで優しく美しい音色を出せるオケはウィーンフィルぐらいではないだろうかと思ってしまう。そして、驚いたのがホルンだ。特に3番(客演=おそらく東響の大野雄太)の奏でる憂いのある音色に魅了される。

第2楽章「舞踏会」。第1楽章からビシュコフはテンポの強弱をはっきりさせていたが、第2楽章に入っても、冒頭の木管・ハープ・弦によるワルツは高速スピードだったが、中間部ではタメをつくったりとドラマチック色も打ち出す。そして、フィニッシュはまるで宇宙飛行士が月に降りるかのような余韻のある着地を決め、思わず溜め息が出てしまった。

第3楽章「野の風景」。イングリッシュホルン(和久井仁)と舞台裏のオーボエ(WHO?)が実に感傷的で物悲しい。この楽章ではビショコフは細かい指示をあまり出すことなく、ゆったりとしたリズムのなかで物語を楽しむかのようにタクトを振る。それに応えるかのようにN響の木管陣も柔らかい味付けをしているようであった。

第4楽章「断頭台への行進」。2台のティンパニーの乱打と中低弦が儀式の始まりを告げるが、チェロとコントラバスの音色が腹の底まで響いていく。木管の狂騒、金管のファンファーレも高らかに鳴り響き、断頭台から刃が落ちていく様が目に浮かぶようであった。

第5楽章「ワルプルギスの夜の夢」。冒頭のピッコロが怪音を上げ、コル・レーニョ(弓の棒の部分で楽器を叩く)が魔女たちがいる地獄の宴会を描いていく。そして、鐘とチューバの掛け合いからはラストの2台の大太鼓の乱打に至るまでフィナーレは、起伏に富んでいて圧巻だった。ただし、その圧巻さは単純に熱いといったものでなく、音楽性を極めようとする崇高さが感じられた。

『幻想交響曲』は「終わりよければすべてよし」みたいなところがあるが、今回は約50分の演奏時間中、終始一貫して音量音圧とも巧みにコントロールされ、起承転結のドラマ性と緻密に練られた音楽性が両立させていて見事な演奏だった。終演後、定期公演にしては珍しくスタンディング・オベーションする人がチラホラいたのも頷ける。私にとっても感涙感動するというより、感心感銘させられる演奏で、長く記憶に留まるに違いないだろう。

2年前のチョン・ミョンフンとN響による『幻想』も素晴らしかったが、今回はサントリーホールということもあってか、その音の輝きは明るく澄んでいて気持ちが良かった。また、観客も演奏に圧倒されるかのように終始息を飲み込むかのように静寂を保ち、誰もがピーンと張りつめた緊張感のなかで耳を傾けているように感じられた。

最後に余談だが『幻想交響曲』は観客受けするから演奏される機会が多いといわれるが、果たしてそうであろうか。指揮者たちも同様に好きなのではないだろうか。その証拠に7月に初来日して東京フィルを振るクリスチャン・バスケス、PMFオーケストラを指揮する準・メルクルは共に『幻想』を選曲している。ということで『幻想』好きな人は7月をお楽しみに。(笑)

ビシュコフ&N響(前半)~デュビュニョンの日本デビュー~

2013-04-25 21:24:01 | N響
昨日(24日)サントリーホールでのNHK交響楽団第1753回定期公演を聴いてきた。指揮はセミョーン・ビシュコフ。ピアノはカティア&マリエル・ラベック。

【演目】(※はアンコール曲)
デュビュニョン/2台のピアノと2つのオーケストラのための協奏曲「バトルフィールド」
※バーンスタイン/ウェストサイドストーリーから「ジェットソング」
※山田耕筰(デュビュニョン編)/赤とんぼ
  ~休 憩~
ベルリオーズ/幻想交響曲
《19時00分開演、20時55分終演》

1曲目。リシャール・デュビュニョンは1968年スイス・ローザンヌ生まれ。歴史学を勉強した後、20歳から音楽を始め、パリ音楽院、イギリス王立アカデミーで作曲を学ぶ。これまでにジャニーヌ・ヤンセンなどのための曲を書いたりして、ヨーロッパでは注目されている作曲家らしい。自身もコントラバスやオーボエを奏でるという。

