ミーハーのクラシック音楽鑑賞

ライブ感を交えながら独断と偏見で綴るブログ

ベートーヴェンの宗教音楽

2015-03-25 00:20:36 | 都響
一昨日(23日)サントリーホールで開かれた東京都交響楽団第785回定期演奏会Bシリーズを聴きに行ってきた。指揮は小泉和裕。

【演目】(※はアンコール曲)
ベートーヴェン/ミサ・ソレムニス ニ長調
《19時00分開演、20時25分終演》

 ソプラノ:吉原圭子
 アルト:山下牧子
 テノール:小原啓楼
 バス:河野克典
 合唱:栗友会合唱団、武蔵野音楽大学室内合唱団

初めて聴く曲。めったに演奏されることがない演目ということで、期待して聴きに行ったが、かなり落胆して劇場を出るとは・・・。

都響のホームページにはこの曲のことを「宗教音楽というカテゴリーを超えた、普遍的な祈りの音楽」と書いてあったが、結局はその範疇を超えることのない、というよりも宗教音楽の極致というかもうゴリゴリに凝り固まった音楽としか思えなかった。それゆえに、改めて「第九」の凄さを認識次第である。

それにしても、この曲、第1章から第5章まで合唱団はほぼ歌いっぱなし。そのために、オケは完全に脇役状態。以前にも書いたと思うが、人間という楽器はどんな素晴らしい楽器をも凌駕してしまう。つまり管弦楽は声楽にかなわないのである。ということで、宗教的歌声が響きわたるだけで、どんな音楽だったかという印象はまったく残らない。結局のところ、こうした宗教音楽はその宗教を理解している人にしか解らないのかもしれない。

独唱陣ではアルトの山下牧子の艶のある声が魅惑的だったが、それ以外の3人にはもう少し頑張ってほしいかなと。あと、合唱団だが、こちらはバランスが良くない。合唱というのはソプラノがちょっと強いぐらいが好ましいと勝手に思っているが、この日の合唱団はソプラノが強すぎた。それにしても、このめったに演奏されない曲を完全暗譜で指揮する小泉和裕に驚きを隠さずにはいられなかった。

ラザレフと日本フィルのショスタコーヴィチ

2015-03-22 01:00:01 | 日本フィル
一昨日(20日)サントリーホールで開かれた日本フィルハーモニー交響楽団第668回定期公演を聴きに行ってきた。指揮はアレクサンドル・ラザレフ。ピアノはイワン・ルージン。

【演目】
ショスタコーヴィチ/ピアノ協奏曲第2番
※プロコフィエフ/ピアノソナタ第7番から第3楽章
  〜休 憩〜
ショスタコーヴィチ/交響曲第11番《1905年》
《19時00分開演、20時50分終演》

久しぶりの日本フィル。ラザレフが振ると日本フィルは豹変するが、今回は豹変どころか劇的ビフォーアフターだ。日本フィルは普段はどちらかというと大人しく地味な印象のオケだが、ラザレフが指揮をすると水を得た魚ではないが俄然生き生きする。それゆえに、ラザレフが振る日本フィルは聴き逃せない。

1曲目。この曲を聴くのはおそらく初めて。ショスタコーヴィチが息子のマキシムのために書かれたという曲らしい。第1楽章はいかにもショスタコーヴィチらしく軽快。第2楽章はアンダンテで弱音主体の楽章。第3楽章は機械的というかアップダウンの激しい楽章。ピアニストのイワン・ルージンは1982年生まれというからおそらく32歳。その演奏ぶりはとても小気味よく爽快にして躍動感漲る。アンコールのプロコフィエフのピアノソナタ第7番から第3楽章では超絶技巧も披露して、観客の心をしっかり掴んだ。こんどは彼が弾くフロコフィエフの協奏曲第3番を聴いてみたい。

