ミーハーのクラシック音楽鑑賞

ライブ感を交えながら独断と偏見で綴るブログ

新国立劇場の『ロミオとジュリエット』

2011-06-27 13:58:39 | バレエ
昨日(26日)新国立劇場で公演されている新国立劇場バレエ団の『ロミオとジュリエット』を観てきた。音楽はセルゲイ・プロコフィエフ。主なスタッフと出演者は下記の通り。

  振付:ケネス・マクミラン
  舞台美術・衣装:ポール・アンドリュース
  指揮:大井剛史
  演奏:東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団

  ジュリエット:リアン・ベンジャミン(英国ロイヤルバレエ団)
  ロメオ:セザール・モラレス(英国バーミンガム・ロイヤルバレエ団)
  マキューシオ:福田圭吾
  ベンヴォーリオ:菅野英男
  ティボルト:輪島拓也

上演時間 1幕60分 休憩25分 2幕35分 休憩20分 3幕40分 
《14時00分開演、17時10分終演》

プロコフィエフの傑作のひとつ『ロミオとジュリエット』。その音楽は何度もオケで聴いているが、その舞台を観るのは初めて。で、見終わった直後の感想は、バレエを観たというより「バレエ付き音楽劇」を観たという思いだった。

音楽が素晴らしいことは百も承知だが、ここまで芝居芝居したバレエを観たのは初めてかもしれない。全体的にバレエの振付が少なく、演劇的な仕草が多く、ダンサーの躍動感というか肉体美を感じることはほとんどなかった。これが良いのか悪いのかは人それぞれの解釈だろうが、私には物足りなかった。

主演のリアン・ベンジャミンとセザール・モラレスは共に小柄。特にベンジャミンは女性ダンサーのなかでも一番の小柄のように見えた。しかし、その踊りはやはりロイヤルバレエ団でプリンシパルを務めるだけあって、しなやかにして流麗。特に手の動きが素晴らしく、ジュリエットの苦悩と葛藤を見事に表現していた。なかでも、第3幕での眠りのなかおよび死への旅立ちでの無力的な手の動きなどは息を飲むほどであった。一方、モラレスは機敏性、スピード感、柔軟性、リフト力などのテクニックは非常に高いものがあるが、もう少し自分なりの主張というかスタイルを見せて欲しかった。もしそれが築ければ世界的ダンサーになる逸材かもしれない。

と、二人の評価だが、日本人ダンサー、特に男性陣には苦言を呈したい。第一幕のロメオ、マキューシオ、ベンヴォーリオが3人で踊るアンサンブルはバラバラで、ひとりのダンサーは完全に回転不足。これは個人的な鍛錬不足なのか、それとも3~4ユニット構成による弊害なのだろうか。また、日本人には馴染みがないので難しいかもしれないが、サーベルを使った群舞も歯切れが悪い。一方で女性陣は3人の娼婦(寺田亜沙子、堀口純、北原亜希)をはじめ、一糸乱れない踊りは見事であり、そのレベルの高さを魅せてくれた。

大井剛史指揮の東京フィルの音楽は、序曲や間奏曲のときは音を全面的に前に出すものの、それ以外は踊りをうまく引き出そうとしていて好感がもてた。そして、トランペットなどの金管の響きが鮮やかで、さすがにこの曲に関してはダンサーたちよりもオケの方が慣れている。

マクミランの振付はオーソドックスでストーリー性を重視している。ただ、それに対してダンサーたちがいまい一つ応えきれていない。結局のところ、言葉はキツいが踊りが衣装やセットに負けている。加えて、音楽そのものに負けるのは仕方がないにしろ、オーケストラにも完全に負けていた。残り4公演で奮起してもらいたい。

山形交響楽団と観客の絆に乾杯!

2011-06-25 15:30:47 | 国内オーケストラ
昨日(24日)、オペラシティコンサートホールで行われた山形交響楽団特別演奏会「さくらんぼコンサート2011」へ行ってきた。指揮は飯森範親。ヴァイオリンはユージン・ウゴルスキ。

【演目】(※はアンコール曲)
モーツァルト/歌劇『魔笛』K.620序曲
プロコフィエフ/ヴァイオリン協奏曲第1番ニ長調

  ~休 憩~
チャイコフスキー/交響曲第5番ホ短調
※グリンカ/『ルスランとリュドミラ』序曲
《19時00分開演、21時10分終演》

1曲目。プレトークでモーツァルトの曲は山響では古楽器(ホルン、トランペット、トロンボーン)とピリオド奏法で行うという趣旨を飯森と楽団員が説明したが、演奏はゆったりしていてとても重く、10-8-6-6-4という弦5部には少し辛い演奏になってしまった。確かに、19世紀ではこのスタイルで演奏されたのだろうがもはや21世紀。演奏会場の大きさ、形態、反響などのことを考えると、どうしても無理がある。