今回の曲はもともとロサンゼルス・フィル、パリ管、ケヴェントハウス管、スイス・ロマンド管の共同委嘱作。初演は2011年11月11日にロサンゼルスで今回のコンビであるセミョーン・ビシュコフ指揮、ピアノはカティア&マリエル・ラベックで行われた。ちなみに、マリエルはビショコフ夫人。

ステージには2台のピアノがセンターに置かれ、それを境に左右に2つのオケが編成される。弦は共に8-6-4-4-3で、下手(左手)側に高音系の木管金管打楽器そしてエレキベースが加わり、上手(右手)側に低音系の木管金管打楽器が配置される。

プログラムによると、デュビュニョンが初期ルネサンス画家のパオロ・ウッチェロが描いた『サン・ローマの戦い』をヒントに書かれたということで、「開戦の合図」「交渉」「パレード」「戦い」「休戦」「とどめの一撃」「葬送と凱旋の行進曲」「平和と和解」「祝祭」の9曲によるドラマチックな展開になっている。

で、曲の作りは非常にオーソドックスな感じで、いわゆる現代音楽っぽくなくかなり解りやすい。作曲家がフランス人ということもあるせいか、ドビュッシーやベルリオーズの影響を受けていると思われる。またストラヴィンスキーのバレエ音楽の感じがしたりもする。全編を通して下手側は攻め手側という感じで威勢のいい音色を奏で、上手側は守る側でなんとか死守しようとする音色で、そのせめぎ合いがよく表れている。そして、2台のピアノは指揮官の戦略や思考を表しているようで興味深い。

ただ、なにぶん初めて聴いた曲なので、しっかりと把握することはできなかったが、この曲は別にラベック姉妹が演奏するのではなく、他の人たちが弾いても面白いのではないだろうか。もし男同士のピアニストだと曲にもっと生々しかが入るような感じもする。

演奏終了後、初来日という作曲のデュビュニョンが紹介されたが、演奏にはかなり満足している様子だった。というのも、日本初演にもかかわらず、N響はビシュコフの指揮の下、丁々発止の見事な演奏をしたからだろう。この力量は称賛に値すると思う。

アンコールは1曲目の“戦い”というテーマの関連性から『ウェストサイドストーリー』の「ジェットソング」を2台のピアノで、もう1曲は1台のピアノの連弾で『赤とんぼ』を弾き、ラベック姉妹の魅力を垣間見せてくれた。

※後半の感想については明日アップする予定。

コバケンと読響の快演

2013-04-23 23:25:43 | 読響
昨日(22日)サンントリーホールで開かれた読売日本交響楽団第525回定期演奏会に行ってきた。指揮は小林研一郎。

【演目】
スメタナ/連作交響詩「我が祖国」(全曲)
 Ⅰ ヴィシェフラド(高い城)
 Ⅱ モルダウ
 Ⅲ シャールカ
  ~休 憩~
 Ⅳ ボヘミアの森と草原から
 Ⅴ ターボル
 Ⅵ ブラニーク
《19時00分開演、20時50分終演》

休憩なしで全曲通して演奏するのかと思ったが、3曲目と4曲目の間に休憩が入った。指揮者のコバケンの年齢や観客の年齢層を考えたらやむを得ないないだろう。今シーズンから私は読響の名曲シリーズ会員から定期演奏会会員に変更したのだが、驚いたのは観客の年齢層の高さである。N響定期の年齢層も高いが、N響には若い女性なども多く混じっているが読響にはほとんどいない。ひょっとすると平均年齢は読響の方が高いかもしれない。

さて、話はガラッと変わるが、クラシックファンのなかには、アンチ小澤という人がいたり、アンチ佐渡またはアンチコバケン(小林研一郎)という人がいる。かくいう私もアンチ・ノリントンではあるが。(笑)

以前コバケンが読響の特別客演指揮者の就任というニュースを聞いたとき、正直耳を疑った。というのも、彼がとても読響に適している指揮者とは思えなかったからだ。剛直にしてある意味頑固な音色を得意とする読響がコバケンのような個性が強くかつ変則的な動きをする指揮者を受け入れられるか疑問だった。

