ミーハーのクラシック音楽鑑賞

ライブ感を交えながら独断と偏見で綴るブログ

『さまよえるオランダ人』@新国立劇場

2015-01-30 00:33:12 | オペラ
一昨日(28日)新国立劇場・オペラ劇場で公演されている『さまよえるオランダ人』(4日目)を観てきた。演出はマティアス・フォン・シュテークマン。指揮は飯守泰次郎。管弦楽は東京交響楽団。主な出演者は下記の通り。

ダーラント:ラファウ・シヴェク
ゼンタ:リカルダ・メルベート
エリック:ダニエル・キルヒ
マリー:竹本節子
舵手:望月哲也
オランダ人:トーマス・ヨハネス・マイヤー
合唱:新国立劇場合唱団

評判があまりよろしくない公演である。理由はなんとなく察していた。というのも、今回の公演は全5回のうち4回がマチネなのである。いくら高齢化社会になったからとはいえ、ほとんどがマチネ公演というのは異常である。ましてや初日をマチネにするというのも大疑問だ。

私は基本的に芝居にしろ音楽にしろマチネ公演には行かないようにしている。というのも、終演後に劇場から外に出たときに明るいと、劇場で味わった非日常が一瞬にして興ざめてしまうからだ。芸術は非日常の世界である。だから、それにしっかりと浸りたいがために、マチネを避けてソアレに行くようにしている。

そして、もう1つ理由がある。これは演劇制作者としての経験から言わせてもらう。マチネは歌い手にしろ役者にしろ声が出にくい。身体のキレも良くない。同じことは演奏する側も同じだと思う。以前ある音楽家に聞いたことがあるが、マチネとソアレでは音色の感覚が違うそうだ。あと、芝居やオペラの場合は稽古を夜遅くまでやっている場合が多い。そのために通し稽古やゲネプロは大概夜に行っている。それなのに、公演のほとんどがマチネだったり、初日がマチネというのはどう考えてもおかしい。 

ということで、私は唯一のソアレ公演を観に行った。

飯守泰次郎が指揮するオペラを観るのは初めてである。結論として、彼の指揮は目立ちすぎる。椅子に座って指揮をしているとき(間奏曲など音楽のみのとき)はまだしも、出演者が登場して舞台で歌いはじめると、彼は立って指揮を行う。しかし、彼の指揮ぶりは1階席で見ているにもかかわらず、上半身がほとんど見えて「まるで私が主役です」と言わんばかりである。オペラにおける指揮者は確かに出演者に対しても指示をすることは分かるが、あんなに観客に目立つ必要性はないと思う。もう少し配慮がほしい。

さて、舞台であるが第1幕。長い。とにかく長い。意味もなく長い。序曲も長いが話の中身はさほどないのに長い。オペラ全体のただの序章でしかないのに延々とやっている。音楽もまったく抑揚がなく欠伸がでるほど退屈である。これはひとえに作曲者のワーグナーもしくは創設時のプロデューサーに責任があるだろう。

休憩後の第2幕。ヒロインのゼンタに魅力を感じない。ゼンタ役のリカルダ・メルベートはバイロイトでも歌っているし、新国立劇場にも何度か出ているがまったく没個性的なのである。これはひとえに終始一貫陰湿で暗い演出をしているマティアス・フォン・シュテークマンに責任があるだろう。

第3幕。必要以上に人数が多い新国立劇場合唱団がでてくるが、合唱団があまりにも多すぎて声が割れている。新国立劇場はさほど大きくない舞台なのだから50人もの水夫などいらない。加えて、オランダ人を演じたトーマス・ヨハネス・マイヤーにも魅力を感じさせない。これらはひとえに演出の問題である。一方で、ダーラントを演じたラファウ・シヴェクは魅力的であった。なんとも皮肉だ。

最後に私のようなオペラ素人(ただし演劇は元玄人)が引導を渡すのもなんだが、新国立劇場は今回で3回目となるシュテークマン版『さまよえるオランダ人』はもう上演しない方がいい。日本人の有能な演出家に依頼してもっと斬新な新制作に生まれ変わることを切に願う。

