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ミーハーのクラシック音楽鑑賞

ライブ感を交えながら独断と偏見で綴るブログ

ハーディングのブラームス2曲

2014-05-05 23:51:08 | 新日本フィル
先日(2日)、サントリーホールで開かれた新日本フィルハーモニー交響楽団の第525回定期演奏会を聴きに行ってきた。指揮はダニエル・ハーディング。

【演目】
ブラームス/交響曲第2番ニ長調
  ~休 憩~
ブラームス/交響曲第3番ニ長調
《19時15分開演、21時00分終演》

新日本フィルはハーディングが指揮をするとチケット代が高くなる。ソリストがいるわけでもないのにS席は10,000円になる。インゴ・メッツマッハーや準・メルクルのときは8,000円なのに・・・。以前東京フィルでもチョン・ミョンフンが振る時はやはり値段が高かった。指揮者のギャラというのはそんなに違うものなのだろうか。N響の場合はマゼールだろうがチョン・ミョンフンだろうが圴一なのに。

新日本フィルの料金体系はいろいろと偏っている。今度小沢征爾が振る特別演奏会はS席が15,000円だ。ところが、すみだトリフォニーホールで開かれる「新・クラシックへの扉」シリーズはS席が4,000円だったり4500円だりする。そして、このシリーズに関しては65歳以上、学生、墨田区在住・勤者は更に安くなる。クラシックの底辺を広げるためには、こうした割引はいいことだが、その帳尻をハーディングや小沢征爾で合わせていると思うと、ちょっと苦虫を噛み潰したような気にもなる。

と、前置きが少し長くなった。本題に入りたい。

1曲目。ハーディングはブラームスを熟知している。というか、弦を妙に煽ることなく木管に気持ち主題の旋律を演奏させようとしいる。そのせいか、いつもは大きく身体を動かすコンマス(崔文洙)も少々持て余し気味。しかし、ハーディングは第4楽章になると、それまで抑えていたヴァイオリンを解放させる。ハーディングはブラ2をうまく聴かせる術を心得ている。

2曲目。1曲目が無難な演奏だったので、2曲目はもう少し冒険してほしいなあ、と思って聴き始めたが、こちらも当たり障りのない演奏。ホルンをはじめとした金管の聴かせどころは非常に大人しく、言葉に語弊があるかもしれないが、ブラームスを聴いているというよりモーツァルトといった感じ。なんか拍子抜けであった。それでもほぼ満席の客席から数多くの「ブラボー!」の声が上がっていた・・・。

問題山積の新日本フィル

2014-03-08 23:13:42 | 新日本フィル
一昨日(6日)、サントリーホールで開かれた新日本フィルハーモニー交響楽団の第521回定期演奏会を聴きに行ってきた。指揮は準・メルクル。

【演目】
ストラヴィンスキー/交響的幻想曲『花火』
ドビュッシー/バレエ音楽『遊戯』
  ~休 憩~
ベルリオーズ/幻想交響曲―ある芸術家の生涯のエピソード
《19時15分開演、21時05分終演》

昨年9月にインゴ・メッツマッハーが“Conductor in Residence”(座付指揮者とでも訳すのか)に就任して、新日本フィルは変わるのかなと大いに期待したが、11月の藤村実穂子を迎えた演奏会ではヴァイオリンのプルト間が間延びしていてバランスが悪く、また先週の演奏会でも指揮者のスピノジが出たり入ったりの繰り返しで緊張感を削いだ。どうも今のところ“期待”というようり“失望”が先行している。そして、今回の演奏会も残念ながらその“失望”を払拭するには至らなかった。

1曲目。タイトル通り煌びやかな音楽で、金管・木管が華やかに炸裂するが、それを支える弦が冴えない。冴えないどころか「ふぞろいの林檎たち」状態。とてもじゃないが褒められたものではない。

2曲目。バレエ音楽ということで興味津々に聴いたが、この曲、バレエを演じるにはかなり難しい音楽だと思う。プログラムにも音楽としては成功したが、バレエとしては不評だったと書かれていたが、曲にはリフトをするときの浮遊感はあるものの、地に足がついているというか土着感がまったくない。これでは振付ができないのではないだろうか。さて、演奏の方だが、これまた弦が浮き足立っていて、それこそ地に足がついていなかった。

3曲目。この日の弦は前半は14型。後半は『幻想』だから18型になるのだろうなあ、と思ったら、なんと後半も14型。それもプルト間が開いた編成。思わず「これはいくらんでも」と危惧したが、その予感はビンゴとなってしまった。第1楽章から第3楽章までの弦は存在感に乏しく、また締まりもない。コンマス(崔文洙)は大きなアクションでヴァイオリン・セクションを引っ張ったり、上手側の低弦とコンタクトを取るものの連携は上手くいかず空回り状態。第3楽章になってチェロ(辻本玲が客演首席奏者)が冒頭で力強い音色を伝えてからやっと『幻想』らしくなったが、結局最後までなんか表層的な楽譜をなぞっただけの演奏で、『幻想』がもつドラマチック性はまったく感じられなかった。