実際、この日の演奏会にしても、前半は彼の指揮についていけないのか戸惑う金管や打楽器が何人もいるように見受けられた。しかし、新規加入のクラリネット首席奏者の金子平やホルンのトップを任された松坂隼らが、コバケンに食らいつくように真摯な姿勢で演奏しているのを見て感化されたかどうか解らないが、後半に入ると他の木管金管奏者も芳醇な音色を奏でるようになっていった。

一方、弦は終始一貫コンマス小森谷巧、第二ヴァイオリン山田友子、チェロ毛利伯郎、ヴィオラ鈴木康浩の首席陣がリーダーシップを発揮して、それにつられるかのように弦セクションがこれまで聴いたことがないような骨太ながらも大らかにしてたおやかな音色を響かせていった。

日本人でこの曲(全曲)をスコアなし(完全暗譜)で指揮できるのはおそらくコバケンだけだろう。それだけ、彼はこの曲を愛してやまないのだと思う。その愛情とうかスピリットにしっかり応えた読響は素晴らしかった。コバケンと読響はマッチしないという危惧は徒労に終わるどころか、木っ端微塵に吹き飛ばされた快演だった。ブッブッラ~ボ~~!

良かったのか悪かったのか、N響のレクイエム

2013-04-20 23:25:52 | N響
昨日(19日)NHKホールで開かれたNHK交響楽団第1752回定期公演に行ってきた。指揮はセミョーン・ビシュコフ。

【演目】
ヴェルディ/レクイエム
《19時00分開演、20時40分終演》
  ソプラノ:マリナ・ポプラフスカヤ
  メゾ・ソプラノ:アニタ・ラチヴェリシュヴィリ
  テノール:ディミトリ・ピタス
  バス:ユーリ・ヴォロビエフ
  合唱:新国立劇場合唱団

ソプラノのマリーナ・ポプラフスカヤはMETの『ドン・カルロ』でエリザベッタを演じたのを観ているいが、そのときと同じで声質はいいものの声量が今ひとつ。ましてや今回は第1曲ではうまく声が出ず、また第7曲での表現力にも難があり決して褒められるものではなかった。

メゾ・ソプラノのアニタ・ラチヴェリシュヴィリは厚みのある艶やかな歌声で、歌手陣の先頭をきる活躍で大健闘。その容姿はどことなくジプシー的であるので、『カルメン』を演じたらハマりそうだなあと思ったら、プログラムにはミラノスカラ座の『カルメン』で「国際的名声を獲得する」と書かれていた。w

テノールのディミトリ・ピタスはの歌声は美しく、また端正なマスクは観客を引き込ませる役者としての素養もちあわせていて、テノールのスターになる可能性を秘めている。早々に新国立劇場も彼にアプローチをするべきである。

ユーリ・ヴォロビエフはバスということもあるが、手堅い感じがする歌手だった。それは演奏会形式だからなのかもしれないが、もう少し押しが強くても良かったのではないだろうか。

ビショコフは激情型の指揮者なのでかなり煽るところが多い。だが、今回は劇場型もしっかりと兼ね添えていて、特に合唱団に対して表現力をしっかりコントロールしていた。そして、約150人の新国立劇場合唱団もその指揮にしっかり対応していて、抑揚された歌声で全編を通して引き締ったパフォーマンスを演じた。いつもながら思うが新国立劇場合唱団のレベルは高い。

N響の演奏はレクイエムということもあり、全体としては控えめであったが決して悪くはなかった。特に低弦の響きはよく、ビショコフも終演後にチェロを称えていた。一方で、一部の金管からは妙に突出した音色が聴こえてきて興ざめすることが2、3度あった。

なんか良いところと悪いところが極端に現れた演奏会だった。

ロリン・マゼール&ミュンヘン・フィル

2013-04-19 14:01:48 | 海外オーケストラ
昨日(18日)、サントリーホールで開かれたミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団の東京公演(最終日)を聴きに行ってきた。指揮はロリン・マゼール。