都響の《日本管弦楽の名曲とその源流20(プロデュース:一柳慧)》

2015-01-25 02:22:22 | 都響
一昨日(23日)サントリーホールで開かれた東京都交響楽団の第783回定期演奏会Bシリーズを聴きに行ってきた。指揮はハンヌ・リントゥ。チェロはピーター・ウィスペルウェイ。

【演目】(※はアンコール曲)
シベリウス/交響詩《夜の騎行と日の出》
ルトスワフスキ/チェロ協奏曲(1970)
※J.S.バッハ/無伴奏チェロ組曲第2番ニ短調 BWV 1008よりサラバンド
  〜休 憩〜
一柳 慧/交響曲第9番《ディアスポラ》(都響委嘱作品・世界初演)
《19時00分開演、20時55分終演》

指揮のハンヌ・リントゥは1967年フィンランド生まれ。現在、フィンランド放送交響楽団の首席指揮者を務めている。

1曲目。前半は騎馬の行列を表現するかのように、コントラバス以外の弦によって軽快な旋律が何分か繰り返される。それを木管・金管・打楽器そしてコントラバスが森や湖といった背景を描いていく。いたってシンプルな表現方法だ。そして、途中で鳥が囀りはじめると、曲調は完全に情景描写に変わっていき、いかにもシベリウスという壮快感に満ちた音楽の世界になっていく。ただ演奏は稽古不足なのかちょっとギクシャクしてたかのような感は否めなかった。

2曲目。ピーター・ウィスペルウェイは1962年オランダ生まれ。現代最高のチェリストの1人とも言われ、数多くのアルバムを出している。使用楽器は1760年製ジョヴァンニ・グァダニーニ。そして、独奏用チェロの演奏台がなぜか2段重。

ルトスワフスキは第2次世界大戦のために自分の音楽人生をめちゃくちゃにされた。そのために、体制および戦争に対する嫌悪感が並々ものがあるらしい。そして、プログラムには「そんなルトスワフスキらしさ満開の作品である。ここではチェロが作曲家、金管がナチスや共産党、木管や弦や打楽器は日和見派。そう考えてよいだろう」と書かれている。そして、聴いてみると、確かに作風はチェロの独奏とオケの伴奏が対峙していて、協奏曲というより競奏曲もしくは対峙曲といった感じである。

冒頭からチェロはD線の音が繰り返していき、そのあとは自由奔放なカデンツァが続き、そして官憲というか軍隊と思われるトランペットが制圧に入ってきて、独奏オケと伴奏オケの戦いが延々と繰り広げられる。しかし、これがまったく退屈しない。それはまるで逃亡劇を連想させたり、体制側の伴奏オケの自滅を思いうかべたりとイマジネーションがどんどん広がっていく。こうしたイマジネーションを起こす元になっているのは、ピーター・ウィスペルウェイの破天荒にして変幻自在な演奏だ。独創的というか、彼が繰り出す音色には力強い精神というか執念のような魂を感じる。音楽の面白さを楽しむと共に、チェリストとしてはミクローシュ・ペレーニ以来の衝撃と感動を覚えた。ブラボー!

3曲目。標題の《ディアスポラ》とはギリシャ語で「離散・四散」という意味とのこと。これはこの曲が戦争体験に基づいて作曲されたことに関連しているからだろう。

音楽は4楽章で構成されている。第1楽章はまだ戦争に巻き込まれる前の微かな平和な時代を表しているような感じで、これまで数多くの実験音楽を作ってきた一柳氏にしてはオーソドックスな作り。ところが第2楽章になると、急激にアップテンポになり軍靴の足音が響きわたるような世界で実験性が垣間見る。第3楽章はどことなく束の間の静けさを味わっている感じで穏やか。そして、最終楽章は標題のように戦争によって社会が離散していくかを表していくと同時に、音楽も拡散して破壊していくようにも思わせる。