それにしても『幻想』を14型でやるとは・・・。これは指揮者の準・メルクルの指示なのだろうか。それとも財政的な問題なのだろうか。どちらにしても以前にも指摘したがあのプルト間が開いている配置では弦(特にヴァイオリン)はしっかりした響きを観客に伝えることはできないだろう。昨年12月の公演では「精彩を欠いた新日本フィル」とタイトルにしたが、今回は厳しいが「問題山積の新日本フィル」とさせてもらう。

スピノジ&新日本フィルのおフランス

2014-03-02 21:55:46 | 新日本フィル
先日(2月27日)、サントリーホールで開かれた新日本フィルハーモニー交響楽団の第520回定期演奏会を聴きに行ってきた。指揮はジャン=クリストフ・スピノジ。合唱は栗友会合唱団。

【演目】
ビゼー/歌劇『カルメン』より
 第1幕 前奏曲、広場を人々が通る、タバコ女工達の合唱
 第2幕間奏曲、第3幕間奏曲、第4幕 闘牛士の行進と合唱
  ~休 憩~
ラヴェル/亡き王女のためのパヴァーヌ
ドビュッシー/牧神の午後への前奏曲
ラヴェル/ラ・ヴァルス
ドビュッシー(カプレ編)/『ベルガマスク組曲』より月の光
ラヴェル/ボレロ
《19時15分開演、21時05分終演》

前半は『カルメン』の合唱にスポットを当てたプログラム。昨年のNHK音楽祭ではタイトルロールのカルメンをフィーチャーしたプログラムだったが、今回はその他大勢といったら語弊があるかもしれないが、合唱をフィーチャーしたもの。こうした構成は以外に少ないような気がする。その意味でも興味津々であったが、合唱団(栗友会合唱団)が正装ながらも芝居がかって登場したのには元演劇畑の私としては苦笑せざるをえなかった。また、歌うときも単に正面を向いて歌うのではなく、それぞれがちょっとした小芝居をしながらの合唱。まるで三文オペラかと思ったりしたが、それでも『カルメン』の雰囲気をイメージさせてくれてそれはそれなりに良かったかもしれない。できれば、今後もオペラの「合唱」をクローズアップしたプログラムが登場することを願いたい。その意味においては、スピノジはいい線をついてくれたと思う。

後半はラヴェル→ビュッシー→ラヴェル→ビュッシー→ラヴェルというおフランス音楽の傑作のプログラム。特にフルートにハイライトがあるプログラムゆえにフルート好きの私としてはかなり期待した。しかし、スピノジは1曲演奏されるごとに下手舞台袖に引っ込み、また登場して拍手をもらうという形式を取ったがために、拍手が何回も行われ、白尾彰のフルートをはじめ古部賢一のオーボエの余韻が消されてしまい、かなり白けてしまった。指揮者は演奏のたびにいちいち舞台袖に引っ込むものではない、ということを教えされた思いであった。

最後にスピノジが作り出す音楽は色彩感かつ躍動感に溢れていて聴いていて気持ちがいい。ただし、それは若干表層的すぎて内面的なお洒落感という域には達していない。それでも、指揮台狭しと踊るようにしてオケを導いていく姿には好感がもてる。来年も新日本フィルに登場予定なので、そこでいかなる進化かつ深化した音楽を聴かせてくれるだろうか。楽しみである。

精彩を欠いた新日本フィル

2013-12-02 00:07:58 | 新日本フィル
先日(11月29日)、サントリーホールで開かれた新日本フィルハーモニー交響楽団の第518回定期演奏会を聴きに行ってきた。指揮はクリストフ・ウルリヒ・マイヤー。メゾ・ソプラノは藤村実穂子*。

【演目】
マルシュナー/歌劇『吸血鬼』序曲
マルシュナー/歌劇『ハンス・ハイリング』より ゲルトルートのモノローグ*
ワーグナー/楽劇『トリスタンとイゾルデ』より 前奏曲と愛の死*
  ~休 憩~
ウェーバー/歌劇『オイリアンテ』序曲
ワーグナー(マイヤー編)/『パルジファル』組曲*
《19時15分開演、21時20分終演》

この演奏会のことは、書くか書くまいか迷ったが、やはり書かせてもらう。書かないとなんか特定秘密保護法に屈して、自粛しているようになってしまうので・・・。

藤村実穂子が出演ということで、とても期待していた演奏会だった。しかし、結果は残念なことにかなり失望感を抱かざるをえない演奏会となってしまった。この原因は藤村実穂子ではなく指揮者およびオケにある。

ウエーバーとワーグナーをつなぐ存在というマルシュナーという作曲家の音楽を聴くのは初めて。というより、彼の曲が演奏されることなどめったにないだろう。それゆえに、どんな音楽なのだろうかと思ったが、この2曲は明らかに稽古不足と思われ、ヴァイオリンが揃っていない箇所がいくつもあり、また全体のバランスも悪く、加えて弦のプルト間が妙に空きすぎていて音がスカスカという感じで、かなり不満タラタラで聴いていた。おそらく指揮者のクリストフ・ウルリヒ・マイヤーはサントリーホールの構造および音響をあまり知らないと思う。そうした初心者指揮者はこのホールでは、弦のプルト間を狭くして雛壇にあげることなく全員を素舞台にするべきといいのではないだろうか。そうすることによって弦はタイトな音色を出すことができるのではないだろうか。こうしたことは副指揮者や楽団スタッフが助言するべきだと思うが。