【演目】(※はアンコール曲)
ワーグナー/楽劇『タンホイザー』序曲~ヴェヌスベルクの音楽(パリ版)
ワーグナー/楽劇『トリスタンとイゾルデ』から前奏曲と愛の死
  ~休 憩~
ブルックナー/交響曲第3番 ニ短調(1889年 第3稿 ノーヴァク版)
※ワーグナー/楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガ』第1幕への前奏曲
《19時00分開演、21時40分終演》

冒頭から妙な比喩で申し訳ないが、競馬の世界ではよく「馬7騎手3」という。それでは、クラシック音楽の演奏会における比重というのは「オケ7指揮者3」なのだろうか・・・。この日の演奏会を聴く限り「オケ6指揮者4」もしくは「オケ5指揮者5」と言っても過言ではないかと思ってしまった。

ミュンヘン・フィルはドイツにある120以上のプロオケのなかでもおそらく上位10位以内ランクされる実力派のオケだと思う。そのオケがいくら首席指揮者とはいえマゼールにまるで手玉に取られているというか、彼の思うがままに演奏されている状態を目の当たりすると、前述のようにどうしても「オケ6指揮者4」もしくは「オケ5指揮者5」と思ってしまうのである。

1曲目。ちょっと粗い感じもしたが、それでもワーグナーのもつ雄大さや荘厳さをしっかりと奏でていた。ちなみに、この日のオケの配置は全曲とも16型の通常配置で、弦は全員が素舞台上で雛壇はなし(木管金管ティンパニーは中央雛壇)。加えて、海外オケにしては珍しく前後のプルト間が非常に狭くタイト。このタイトな配置のおかげで、音量はさほどではないものの鋭く引き締った音色と音圧がビシビシと伝わってくる。

2曲目。この曲のポイントはなんといっても、あの畝るような波状的なところだと思うが、マゼールはそこを単に官能的かつ恍惚的に仕上げるだけではなく、自分のもっている死生観をまで表そうかというぐらい繊細かつ精巧な音色を求めているかのよう。これまで、この曲を何度も聴いてきたが、それは表層的な面を聴いているだけであったようで、これまでの自分が恥ずかしい思いがした。と同時に、マゼールがいかにこの曲の真髄を極めようとしている姿勢に敬服せざるをえなかった。

3曲目。ライブでこの曲を聴くのは初めて。ブルックナーがワーグナーに献呈した交響曲だが、正直なところ7番や8番ほどの完成度があるとは思えない。しかし、マゼールはそんなことをものともせずに、オケを変幻自在に操りブルックナーというよりマゼールの世界に引きづりこんでいく。83歳の絶倫剛腕ぶりはとにかく尋常ではなく驚かされる。なかでも第3楽章でのピチカートを使った部分の指揮ぶりには目を見張らせられ、第4楽章では左右の手が変幻自在に的確に指示していく様は精密精巧以外なにものでもなく今度は目がテンになってしまった。

ブルックナーのあとは通常はアンコールがないものだが、なんと『ニュルンベルクのマイスタージンガ』第1幕への前奏曲をもってきた。これにはブルックナー、ワーグナー好きの観客たちから場内の壁が突き破れんばかりかのブラボーの嵐が飛び変わった。アンコール曲であんなにブラボーが飛んだのは初めて体験した。改めて日本人(特に男性)は3er(ワーグナー、ブルックナー、マーラー)が好きなんだなあと思わざるを得ず、久しぶりに異様なコンサート会場の雰囲気を体感した思いである。

休憩20分あったとはいえ2時間40分、集中力を途切らさずに聴くということは大変である。というより、2時間40分を演奏する楽団員の集中力とスタミナは凄い。そして83歳にして完全暗譜でしっかり立って指揮するマゼールという人間はいったい何者なのかと思ってしまう。恐るべし、マゼール!