う〜ん、作品そのものが成功したのか、それとも完成しているのかはど素人の私などにはまったく解らないが、思ったのはこの曲は平和ボケしている日本人よりも今でもみじかに戦争を感じている外国人の方がしっかりと受けとめるではないだろうか。その意味において、指揮のハンヌ・リントゥによってヨーロッパで演奏される機会が設けられば面白いと思う。

ノセダ&N響の第3ラウンドはちと空回り

2015-01-22 23:34:05 | N響
昨日(21日)サントリーホールで開かれたNHK交響楽団第1801回定期公演Bプログラム(1日目)を聴いてきた。指揮はジャナンドレア・ノセダ。ピアノはアレキサンダー・ロマノフスキー。

【演目】
リスト/交響詩「レ・プレリュード」
ラフマニノフ/パガニーニの主題による狂詩曲
※ショパン/練習曲ハ短調「革命」
  〜休 憩〜
カセルラ/交響曲第3番
《19時00分開演、20時55分終演》

1曲目。弦楽の統率が取れた音色に、木管と金管が豊穣な響きを加えて、しっかりと聴かせてくれる。ただ、ジャナンドレア・ノセダの指揮が直情的ということもあるせいか、もう少しメリハリというかドラマチックな展開がほしかった・・・。

2曲目。アレキサンダー・ロマノフスキーはちょっと変わった弾き方をする。「パガニーニの主題による狂詩曲」というと、最初に主題を奏でるときに弾んだり跳ねたりする人がいるが、ロマノフスキーは言葉は悪いが猫の手が引っ掻くような感じで鍵盤をたたく。だからといって、ギ〜ッという引っ掻き音のようになるわけではなく、軽やかにして爽快感のある音色が流れていく。これまでにない「パガニーニ」を聴いた思いであるが、もう少ししっとり感も欲しかった・・・。

3曲目。私は交響曲というのは第2楽章が面白いか面白くないか、聴き応えがあるかないかで良し悪しが決まるのではないかという勝手な判断基準をもっている。その定義がすると、この交響曲は第2楽章がいただけない。また第3楽章もかなり粗雑な作りになっている。加えて第4楽章も奇天烈感が否めない。こうなると、この曲が演奏会の定番として入らないというの理解できる。ノセダがこの曲を取り上げた意気込みは買うが、結果はどうも空回りだったような気がする。

曲自体は1941年に初演されたものなので、ムッソリーニを敬して軍事的音楽の色彩があるのかなと思ったが、シカゴ響の委嘱作品ということもあり、それは皆無に近かった。ただ、前述のように交響曲としての聴き応えに乏しく、同世代のバルトーク、シェーンベルク、ストラヴィンスキーのような斬新さもなければ、ショスタコーヴィチやプロコフィエフのようなメッセージ性もない。これではいくら素晴らしい演奏したところで聴衆の支持は受け入れないだろう。

最後に、ジャナンドレア・ノセダ指揮による3公演をすべて聴いたが、彼の作る音楽は飾り気のない直情的であることはで解るが、もう一捻りほしいと思わざるをえなかった。

ノセダとN響のロシアン・プログラム

2015-01-18 01:19:40 | N響
一昨日(16日)NHKホールで開かれたNHK交響楽団第第1800回定期公演Cプログラムを聴きに行ってきた。指揮はジャナンドレア・ノセダ。ヴァイオリンはジェームズ・エーネス。

【演目】
リムスキー・コルサコフ/組曲「見えない町キーテジの物語」
プロコフィエフ/ヴァイオリン協奏曲第2番ト短調
※バッハ/無伴奏ソナタ第3番ハ長調第4楽章
  〜休 憩〜
ムソルグスキー(ラヴェル)/組曲「展覧会の絵」
《19時00分開演、21時00分終演》

1800回目の定期公演である。といっても、これといった記念イベントがあるわけでもなく、いつもと変わらず淡々と演奏は行われた。1900回目も普通の公演だろう。2000回目はなんかあるのだろうか・・・。