後半はさすがに稽古を積んだようで、音のバランスには問題がなかったが、それでも纏まりが欠けるようで何処となく盛り上がりにかけた。『パルジファル』にしても藤村実穂子の歌声は素晴らしかったのものの、もう少し指揮者とオケに一体感があれば、もっと厚みのある歌声のように聴けた気がする。

終演後、藤村ファンとおぼしき人々は彼女に盛大な拍手を送っていたが、私を含めて全体としてはかなり冷淡な反応をしていたように思える。先日の読響といい、この日の新日本フィルといい、もっとしっかりしないと観客離れを起こしかねないと警鐘しておこう。

新日本フィルのメッツマッハー就任披露公演

2013-09-07 21:59:32 | 新日本フィル
昨日(6日)、すみだトリフォニーホールで開かれた新日本フィルハーモニー交響楽団の第514回定期演奏会「―インゴ・メッツマッハー Conductor in Residence 就任披露公演―」に行ってきた。指揮はもちろんインゴ・メッツマッハー。

【演目】
R.シュトラウス作曲/交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき』
  ~休 憩~
ワーグナー作曲/楽劇『ワルキューレ』第1幕(演奏会形式)
    ジークリンデ:ミヒャエラ・カウネ
    ジークムント:ヴィル・ハルトマン
    フンディング:リアン・リー
《19時15分開演、21時20分終演》

いろいろな人にどうして新日本フィルは聴き行かないのですか、と聞かれる。理由はいくつかあるが、まず第一にアル・ミンクが私好みの指揮者でなかったということがある。彼はいろいろな演目を行うなど斬新な試みをしていたが、その指揮ぶりは正直甘いというかオケを引き出す能力をもっているのかとても懐疑的だった。また、震災で来日しなかったこと(新国立劇場での『ばらの騎士』の指揮は結構楽しみにしていた)もがっかりした。第二にトリフォニーホールが自宅から遠いことがある。これも震災絡みになるが、震災以降なるべく遠いところへは行かないようにしている。老母を自宅に残すことや帰宅難民(トリフォニーから自宅まで歩くと最低でも6時間以上はかかる)を考えると、トリフォニーにはなかなか行くことができなかった。そして、第三に新日本フィルの金管陣が他のオケに比べて粗いということもあった。

ということで、今シーズンからアル・ミンク体制からメッツマッハー&ハーディング体制に移行。そして、震災から2年半近く経ったということもあり、今シーズンは新日本フィルを少し聴きにいく予定でいる。

1曲目。いきなり上記にあげた3番目の理由が出てしまった。相変わらずでがっかりだ。冒頭から金管のスカした音や割れた音が聴こえてくる。全然変わっていない。なんか先が思いやられる。一方で、エキストラがいっぱいの弦は艶やかな表情で悠然とした音色を奏でていく。なかでもソロパートを務めたチェロ首席の花崎薫(元新日本フィル、現大阪フィル)とヴィオラ首席の成田寛(元東京フィル、現山形交響楽団)は素晴らしかった。

2曲目。私はドイツ語をまったく勉強したことがない。それゆえに、こうした演奏会形式ではどうしても字幕スーパーが欲しくなる。しかしながら、舞台にはそれらしきものはない。一方で同時刻に同演目をサントリーホールで公演した日本フィルは字幕スーパーを用意している(Twitterで知っていた)。それにしても、いまどき演奏会形式で字幕スーパーがないプロオケはほとんどないはずだ。これは明らかに制作側のミスである。

で、演奏であるがメッツマッハーの指揮のもと、新日本フィルは見事な伴奏を繰り広げていく。しかしながら、歌がいただけなかった。特に主役であるジークムントのヴィル・ハルトマンは声に伸びも艶もなく、これをオペラの舞台でやったらブーイングの嵐だったのではないだろうか。一方でジークリンデのミヒャエラ・カウネとフンティングのリアン・リーは歌声も表現力もよかった。それゆえに、ハルトマンの出来の悪さというかミスキャストが一層際立ってしまった。

結論としては、とても「インゴ・メッツマッハー Conductor in Residence 就任披露公演」を飾る公演とはいえなかった。それにしても「Conductor in Residence」という英語を「常任指揮者」とか日本語に訳すことができないのだろうか。プンプンプン。

久しぶりのアルミンク & 新日本フィル

2012-09-08 21:32:58 | 新日本フィル
昨日(7日)、サントリーホールで開かれた新日本フィルハーモニー交響楽団第498回定期演奏会に行ってきた。指揮はクリスティアン・アルミンク。

【演目】
フランツ・シュミット/歌劇『ノートル・ダム』より
           第1幕:序奏、間奏曲、謝肉祭の音楽
モーツァルト/交響曲第31番ニ長調『パリ』
  ~休 憩~
ドビュッシー/管弦楽のための映像
    Ⅰ「ジグ」
    Ⅱ「イベリア」
     1.街の道や抜け道を通って
     2.夜の香り
     3.祭の日の朝
     Ⅲ「春のロンド」
《19時15分開演、21時00分終演》