2曲目。ショスタコーヴィッチといえば、これまでインバルやスクロヴァチェフスキの十八番だと思っていたが、どうやらその考えは改めないといけない。ラザレフが振るショスタコーヴィチ交響曲第11番は単に1905年の「血の日曜日事件」を描く標題音楽ではなく、そのドラマに登場している人間たちの魂までをしっかりも描いていて、いわば劇的音楽になっていた。

第1楽章「宮殿前広場」アダージョ。宮殿前広場で民衆と軍隊が対峙している光景を不気味に描いている。この音楽の導入部というか前奏曲だ。ミュートを付けたトランペットの警告音のような音色。不気味な弦の音色。そのなかでフルートやホルンが革命歌を歌い上げる。ラザレフは抑制のきいた指揮でしっかりとオケをリードしていく。

第2楽章「1月9日」アレグロ。民衆の蜂起と悲惨な結末を描いている。ある意味でこの曲のハイライトかもしれない。弦の激しいアップダウン。木管や金管の焦りのような音色。そして打楽器の素早い鼓動。ショスタコーヴィチ特有のアンバラスな音階が前後左右そして上下に交差していく。それをラザレフと日本フィルは精彩かつ快活に奏であげていく。見事。

第3楽章「永遠の記憶」アダージョ。民衆の悲しみを描く。葬送行進曲である。ヴィオラが革命歌「こんにちは、自由よ」を奏でるのだが、その弱音というかピアニッシモの響きが素晴らしい。悲しみと怒りをいかんなく表わしていく。日本フィルの弦のアンサンブルでこれほどの素晴らしい音色を聴いたのは初めてかもしれない。

第4楽章「警鐘」アレグロ・ノン・トロッポ。「血の日曜日事件」に対する怒りと、革命への思いを描いている。有名な「ワルシャワ労働歌」が何度も登場して民衆の強い意志を感じさせる。また、イングリッシュホルンが「帽子をぬごう」を演奏して、最後に交響曲第5番と同じなうな弦による不協和音の旋律が響きわたり、打楽器(ティンパニーとスラムドラムはブラボー)と鐘の乱打が鳴り響き大団円となる。

久しぶりに感涙した。ラザレフは約1時間の大曲をさほど譜面を見ることなく、オケに的確な指示を出しながら、終始一貫緩急自在にコントロールした。決して爆演ではなく、緻密に計画&計算され、しっかり練習を積んだ成果の大変立派な演奏だった。これまで聴いた日本フィルの演奏のなかでもベストといっても過言ではないかもしれない。日本フィルは残念なことに在京オケでもあまり高い評価を得てはいないが、ラザレフという素晴らしい指揮者と若いながらも安定した金管陣がいるオケである。ラザレフと日本フィルは6月に今度はショスタコーヴィチ「交響曲第8番」を演奏する。もちろん聴きに行く予定でいる。

『マノン・レスコー』@新国立劇場

2015-03-14 01:27:56 | オペラ
一昨日(12日)新国立劇場・オペラ劇場で公演されている『マノン・レスコー』(2日目)を観てきた。音楽はジャコモ・プッチーニ。演出はジルベール・デフロ。指揮はピエール・ジョルジョ・モランディ。管弦楽は東京交響楽団。主な出演者は下記の通り。

 マノン・レスコー:スヴェトラ・ヴァッシレヴァ
 デ・グリュー:グスターヴォ・ポルタ
 レスコー:ダリボール・イェニス
 ジェロント:妻屋秀和
 合唱:新国立劇場合唱団
 《19時00分開演、21時50分終演》休憩1回

2011年3月15日に初日を迎えるはずだった今回の『マノン・レスコー』。しかしながら、東日本大震災のために公演は中止を余儀なくされた。あれから4年。舞台は主要キャストは変わっていないが、指揮はリッカルド・フリッツァからスヴェトラ・ヴァッシレヴァに。

あらすじというかテーマは、ヒロインであるマノン・レスコーが貧乏ながらも好きなデ・グリューとの愛に生きるか、それとも愛はないがジェロントの庇護のもとに贅沢な暮らしに生きるか、といったところだろうか。