ダラダラ入場は好きではない

2013-04-18 00:02:57 | Weblog
オーケストラの入場形式というのは千差万別いろいろある。

海外オケで意外に多いパターンは、開演前から舞台上で各自が練習していて、コンマスもしくは指揮者の登場を待つ形式。次に多いと思われるのは、開演直前にコンマスを含めて全員が五月雨式に入場してきて、全員が起立して観客に対して挨拶してから着席する形式。

国内オケで多いのが、開演直前にコンマス以外の楽団員がまず先に着席して、そのあとにコンマスが登場してコンマスだけが挨拶する形式。またN響のようにコンマスも一緒に入場して、指揮者が表れるまで挨拶をしない形式もある。

この他にもいくつかの形式があると思うが、正直、どれが良いとか悪いとかいうことはないが、個人的には楽団員のあとにコンマスが別に登場するという形式は、ちょっとダラダラしているようで好きではない。

ストラヴィンスキー・ザ・バレエ@東京・春・音楽祭

2013-04-15 22:43:22 | バレエ
昨日(14日)東京文化会館で「ストラヴィンスキー・ザ・バレエ」を観てきた。音楽はイーゴリ・ストラヴィンスキー。振付は『アポロ』がパトリック・ド・バナ、『春の祭典』がモーリス・ベジャール。出演者および演奏は下記の通り。

『アポロ』
  アポロ:ディモ・キリーロフ・ミエフ
  ミューズ:秋山珠子(スペイン国立ダンスカンパニー プリンシパル)
       橋本清香(ウィーン国立バレエ団)
       アレーナ・クロシュコワ(ウィーン国立バレエ団)
  演奏:長岡京室内アンサンブル

『春の祭典』
  生贄:梅澤紘貴、奈良春夏
  東京バレエ団
  演奏:東京都交響楽団
  指揮:ジェームズ・ジャッド

上演時間
《15時00分開演、16時45分終演》途中休憩1回

『アポロ』は全く新しい解釈と振付ということでこれが世界初演。幕が上がると舞台には柱が入り組んで作られた桟橋のようなステージがあり、その上で長岡京室内アンサンブル(弦4-4-4-4-1)のメンバーが様々な方向を見て演奏する。視覚的にはかなり面白いが、演奏する側は高い台の上で演奏するのだから怖かったに違いない。それでも、そこはみなさんプロ。高木和弘を中心とした演奏は決して乱れることなく30分近く、普段あまり馴染みのないストラヴィンスキーの静寂にしてメランコリーな音楽をしっとりと聴かせてくれた。

さて、問題はダンスというか振付である。世界初演ということもあるが、正直何を意図しているのか、何を伝えたいのかよく解らない。プログラムを読んだ設定によると、無実の罪で19年間服役している元ダンサー(ニジンスキーを思わせる)が、最も悲劇的な27分余を幻想と現実を交錯させながら描くとある。ここまでの設定の置き換えは解らなくもないが、白と黒のミューズの踊りのコントラストが上手く読み取れない上、その白と黒のミューズが一緒に踊るシーンで乱れがあったりして、代役だったということもあるかもしれないが、急造の作りであった感は否めない。どんな舞台にしても初演というものに失敗はつきものであるが、ただ、この振付がコンテポラリーの作品として今後も演じられるかと思うかと問われたならば、答はノーと言わざるをえない。

『春の祭典』はストラヴィンスキーがロシア・バレエ団のために作曲したバレエ音楽で1913年5月29日に初演された。完成したときはあまりにも前衛的な音楽のために騒動が起きたという有名な逸話があるが、音楽はいまではクラシックの定番のひとつとして定着。バレエも数多くの振付師が演出をしてきた。そして、そのなかでも今回のモーリス・ベジャールの振付が最高傑作と言われている。ただ、ベジャールの振付の場合は、その公演のほとんどがテープ録音で行われていて、今回のように生オケで演じられることはめったにない。

ベジャールが『春の祭典』を最初に振付を行ったのが1959年。当時はその前衛的かつ飛び抜けた斬新さから観客は度肝を抜かれたという。それから44年を経た今となっては、この振付もモダンから古典の領域入っているのかもしれないが、ワスラフ・ニジンスキーが『牧神の午後』を振付たのと同様に、この振付は永遠に受け継がれていくのではないだろうか。

ベジャールは発情期の鹿を描いた映画からヒントを得て振付を考えたそうだが、その動物的かつ本能的な肉体美の躍動感はストラヴィンスキーのもつアナーキズム的な音楽に見事にフィットしている。30分余の時間、常に官能的な緊張感を持続させて、その頂点にもっていく表現力は本当に素晴らしい。そして、その振付に応えた若手主体の東京バレエ団のダンサーたちも多少の乱れはあったものの、そのセクシャリティとエネルギーは大いに称賛したい。生贄を演じた梅澤紘貴と奈良春夏は外連味のない踊りで良かったが、確固たる肉体を炸裂させリーダーを演じた柄本弾と森川茉央、キレのある踊りを魅せ若者を演じた岡崎隼也と氷室友の4人の今後に注目したい。