冒頭から下世話な話で申し訳ないが、普通の方(およびマスコミの方)はまず書かないことであろうから、あえて書かせてもらう。私は以前演劇制作者をしていたので、どんなライブに行っても観客の入りを気にしてしまう。というのも、演劇などでは観客動員が客席数の70%を下回ると、次からは劇場が貸してくれないのではという制作的危機感があることを知っているからである。

この日のサントリーホールの客席は6~7割の入り。2階センターは明らかに5割以下で、昔の私の立場ならば劇場側から小言を言われるような状態だった。こうした客入りの悪さの責任は基本的に制作サイドにあるが、こんな楽しいプログラムなのに集客がなされないのは、その責任の一端はマスコミ関係者そしてお客にもあるだろう。

1曲目。おそらく初めて聴く曲だが、洒脱にして明快な音楽。演奏も「序奏」では弦の乱れがあったものの、「間奏曲」ではヴァイオリンがロマンチックな輝きをみせ、それをフォローする木管金管の響きも爽快感に満ちていた。そして、終曲の「謝肉祭の音楽」では快活にして華やかな演奏がくりひろげられ、思いもよらぬ収穫を得た気分になった。

2曲目。モーツァルトが不得手ということもあるが、この曲を聴いていると、この曲は本当にモーツァルトが作曲したの?、本当はハイドンが作曲したんじゃないかと思ってしまう。それ以上の感想は・・・。本当にモーツァルトは何も書けない。

3曲目。タイトルにあるように「映像」を連想させるための管弦楽。「ジグ」は雨がしとしと降る古いロンドンの町並みを思い浮かべるような曲。「イベリア」はもちろんスペインの町で、町の中心部にありそうな広場の光景が思い浮かぶ。そして、「春のロンド」はパリのモンマルトルかレストラン街を連想させてくれる。ただ、この3曲、演奏の長さもあるのだが、「ジグ」と「春のロンド」は映像というよりは静止画的でしかない。しかし、「イベリア」は3部に別れていることもあり、目の前を絵画ではなく間違いなく映像が流れていく。その意味においては「イベリア」が突出した曲のように思えた。

アル・ミンクという指揮者はこうしたおしゃれなプログラムでは水を得た魚ではないが、水を得た鳥、それも丹頂鶴のような快活にして優美な指揮をする。ただ、全体としてはそれを100%活かせてたかと思うと残念ながらそうは思えない。なぜなのだろう・・・。

シュミットの「間奏曲」とドビュッシーの「イベリア」に心を奪われたプログラムだったが、このような演奏会があの客の入りではもったない。冒頭に書いたようにその責任は制作サイドにあるが、こうしたプログラムをほとんど紹介もしなければ、聴きにも来ない音楽関係者にも責任があるだろう。

久しぶりのアルミンク & 新日本フィル

2012-09-08 21:32:58 | 新日本フィル
昨日(7日)、サントリーホールで開かれた新日本フィルハーモニー交響楽団第498回定期演奏会に行ってきた。指揮はクリスティアン・アルミンク。

【演目】
フランツ・シュミット/歌劇『ノートル・ダム』より
           第1幕:序奏、間奏曲、謝肉祭の音楽
モーツァルト/交響曲第31番ニ長調『パリ』
  ~休 憩~
ドビュッシー/管弦楽のための映像
    Ⅰ「ジグ」
    Ⅱ「イベリア」
     1.街の道や抜け道を通って
     2.夜の香り
     3.祭の日の朝
     Ⅲ「春のロンド」
《19時15分開演、21時00分終演》

冒頭から下世話な話で申し訳ないが、普通の方(およびマスコミの方)はまず書かないことであろうから、あえて書かせてもらう。私は以前演劇制作者をしていたので、どんなライブに行っても観客の入りを気にしてしまう。というのも、演劇などでは観客動員が客席数の70%を下回ると、次からは劇場が貸してくれないのではという制作的危機感があることを知っているからである。

この日のサントリーホールの客席は6~7割の入り。2階センターは明らかに5割以下で、昔の私の立場ならば劇場側から小言を言われるような状態だった。こうした客入りの悪さの責任は基本的に制作サイドにあるが、こんな楽しいプログラムなのに集客がなされないのは、その責任の一端はマスコミ関係者そしてお客にもあるだろう。

1曲目。おそらく初めて聴く曲だが、洒脱にして明快な音楽。演奏も「序奏」では弦の乱れがあったものの、「間奏曲」ではヴァイオリンがロマンチックな輝きをみせ、それをフォローする木管金管の響きも爽快感に満ちていた。そして、終曲の「謝肉祭の音楽」では快活にして華やかな演奏がくりひろげられ、思いもよらぬ収穫を得た気分になった。

2曲目。モーツァルトが不得手ということもあるが、この曲を聴いていると、この曲は本当にモーツァルトが作曲したの?、本当はハイドンが作曲したんじゃないかと思ってしまう。それ以上の感想は・・・。本当にモーツァルトは何も書けない。