さて、舞台であるが舞台美術と演出がとてもいい。舞台美術は、第1幕は馬車の駅舎の待合室、第2幕はマノンの部屋、第3幕は港の桟橋、第4幕は荒野を表しているだが、どのセットも華美な装飾をまったく施さずに白を基調したシンプルに造られている。その一方で、衣装は18世紀の世界を再現していて、これがなんの違和感もなくセットにマッチしている。これはひとえに、ジルベール・デフロのプランおよび演出の巧みさゆえであろう。そして、第1幕と第3幕の合唱団および助演陣が出てくるシーンでの細部にいたる精巧な演出は見事で感服するしかない。デフロは『カヴァレリア・ルスティカーナ/道化師』での完成度の高い演出にも驚いたが、今回の演出も素晴らしい。彼は相当な才能があると思うので、新国立劇場は彼をもっと登用すべきではなかろうか。

次に主要キャストだが、タイトルロールを演じたスヴェトラ・ヴァッシレヴァは小柄ながらも舞台映えのする歌手だ。ただし、歌に関しては前半は妙に声を張り上げるだけといった感じで、気持ちと歌が妙にチグハグだった。しかし、後半は歌にしっかりと感情移入がされていて、悲劇のヒロインをしっかり演じていた。相手役のグスターヴォ・ポルタは『道化師』のときほど切れる歌声はなかったものの、マノンを引き立てることもあり、それはそれなりに良かった。ダリボール・イェニスと妻屋秀和の二人に関しては、さほど重要な歌があるわけでないので「もったいなあ」と言うしかない。

そして、演奏であるが、これはこれまで聴いた新国立劇場のオケピのなかでも屈指といってもいいほど出色だった。プッチーニを熟知していそうなピエール・ジョルジョ・モランディの指揮のもとに、東京交響楽団が白を基調とした舞台美術と同じように清廉かつ瑞々しい音色を随所に醸し出し、聴きごたえたっぷりだった。時に舞台より耳をすましている時間が長くなったりしてしまうほど優れた演奏を披露してくれた。

最後に今回の公演は十二分に4年前の復活というかリベンジを成し遂げたといっていいと思う。また何年か後に更にグレードアップして再演されるに違いない。

サロネン&フィルハーモニア管のシベ5

2015-03-06 01:03:38 | 海外オーケストラ
一昨日(4日)サンントリーホールで開かれたフィルハーモニア管弦楽団の公演を聴きに行ってきた。指揮はエサ=ペッカ・サロネン。ヴァイオリンはヒラリー・ハーン。

【演目】(※はアンコール曲)
シベリウス/『トゥオネラの白鳥』(『レンミンカイネン組曲』第2曲)
ブラームス/ヴァイオリン協奏曲ニ長調
※バッハ/パルティータ第3番〜ジーグ
  〜休 憩〜
シベリウス/交響曲第5番変ホ長調
※シベリウス/悲しきワルツ
《19時00分開演、21時20分終演》

1曲目。イングリッシュホルンのソロで有名な曲だが、ただその音色に白鳥を表すような気品高さがあまり感じられなかった。もう少し奏者(女性の方)ならではの自我というか色香を吹き込んでもよかったのではないだろうか。それにしても、どうしていつも『トゥオネラの白鳥』だけしか演奏されないのだろうか。せっかくの機会なのだから『レンミンカイネン組曲』全曲演奏をしてもらいたかった。

2曲目。ヒラリー・ハーンはシルバー・グレイのドレスで登場。驚いたのは髪が真っ黒になっているのと、体型が全体にふっくらしていて、語弊があるかもしれないがオバサンいやお母さんぽくなっていた。加えて、演奏スタイルにもかなりの変化が見えた。ハーンというとアグレッシブにしてダイナミックな演奏が持ち味だと思っていたが、今回はデリケートにしてとってもセンシティブという感じだった。それゆえに、ブラームスがもつ交響曲的協奏曲という響きとは少しかけ離れていたように思える。それにしても、どうしてシベリウスのヴァイオリン協奏曲をやらなかったのだろうか・・・。