1曲目。プログラムにはワーグナーを連想させるだの、類似しているだの、と書いてあったが、そんなことをまったく感じることなく、いかにもロシア的でありバレエ音楽のような優美さも兼ね添えた組曲で、ドラマチックな展開を気持ちよく楽しむことができた。今度はぜひとも原題のオペラを観てみたい。新国立劇場もたまにはロシア・オペラを上演してほしいもんだ。

2曲目。ジェームズ・エーネスは端正な出で立ちで、音楽家というよりなんかソムリエかギャルソンといった感じ。だが、その彼から引き出されるヴァイオリンの音色はプロコフィエフの難解な曲にもかかわらず流麗にして協調性に満ちている。そのせいもあってか、この人はソリストというよりコンマスに向いているのではないかとも思ってしまう。ただ、美しいアンコール曲の演奏を聴いた後は、やはりこの人はソリストなんだなと、思い直した。

3曲目。「展覧会の絵」というとトランペットをはじめとした金管がクローズアップされるが、この日のノセダは金管主体というより弦や木管に趣を置いた指揮のように思えた。加えて、1曲目の影響ではないが、バレエ音楽のようなドラマチックな方向性をも取り込もうとした演奏にも聴こえた。それにしても、ノセダの指揮は難しい。特にアインザッツの指示の見極め方が分かりにくい。

ノセダとN響の新幹線「運命」

2015-01-12 00:32:06 | N響
一昨日(10日)NHKホールで開かれたNHK交響楽団第第1799回定期公演Aプログラムを聴きに行ってきた。指揮はジャナンドレア・ノセダ。ピアノはアレクサンダー・ガヴリリュク。

【演目】(※はアンコール曲)
フォーレ/組曲「ペレアスとメリザンド」
プロコフィエフ/ピアノ協奏曲第3番ハ長調
※ショパン/練習曲 作品25−7
  〜休 憩〜
ベートーヴェン/交響曲第5番ハ短調「運命」
《19時00分開演、20時50分終演》

1曲目。先月デュトワの指揮で『ペレアスとメリザンド』の演奏会形式をやったばかりなのに、それからひと月後には組曲の演奏である。どういう意図でこういうプログラミングをされたのか解らないが、結論からすると、凡庸な演奏だった。確かにフルートのソロや木管のアンサンブルなど聴かせどころのツボをしっかり押さえているものの、ノセダの少し感情的な指揮とこの曲はマッチしない感じで、オケもどことなく上手く協調しているように思えなかった。

2曲目。第1楽章はいかに鍵盤の上を飛び跳ねるかのように演奏。続く第2楽章はどれだけ鍵盤を撫でるというか愛でるかのように演奏。そして、第3楽章になると今度は鍵盤が壊れるのではないかと思うぐらいの破壊的な演奏。プロコフィエフの傑作を、アレクサンダー・ガヴリリュクはその意を汲みするかのように前衛的かつ攻撃的に演奏した。終演後は指揮のジャナンドレア・ノセダと抱き合い、満面の笑みを客席に見せた。納得の演奏であったに違いない。私も十二分に堪能させてもらった。

3曲目。ノセダは指揮台に上がるやいなや、振り向きざまに太刀を下すかのようにタクトを振り下ろし「ジャジャジャジャーン♪」と音を奏であげさせる。そして、そのあとのテンポといえば、まるで東京発博多行き新幹線「のぞみ」が品川駅、新横浜駅を止まらずにいくかのような速さで呆気に取られる。こんな超高速の「運命」は初めてである。これではあっという間に終わってしまうと懸念していたら、それはあくまでも第1楽章だけでホッとする。といっても、第2楽章以降も「ひかり」並みで、14型編成のオケはまるで高性能マシーンかのように緻密な音色を奏でていく。ところが、第3楽章冒頭でチェロにアクシデントがあったりするものの、そんなことが何事もなかったのようにノセダ運転手によるN響新幹線は、終曲まで緊張感のなか緻密かつ精巧な演奏で走り続けた。ああ、面白かった。