3曲目。タイトルにあるように「映像」を連想させるための管弦楽。「ジグ」は雨がしとしと降る古いロンドンの町並みを思い浮かべるような曲。「イベリア」はもちろんスペインであり、どこかの町の中心部にありそうな広場の光景が思い浮かぶ。そして、「春のロンド」はパリのモンマルトルかレストラン街を連想させてくれる。ただ、この3曲、演奏の長さもあるのだが、「ジグ」と「春のロンド」は映像というよりは静止画的でしかない。しかし、「イベリア」は3部に別れていることもあり、目の前を絵画ではなく間違いなく映像が流れていく。その意味においては「イベリア」が突出した曲のように思えた。

アル・ミンクという指揮者はこうしたおしゃれなプログラムでは水を得た魚ではないが、水を得た鳥、それも丹頂鶴のような快活にして優美な指揮をする。ただ、全体としてはそれを100%活かせてたかと思うと残念ながらそうは思えない。なぜなのだろう・・・。

シュミットの「間奏曲」とドビュッシーの「イベリア」に心を奪われたプログラムだったが、このような演奏会があの客の入りではもったない。冒頭に書いたようにその責任は制作サイドにあるが、こうしたプログラムをほとんど紹介もしなければ、聴きにも来ない音楽関係者にも責任があるだろう。

精彩が見れなかったアルミンクと新日本フィル

2011-05-27 11:45:08 | 新日本フィル
昨日(26日)、サントリーホールで開かれた新日本フィルハーモニー交響楽団第477回定期演奏会に行ってきた。指揮はクリスティアン・アルミンク。ヴィオラ(*)はアントワン・タメスティ。合唱は栗友会合唱団(合唱指揮:栗山文昭)。

【演目】
ヒンデミット/葬送音楽 *
クルターク/断章-ヴィオラと管弦楽のための(1954) 日本初演 *
ブラームス/運命の歌
  ~休 憩~
シューマン/交響曲第2番ハ長調
《19時15分開演、21時10分終演》

1年ぶりの新日本フィル。そしてアルミンクの指揮はもっと久しぶり。もともとアルミンクの指揮があまり得意でないために、新日本フィルを聴く機会が少なかった。それでも、新国立劇場でオペラ『ばらの騎士』を振るということで期待したいただけに、あのときはやはり失望せざるをえなかった。彼にはそのことが今でも心に引っかかっているようで、開演前のプレトークで「『ばらの騎士』のチケットを買っていただいた方にはお詫び申し上げます」という謝意があった。で、そのアルミンクの汚名返上、名誉挽回の演奏会になったかというと、結果的としては残念ながらそうではなかった。

客席はいくら地味なプログラムといえどもどう見ても5~6割の入り。

1曲目と2曲目。アルミンクは斬新なプロミラングすることで定評がある。しかし、今日の1曲目と2曲目は明らかにアルミンクとヴィオラ奏者のアントワン・タメスティの独りよがりというか二人よがり。オケはかなり醒めている感じで一体感を聴きとるまでにはいたらなかった。特に2曲目では、いくら日本初演とはいえ、木管陣に戸惑いがあるように見えてしまった。ここまで指揮者とソリストがオケをおいてけぼりにする協奏曲は聴いたことがない。

3曲目。合唱団の歌声は哀愁をおびていて良かったのだが、ここでもオケには覇気が感じられず、一体感が見えなかった。

4曲目。さすがに後半はアルミンクも挽回するだろうと期待したが、これも各パートのベクトルが違った方向を見ているような音色だった。この第2番はシューマン自身が「暗い時代」を思い起こさせ「苦痛の響き」と言っていたようで、全体に物悲しい旋律が続く。それでも第4楽章は木管金管のきらびやかな旋律が出てくるのだが、これにパッションが浮かび上がってこない。アルミンクの指揮はどことなく空回りしているようだった。そんななかで終始安定したテンポとリズムをリードしたティンパニー(川瀬達也)には大きな拍手を送りたい。

井上道義の『青ひげ公の城』

2010-04-09 14:11:08 | 新日本フィル
昨日(8日)、サントリーホールで開かれた新日本フィルハーモニー交響楽団第460回定期演奏会に行ってきた。指揮は新日本フィル登場久しぶりという井上道義。

【演目】
バルトーク/弦楽のためのディヴェルティメント
  ~休 憩~
バルトーク/歌劇「青ひげ公の城」(演奏会形式)
   青ひげ公:イシュトヴァーン・コヴァーチ
   ユーディト:イルディコ・コムロシ
   吟遊詩人:押切英希(文学座)
《19時15分開演、21時25分終演》

久しぶりの新日本フィル。ただし、楽しみにした演目である。というのも『青ひげ公の城』には思い入れがある。寺山修司が書いた『青ひげ公の城』の舞台製作に関わったことがあるからだ。寺山が書いた『青ひげ公の城』はバルトーク(台本はベーラ・バラージュ)をモチーフにしているものの、その戯曲のなかには青ひげ公はまったく登場しない。ユーディトを演じるという女優が青ひげ公を探しに劇場に入り込んでいくという迷宮劇である。数多い寺山戯曲のなかでも傑作のひとつと言われている。

新日本フィルのHPによると、今回の『青ひげ公の城』を演奏するにあたって、井上道義は書き直されたスコアなどを何度も何度も読み直して、自分で字幕の台詞も書き上げ、そして、演出(照明も?)も行っている。