3曲目。先日のブログ(2月28日付)にも書いたが、シベリウスの交響曲というと日本では第2番が一番人気であるが、ヨーロッパでは第5番が人気があるという。その理由がいかなるものなのかということを注意しながら聴いていたが、途中からそんなことがどうでもいいと思うぐらい素晴らしい演奏だった。

第1楽章。冒頭部分から木管・金管がシベリウスがもつ自然描写的音楽を見事に表現していて、春の息吹と自然の神秘性をイメージさせてくれる。そして、弦とのアンサンブルも単に画一的ではなく、多角的かつ重層的であり、音色はまるで限界がないような幅を広がせてくれる。素晴らしい。

第2楽章。弦のピチカートと木管のスタッカートのような演奏が二重三重と絡み合っていき、それを金管が青空をイメージするかのよう背景を作り上げ、音楽がまるで虹色のような輝きを見せてくれる。いや〜、素晴らしい。

第3楽章。ホルンが哀感と優しさに包まれた有名な旋律を発していき、それにトロンボーンが加わるとなんとなく陽が暮れていく自然の寂しさを伝えてくれる。そして、弦が静かな闇の世界を描き、最後はトランペットに始まる朝日が昇っていくような光景のコーダが一糸乱れない演奏が続いていき、最後にティンパニーの激しい音色が炸裂する。いや〜、すごい張り詰めた緊張感ある演奏で鳥肌ものだった。文句なしにこれまで聴いたシベ5のなかでは一番の演奏であり、しばらくはあの旋律が頭のなかでガンガン鳴りそうである。(笑)

最後に当初疑問にあった点が少し解ったような気がする。日本で第2番が一番人気があるのは観客だけでなくオケにも問題があるのではないだろうか。第2番は日本人にも起承転結がはっきりした解りやすい音楽構成であり日本のオケでも名演奏がよくなされると思う。ところが第5番は金管の負担がかなり大きく、日本のオケでこの金管の咆哮をしっかりと表現できるオケがあまりないように思え、日本のオケによる名演奏をなかなか聴くことができない。こうしたことから、どうしても日本では第2番が人気になってしまうのではないだろうか。先日の札幌交響楽団の第5〜第7番のプログラムにしても、なぜ第5番が最後の演目でなかったのはこうしたことが配慮されているのかも。いずれにしろ、日本のオケもこれからは第2番ではなく第5番をどんどん演奏して、名演奏を築きあげていってもらいたい。

なお、この模様は4月19日のEテレ『クラシック音楽館』で放送予定。お見逃しなく。

葬式で使われるクラシック音楽ぐらい・・・

2015-03-03 14:50:10 | Weblog
葬式で使われる音楽というのは、故人が指定された音楽以外は、一般的にはクラシック音楽が使われることが多い。これは著作権に関係ないことと、参列者の誰もが文句を言いにくいという理由があるからではないだろうか。

では、どのようなクラシック音楽が使われているかというと、まずは定番としてはバッハの「G線上のアリア」とショパンの「別れの曲」が多いらしい。それから、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」やラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」などの小品が好まれるみたいだ。一方で、ワーグナー、R.シュトラウス、マーラー、ブルックナーといった作曲家の音楽はほとんど使われないようである。

以前、葬儀屋で働いていた知人に「こうした葬儀用の音楽のCDがあるのか」と聞いたことがあるが、その答えはイエスで「多くの葬儀屋は全葬連が販売している、演奏者までの権利放棄した音楽CDを使っている」とのことであった。となると、故人が指定したクラシック音楽(例えば著名なピアニストやオケが奏でた曲)を使うには生前に使用許可を取らなければならないことになる。でも、そんなことをしている人は誰もいないだろう。

せめて葬式に使われるクラシック音楽ぐらいは故人の好きな音楽を使用させてほしいものである。故人はそれまでに十二分にその音楽家および音楽に対して著作権料を払っているのだから。