ミハイロフスキー劇場バレエ団の『ジゼル』

2015-01-08 23:46:03 | バレエ
一昨日(6日)東京文化会館で公演されたミハイロフスキー劇場バレエ団の『ジゼル』を観てきた。音楽はアドルフ・アダン。振付はJ.コラーリ、J.ペロー、M.プティパ。改訂演出はN.ドルグーシン。指揮はヴァレンティン・ボグダーノフ。管弦楽はレニングラード国立歌劇場管弦楽団。主なキャストは下記の通り。

 ジゼル:イリーナ・ペレン
 アルベルト:レオニード・サラファーノフ

 ミルタ:イリーナ・コシェレワ
 森番ハンス:ウラジーミル・ツァル
 ぺザント・パ・ド・ドゥ:ヴェロニカ・イグナツェワ、アンドレイ・ヤフニューク
 ベルタ(ジゼルの母):アンナ・ノヴォショーロワ
 バチルド(アルベルトの婚約者):オリガ・セミョーノワ
 公爵:アレクセイ・マラーホフ
 アルベルトの従者:ロマン・ペトゥホフ
 ドゥ・ウィリ:ワレーリア・ザパスニコワ、アンナ・ナウメンコ

上演時間 第1幕約50分 休憩20分 第3幕約50分 
《19時00分開演、21時10分終演》

今年の事始めはバレエからとなったが、3年前の2012年も同じようにバレエからで、それも同じミハイロフスキー・バレエ団の『海賊』だった。そして、そのときのキャストも奇しくも今回と同じイリーナ・ペレンとレオニード・サラファーノフという組み合わせだった。しかし、今回は当初主演のジゼルはボリショイ・バレエ団から移籍したアンジェリーナ・ヴォロンツォーワだったのだが・・・。ところが、劇場側の都合により来日できなくなりペレンに変更になった。しかし、この変更通知が公演前日の5日とはちと遅すぎはしないだろうか。なにぶんバレエ団は3日にすでにガラ公演を行っているのだから。

『ジゼル』は1幕は昼の森を舞台に村娘ジゼルが貴族のアルベルトの恋い焦がれるものの、彼には婚約者がいることが分かり、ショックのあまりに狂乱して死んでしまうという展開。そして、第2幕は黄泉の国とでも言おうか夜の森を舞台に、森の妖精とも言うべき若い乙女たちの精霊(ウィリ)たちがアルベルトの生死を駆け引きを繰り広げるという物語である。

主演のイリーナ・ペレンは病弱なイメージのあるジゼルという感じではない華奢なバレリーナではないが、踊りの上手さだけではなく演技力が素晴らしい。特に第1幕後半で狂気に変わっていく様はバレリーナの域を逸脱してまるでホラー女優を彷彿させるような迫真の演技。一方、アルベルトのレオニード・サラファーノフは3年前に観たときは強靭なテクニックに驚いたものだが、今回もたっぷりとテクニックを披露してくれた。ただ、端正な顔の額が若干広がったのではないかと危惧はしてしまったが・・・。

で、今回私がもっとも目を引いたのはウィリのリーダーというか女王のミルタを演じたイリーナ・コシェレワ。彼女の凛とした表情と颯然とした踊りや立ち振る舞いがとても魅惑的だった。また、ウィリたちの群舞はしっかり統率が取れていて悪くなかったのだが、気になったのがトゥシューズの音だ。先日観たボリショイ・バレエ団は主催者のジャパンアーツが新しいバレエ床を用意したために、まったく音は気にならなかったが、今回はトゥシューズの音だけでなく、床の軋む音まで聞こえてきてしまい、少し興ざめせざるをえなかった。主催者の光藍社も多くのバレエ団を招聘するのだから、バレエ床にはもう少し気遣いをするべきではないだろうか。