暗闇である。灯りが照らされているのはパイプオルガンにある譜面だけ。マントを手にした吟遊詩人がP席の階段から、これから始まるお芝居を物語る。照明が点されると、舞台上にはオーケストラと共に、大きな椅子に座った青ひげ公が浮かび上がり、下手(左側)からユーディトが何かに導かれるように登場する。もう、これだけでゾクゾクする。おどろおどろした世界が始まる予感をさせてくれる。

バルトークの音楽は難解だと言われる。確かにそうであろう。前半に演奏された「弦楽のためのディヴェルティメント」の第1楽章でも奇怪な不協和音が何度か登場した。そしてこの「青ひげ公の城」でも管楽器に不可解な音を出させて、身の毛がよだつな音色ださせたりする。しかしながら、全体としてはオペラ進行のための伴奏と舞台上の効果音を巧みに組み合わせていて、聴いていて不快なことなど全くなく、逆に知られざる音楽の世界を教えてくれるようで楽しい。

物語は青ひげ公の城に招かれたユーディトが七つの扉を開けていくことによって、男女の愛情や物事の考え方の違いを浮き彫りにしていく葛藤を描いた心理劇になっている。その一つ一つの扉が開かされるたびにバルトークの音楽は多面的に変化を遂げ、また井上の演出であろう照明も芝居小屋のように変化していき、サントリーホール全体を劇場空間へと刺激的に変えていく。

そして、オーケストラ自体も最初はオケピにいるような演奏者としての裏方だったのが、徐々にオケ=「青ひげ公の城」になったような演奏になっていく。井上マジックである。なかでも、第5の扉でのバンダやパイプオルガンを含めた演奏は、城と広大な領土を象徴するかのようできらびやかで圧巻だった。また、第6の扉冒頭に流れる木管と打楽器などによる不気味な風のような音もとても調和がとれていた。体調がよくないと伝えられたユーディト役のイルディコ・コムロシの歌声も素晴らしく、青ひげ公役のイシュトヴァーン・コヴァーチは終始脇役に徹して静かなる歌声を響かさせていた。

とにかく面白かった。めちゃくちゃに面白かった。残念なことに観客席は空席が目立ったが、数多くのお客さんは最後まで暖かい拍手を送っていた。今回の演奏は井上道義にとって間違いなく会心のヒット作で、「井上道義の『青ひげ公の城』」として彼の代表作になるのではなかろうか。そして、できるならばバージョンアップして2年か3年後に再演してもらいたい。

この公演は明日(10日)パルテノン多摩で公演される。また、「青ひげ公の城」は来年3月に都響(指揮インバル)がサントリーホールでやはり演奏会形式で行う予定にしている。こちらも見逃せない。

井上道義&新日本フィル@夏のミューザ川崎

2009-08-05 21:37:08 | 新日本フィル
昨日(4日)、ミューザ川崎で開かれている「フェスタ・サマーミューザKAWASAKI」の新日本フィルハーモニー交響楽団の演奏会に行ってきた。指揮は井上道義。

演目(※アンコール曲)
グローフェ/組曲「グランド・キャニオン」より「日の出」「日没」
伊福部昭/管弦楽のための「日本組曲」より「七夕」「盆踊」
ドビュッシー/交響詩「海」~3つの音楽的スケッチ~
※ルロイ・アンダーソン/プリンク・プレンク・プランク
《15時00分開演、16時05分終演》

平日の昼公演。さすがに観客は少ない。その数は4~5百人。それでも、指揮の井上道義は「昔は川崎を馬鹿にしていました。しかし、今はこんなりっぱなホールがあり、昼公演にもかかわらず、これだけのお客さんが入っている」と無理のあるゴマをすっていた。(笑)

プログラムは非常に魅力的だ。アメリカ、日本、フランスの土着性・民族性音楽のオンパレードである。ただ、できれば「グランド・キャニオン」もしくは「日本組曲」どちらかは全曲を演奏してほしかった。

「グランド・キャニオン」を聴くのは初めて。まるで映画音楽のようである。グランド・キャニオンへは2度ほど行ったことがある。キャンプもして日の出も日の入りも見ている。グローフェはあの赤茶けた渓谷がグラデーションのように変色していく姿を見事に表現している。う~ん、全曲聴いてみたい。

「日本組曲」は伊福部昭の代表作のひとつ。本来は「盆踊」「七夕」「演伶(ながし)」「佞武多(ねぶた)」の4曲編成で、そもそもはピアノ組曲として作曲され、1991年に管弦楽用に編曲された。そして、井上道義&新日本フィルが初演した。つまり、老舗の演奏である。井上は「七夕」ではごく普通に指揮していたが、「盆踊」では指揮をするというより、盆踊りしたり、舟を漕いだりと、太鼓を叩いたりとパフォーマスで伊福部音楽の面白さを伝えようとしていた。グッドジョブだ。

ドビュッシーの「海」は何度も聴いているせいか、それとも昼の誘いが身体に押し寄せてきてしまったのか、贅沢な眠りの時間を過ごしてしまった。ところで、フルート首席が倉田優(読響)、ヴィオラ首席が井野邊大輔(N響)に見えたのは幻覚だったのだろうか。