それにしても、バレエ公演にも関らず客席の男性率が高かった。音楽会では何度も聴いているであろう音楽を本来の姿であるバレエ音楽として生オケで見聞きできる機会は少なかったので、バレエとあまり縁のないクラシックファンが押し寄せたからだろう。かくいう私もその1人で、休憩時間に真っ先にオケピを覗きに行って、どういう配置になっているかを確認してしまった。都響のみなさん、すみませんでした。m(_ _)m

ステファヌ・ドゥネーヴ&シュトゥットガルト放送交響楽団

2013-04-12 09:46:15 | 海外オーケストラ
一昨日(10日)、サントリーホールで開かれたシュトゥットガルト放送交響楽団の東京公演を聴きに行ってきた。指揮はステファヌ・ドゥネーヴ。ヴァイオリンは三浦文彰。

【演目】(※はアンコール曲)
ブラームス/ヴァイオリン協奏曲ニ長調
※J.S.バッハ/無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番よりサラバンド
  ~休 憩~
ベルリオーズ/幻想交響曲
※ビゼー/アルルの女第二組曲から「ファランドール」
※ラヴェル/『マ・メール・ロワ』からパゴダの女王レドロネット
《19時00分開演、21時20分終演》

1曲目。三浦文彰は聴くのはおそらく3年ぶりだと思うが、その音色は以前より格段と成長していてすっかり大人になっていた。しかし、まだところどころに青臭いというか学生っぽさも残っていて、プロとしては甘さが目立ってしまうが、その分のりしろがあるということで今後が楽しみである。

第1楽章はかなりゆっくりとしたテンポ。後半のカデンツァでも三浦は一音一音を確認するかのようにゆっくり丁寧に弾いていく。そして、その音色(使用楽器はJ.B.ガダニーニ 1753 Ex Kneisel)は低音がしっかり伸びていて、この曲にマッチする。

第2楽章のオーボエは素晴らしかった。三浦を完全に食うほどで聴衆を魅了した。第3楽章は第1楽章の主題が第1楽章よりテンポが早く繰り返されるが、ここでも三浦はひたむきに丁寧に弾いていく。ブラームスがもつロマンや重厚さを表現する域には残念ながら達しているとは思えないが、十二分な聴き応えはあった。

数多くあるヴァイオリン協奏曲のなかでも、この曲はある程度年齢がいった人が弾く曲だと思うので、三浦にとっても少し背伸びをしたかもしれない。それでも約40分、堂々と演じたところには好感がもてる。演奏後、彼は会心の笑みを浮かべていたが、それも解るような気がする。ただ、これで満足することなく精進してもらいたい。

2曲目。弦は16型の対抗配置。コントラバスは木管の後方センターに配置する。その横上手(右手)側にティンパニーが2セット。反対の下手(左手)側に大太鼓など他の打楽器を配置。

以前にも書いたと思うが『幻想交響曲』ほどドラマチックな交響曲はないと思う。ベルリオーズが失恋の痛手から書いたこの曲を聴いていると、いろいろとイメージが湧いてくる。その意味において、ステファヌ・ドゥネーヴの指揮はシンコペーション的な少し変則的な動きがあるものの、ドラマチックさを緩急自在にうまく演出しているように思える。

プログラムによるとシュトゥットガルト放送交響楽団は13年に渡ってロジャー・ノリントンのピリオド奏法で名を馳せたそうだが、弦の奏者も誰もが思いっきりヴィブラート奏法でとてものびのびしていた。そして、指揮のドゥネーヴがフランス人ということもあってか、その音色はドイツらしからぬ洒脱にして少し甘酢っぱかった。

オーケストラの木管金管奏者数

2013-04-11 15:17:45 | Weblog
下記のリストは在京5楽団(NHK交響楽団、読売日本交響楽団、東京都交響楽団、日本フィルハーモニー管弦楽団、新日本フィルハーモニー管弦楽団)の所属木管奏者および金管奏者数である。