下野竜也と新日本フィルの「運命」

2009-05-15 13:59:29 | 新日本フィル
昨日(14日)サントリーホールで開かれた新日本フィルハーモニー交響楽団の第445回定期公演「運命の絆」へ行ってきた。指揮は下野竜也。チェロはガブリエル・リプキン。

演目
マルティヌー/リディチェへの追悼
プフィッツナー/チェロ協奏曲第3番イ短調(遺作)
  ~休 憩~
ベートーヴェン/交響曲第5番
《19時15分開演、21時15分終演》

1曲目。第2次世界大戦の際にナチスドイツがチェコのリディチェという村を消滅(虐殺)したことへの哀悼の意味を込めた鎮魂歌。非常に重々しい旋律に始まり、最後にはベートーヴェンの「運命」の旋律が一瞬入るなど、鎮魂歌らしい曲ではあるが、それでも希望というか未来へ向けたメッセージのようなものも含まれていて、下野がこの曲をプログラミングした意図が解るような気がした。

2曲目。1曲目同様に全く初めて聴く曲。下野竜也の幅広い音楽性を感じる。プログラムによると、この曲は(遺作)という標題がついているが、プフィッツナーが20歳に書いたもので、言葉は悪いが自虐性にとんだ悲愴な旋律のオンパレードで、聴いていて少し辟易した。リプキンのチェロも瞬間的には感情的かつ叙情的な演奏をするが、全体的にはチェロ・ソロ付き交響曲といった趣きの曲で、昨年5月に都響で聴いたときのような彼の情熱的な演奏を聴けなかったのが残念であった。

3曲目。第1楽章冒頭、妙に軽快である。張りつめた糸のような緊張感がない。どことなく滑っているような「ダダダダーン」なのだ。そのあと、下野は例によって一音一音を噛みしめるかのように懇切丁寧にオケを指揮していく。しかし、ヴァイオリンの音色に統一感がない。第2楽章で木管と金管がファンファーレを鳴らすときに、ヴァイオリンがギコギコとサポートするのだが、その音がバラバラなのである。そのせいかどうか解らないが、これ以降、下野のタクトは下手側を中心に向いているように見えてしまう。第4楽章、それまでずっと待機していたトロンボーンの音色が素晴らしい。それに導かれたように弦も緊張感ある音色を奏でていく。最後になってオケがやっと下野の噛み砕くかのようなタクトの下に統一された音を出すようになった。ただ、結果として言わせてもらえれば、下野の情熱と音楽性をオケは汲み取っていない演奏であったことは否めない。

それにしても、客席は驚くべきほどガラガラ。不景気のせいだろうか。それとも新型インフルエンザのせいだろうか。それとも・・・・。客席は6割いや5割も埋まっていただろうか。サントリーホールでこんな観客の少ない日本のオケの定期公演は初めてかもしれない。ある人がブログで書いていたが、GWに行われている「熱狂の日」は国内オーケストラにとっては絶好の宣伝機会なのだから、来年は新日本フィルも参加してみてはどうだろうか。このことは、他のオケも検討していいことだと思うが・・・。

ハーディングの「死と変容」と「英雄」

2009-03-13 16:35:12 | 新日本フィル
一昨日(11日)サントリーホールで開かれた新日本フィルハーモニー交響楽団の第443回定期公演「閉ざされた胸の内」へ行ってきた。指揮は先日のすみだトリフォニーホールに続いてダニエル・ハーディング。平日とはいえハーディングということで「完売必至!」(と書いてあった)かと思ったが、サントリーホールの客席は意外に空席が目立った。

ダニエル・ハーディングは1975年イギリス生まれ。バーミンガム市交響楽団でサイモン・ラトルのアシスタントを務めた後1994年にプロデビュー。1999年にブレーメン・ドイツ室内フィルハーモニー管弦楽団音楽監督を就任後、マーラー室内管弦楽団音楽監督などを経て、現在はゲルギエフのロンドン交響楽団で首席客演指揮者、そして2007年からはスウェーデン放送交響楽団音楽監督に就任して活躍している。ラトル、ゲルギエフなどから薫陶を受け、若きマエストロ街道をまっしぐら中の指揮者である。

演目
R.シュトラウス/交響詩「死と変容」
  ~休 憩~
ベートーヴェン/交響曲第3番「英雄」
《19時15分開演、21時05分終演》

1曲目。「死と変容」という日本語訳タイトルはどうも解りにくい。「死と浄化」と訳されることもあるらしいのだが、もっと大胆に「死と成仏」とか「死と来世」とか解りやすいタイトルにしてほしいものである。宗教用語だから仕方がないのかもしれないが・・・。

先日のハーディング+新日本フィルの「幻想交響曲」ではあまりドラマチックでない作りに少々失望したが、この曲では人間の普遍的な「死」とういう出来事の前後、つまり、死を迎える前、生と死の葛藤、死、そしれ来世へと連動する流れをを描くことはうまく表現していた。ただ、部分的に金管にバラつきがあり、少し残念でならなかった。

2曲目。演奏は基本的にノンヴィブラート奏法。ティンパニーも古典的なものを使用して音が硬質な感じ。ハーディングは明らかに古典的スタイルの演奏を目指している。そのためか、指揮も割りと淡々としたものになり、どこかハイドンかモーツァルト的な香りのベートーヴェンという感じだ。それにもっと大きく応えたのオーボエ(古部賢一)とホルン(吉永雅人)の二人の首席。この二人の奏でる音色はいかにも英雄を風刺している音色で、偏屈的な葬送行進曲として資質を十二分に味わうことができた。

しかしながら、私が不得手ということがあるかもしれないが、弦のノンヴィブラート奏法は殺伐というか無味乾燥(それが狙いなのかもしれないが)すぎて、感銘をうけるという演奏には思えなかった。ハーディングは以前「日本のオーケストラとの古典、ロマン派での共演は今のところ避けたい」と言っていたことがあるそうだ。それは共演した新日本フィルや東京フィルの力量に対する言葉なのか、それとも自分自身に対する戒めなのか、その理由は解らない。ただ、評論家のようなことを書いて申し訳ないが、今回の演奏を聴いていて、ハーディングがもつ資質と過信は少し危険に満ちていると思わざるをえなかった。もちろん指揮者に過信は必要なのだが・・・。

ハーディング+新日本フィル&すみだトリフォニーホール

2009-03-09 16:21:44 | 新日本フィル
一昨日(7日)すみだトリフォニーホールで開かれた新日本フィルハーモニー交響楽団の第442回定期公演「秘められた情念」へ行ってきた。指揮はダニエル・ハーディング。

昨年1月にハーディング指揮の東京フィル公演が素晴らしかったので、今回のハーディングの来日を大変楽しみにしていた。11日のサントリーホールで開かれる第443回公演のチケットも購入している。

すみだトリフォニーホール初参上である。目黒駅より品川駅乗り換えで横須賀線・総武線(快速)に乗れば、錦糸町は意外に近いと思っていたが、品川駅で乗り換えをしようとすると次の電車までなんと12分。それでは時間がもったいないと思い、急遽京浜東北線(快速)に乗って秋葉原まで向い、そこで総武線で錦糸町へ行くことにする。やはり錦糸町は遠かった。

すみだトリフォニーホールはとても綺麗なホールで好印象。音響に関しては1回だけで判断するのは無理があるかもしれないが、残響音が少ないフラットな感じ。おかげで、透明感のある音はダイレクトに響いてきて、散在することもない。そして、このホールで一番気に入ったことは客電(客席照明のこと)がかなり暗いこと。このために、お客は開演中にパンフレットやチラシを見ることができなく、紙の音がしないのである。サントリーホールやNHKホールなど他のホールも見習ってほしいものである。

演目(※アンコール曲)
ドビュッシー/牧神の午後への前奏曲
ラヴェル/ラ・ヴァルス
  ~休 憩~
ベルリオーズ/幻想交響曲
《15時00分開演、16時55分終演》

1曲目。私の少し前の方にある車イス席の老夫妻は、演奏が始まるやいなや二人とも船を漕ぎ始めて、しばらくすると完全に首をうな垂れてしまう。それほど、午後の眠りにいい響きだった。ただし、この心地よい誘いを演出したのはフルートやオーボエではなくはハープだった。

2曲目。好きな曲である。ハーディングは波打つような指揮をする。それはまるで葛飾北斎が描いた絵のひとつ、富嶽三十六景「神奈川沖浪裏」(ドビュッシーの「海」で有名だが)をイメージするかのようなうねりのある指揮を行う。加えて、コンマス(豊嶋泰嗣)も身体を中腰にしたりと、オケに昂揚感をつけようとしている。しかしながら、残念なことに弦全体の響きはそうした船酔いをするような波動音が作り出せておらず、ラヴェルが描きたかったであろうワルツのダイナミズムなオーケストレーションは伝わってこなかった。

休憩後に座席にもどると、舞台が奇妙な配置になっている。ハープが指揮台の左右の斜め後ろに2台ずつ置かれて、奏者のお姉さんたちは斜め後ろからハーディングの指揮を見る形で、練習に励んでいる。

3曲目。幻想交響曲ほど劇的な交響曲はないと思う。この1曲を使って、大掛かりな無言劇かダンスができると思うし、いつかそういうものを見てみたいと思う。もちろん、そういうことをハーディングは周知しているので、その指揮ぶりはドラマチックであった。演奏中、終始一貫して両翼配置の第2ヴァイオリンとヴィオラに対して、左右の手をつかって彼なりの劇的な世界を構築しようとしているのが痛いほど感じられた。それは第2楽章までは順調だったが、第2楽章が終わったあとに、御役御免ということでハープが舞台袖に片付けられてしまった、ちょっとした時間的な緊張の緩みと共に、劇的なたがも緩んでしまった。

第3楽章、この曲のハイライトともいうべきイングリッシュホルンと舞台裏のオーボエが奏でる牧歌。これがホールのせいか、それとも緊張の緩みのせいか、有機的でなく無機的になっている。それはまるで自分のことではなく他人事のように感じられていってしまう。これでは、このあとに続く「断頭台への行進」につながらない。ただ、最終楽章に入ってからは、オケ全体の熱気は高まり、コル・レーニョ(弓の棒の部分で楽器を叩く)で地獄の世界を描きだし、葬式の鐘で大団円を迎えることはできたので少し充実した気持ちになれた。