      N響  読響  都響  日フ  新日フ
フルート   3   4   4   4   4
オーボエ   4   4   4   4   4
クラリネット 4   4   4   4   3
ファゴット  4   4   4   4   4
ホルン    4   5   6   5   5
トランペット 4   4   4   5   4
トロンボーン 5   4   4   4   5
テューバ   1   1   1   1   1

このリストをみると、どこのオケも木管はそれぞれのパートに4人、金管はホルンが5~6人、トランペットおよびトロンボーンが4~5人というのが定員なのだろう。そんななかで、明らかに定数を満たしていないオケがある。N響である。

N響は日本を代表するオーケストラであることは言うまでもないが、公演回数も年間120回前後ある。おそらくここにリストアップした5楽団のなかでは、学校公演などの地域公演がないために公演数は少ない方になるが、逆にもっとも地方公演数が多いオケである。

なのにメンバーの数が少ないというのはなぜなのだろうか。理由はいくつかある。第一にN響にはN響アカデミーという育成組織のようなものがあり、ここに在籍する若手奏者を演奏会で補うことができる。他のオケから首席奏者を客演として呼ぶことも多い。(逆にN響のメンバーが他のオケに出演するのはごく稀だ)。また、フリーの奏者を客演で呼ぶことも結構ある。

しかし、そんなにメンバーが固定されないオケでいいのだろうかという疑問の声も多い。私はその昔、フルートを吹いていたので、どんなオケでもフルートが気になってしまうが、N響のフルートはこの数年首席奏者は実質ずっと1人であり、今や所属楽団員は3人になってしまっている。また、多くの交響曲で重要なパートを担うホルンにしても、今や首席奏者が1人もいないという非常事態になっている。

やはりN響は他のオケに比べても木管金管奏者の数は少ないのではないだろうか。一聴衆である私がこのような人事的なことを書くのは失礼な話かもしれないが、N響はNHKから毎年10億円以上の資金提供を受けているのだから、受信料を払っている者としてもある程度は構わないはずだ。

N響は早く首席フルート奏者と首席ホルン奏者を補充するべきである。

ブリュッヘンと18世紀オーケストラ

2013-04-08 00:15:38 | 海外オーケストラ
一昨日(6日)、トリフォニーホールで開かれた18世紀オーケストラの演奏会を聴きに行ってきた。指揮はフランス・ブリュッヘン。

【演目】
シューベルト/交響曲第7(8)番ロ短調『未完成』
  ~休 憩~
メンデルスゾーン/交響曲第3番イ短調『スコットランド』
※J.S.バッハ/カンタータ第107番『汝何を悲しまんとするや』
※ヨーゼフ・シュトラウス/ポルカ・マズルカ『とんぼ』
《18時00分開演、20時05分終演》

18世紀オーケストラは1981年にブリュッヘンが創設した古楽器のオーケストラ。

弦は対抗配置で7-7-5-5-3でコントラバスは下手(左手)側で、ティンパニーは上手(右手)側。木管はそれぞれ2。金管はトランペット2、ホルンは前半は2の後半は4といたって小編成。

ブリュッヘンは車椅子に乗って登場。かろうじて立って指揮台に上がることはできるが、指揮はもちろん座って行う。

1曲目。これまで聴いた『未完成』のなかでもっとも遅く、いったいいつになったら終わるんだと思うぐらい長い演奏だった。しかし、その音色は深遠かつ清麗だった。それはおそらくブリュッヘンのなかに、もうこのオケと共に日本に来れないという感慨と、ある種の死生観を抱きながら指揮していたからではないだろうか。

2曲目。古楽器というのは洗練された音を出すことができない。特に金管のトランペットやホルンは現在の楽器に比べて甲高ったり、重層的な深みのある音を出すことができない。だだ、逆にシンプルな音というか素朴感を味わせてくれる。その意味においては、この演奏は俊逸だったと思う。いつも雲に覆われているスコットランドの空から、たまに光りが差し込むかのような風景や、馬車が田園風景のなかを走って行くような光景を、シンプルかつ素朴に想像させてくれた。