2曲目。ユージン・ウゴルスキは1989年サンクトペテルブルグ生まれ。優しそうな端正なマスクをもったイケメン。その音色は透明感に漲っていて甘い香りが漂う。それでいてプロコフィエフ特有の先鋭的な色彩感も表していく。ただ、全体として演奏のメリハリが乏しく、もっと自己主張をしてもいいのではないだろうか。ソリストはおとなしいよりワガママの方がいい。

3曲目。第1楽章。やはり弦の全体のパワーが弱く、先が思いやられるなぁと思ったが、第2楽章に入って一変。ホルンの音色はいまひとつだったが、それに続くクラリネットとファゴットの奥深い低音の響きが心地よく、東北人のもつ粘り強さを表現しているかのようで、ジーンときてしまった。それにつられたかのように、第1ヴァイオリン(コンマス以外は全員女性)がキラビやかなさざ波をうつかのような美しい音色を奏でていく。飯森もここで自信を得たかのように、オケ全体を鼓舞するかのように一つに纏め上げていく。小編成のオケでは無理かと思われたチャイ5だったが、最後はひた向きにして力強いエネルギーの音色を奏であげ頭が下がる思いだった。

4月に聴いた仙台フィルにしても、今回の山形交響楽団にしても、しばらくの間は少し過酷な演奏をする日々が続くだろう。しかし、彼らはそんなことを音色に微塵も見せず、自分たちは東北に心のゆとりを持たせるべく、復興復旧のために演奏していくという力強さを示してくれた。そして、そうした意思表示に対して、観客(特に東北出身者)もできる限り応えていくという意志を示し、オケと観客の絆を感じるコンサートであった。

何か物足りなかった日本フィル定期

2011-06-18 21:56:23 | 日本フィル
昨日(17日)、サントリーホールで行われた日本フィルハーモニー交響楽団第630回東京定期演奏会へ行ってきた。指揮は沼尻竜典。ピアノは小川典子。

【演目】
ストラヴィンスキー/交響的幻想曲《花火》
チャイコフスキー/ピアノと管弦楽のための幻想曲
  ~休 憩~
ショスタコーヴィチ/交響曲第10番
《19時00分開演、20時55分終演》

1曲目。初めて聴く約5分という短い曲。題名通り華々しい色彩感があり、後のストラヴィンスキーのバレエ音楽の原型になっている。『火の鳥』が好きな私には興味深かった。

2曲目。出だしはオケと同調気味だった小川典子だったが、カンデンツァになると俄然と輝きを魅せて、鍵盤が破壊されんばかりに強靭に叩き、押し付けていく。といって、音色は決して破壊されることなく、まるでチャイコフスキーが大胆な笑みを浮かべてくるかのよう。ただ、全体としてはオケとの連携はあまり上手くいったとは思えなかったが、小川特有の歯切れのいい爽快な音色を聴けただけでも収穫だった。

3曲目。1948年のジダーノフ批判のために音楽活動を制約されてしまったショスタコーヴィチが、スターリンの死後に書いた交響曲で、第9番(これ傑作)以来8年ぶりとなる。初演は1953年12月でムラヴィンスキー指揮のレニングラード・フィルハーモニー交響楽団(現在のサンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団)。

第1楽章。あちらこちらで聴いたような旋律も交じり、ショスタコーヴィチの交響曲第1番から第9番までの集大成のような楽章。約25分と長い楽章だが、沼尻とオケは可もなく不可もなくこじんまりと纏め上げる。これでは面白くない。

第2楽章。約3分のスケルツォ。時速150キロの暴走機関車のようなスピードで音楽は展開していく。この楽章はスターリンの音楽的肖像画と解釈する向きもあるようだが、私にはこれまでの自分の交響曲への惜別のように聴こえてしまった。

第3楽章。ホルンが活躍する楽章なのだが、そのホルンがピリっとしない。それに対して、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴットの他の木管陣の音色は冴え渡っていた。

第4楽章。ここは後に標題がつく交響曲第11番「1905年」第12番「1917年」のモチーフになったような感じの楽章。ただ、演奏そのものは何かが物足りない気がした。それが何なんだろうと自問自答しながら帰路についたが、その答えはロシアに対する歴史観なのではないだろか、と勝手に結論づけてしまった。

代役はつらいよ!?『ドン・カルロ』

2011-06-17 13:49:41 | オペラ
一昨日(15日)、NHKホールで行われたメトロポリタン歌劇場公演『ドン・カルロ』に行ってきた。指揮はファビオ・ルイージ。演出はジョン・デクスター。演奏はメトロポリタン歌劇場管弦楽団。主な出演者は下記の通り。

エリザベッタ:マリーナ・ポプラフスカヤ *
ドン・カルロ:ヨンフン・リー *
ロドリーゴ:ディミトリ・ホロストフスキー
エボリ公女:エカテリーナ・グバノヴァ *
フィリッポ二世:ルネ・パーペ
宗教裁判長:ステファン・コールァン
テバルト:レイラ・クレア
修道士:ジョーダン・ビシュ
天の声:オリガ・マカリナ
合唱:メトロポリタン歌劇場合唱団
( * は当初発表されたキャストが変更)

上演時間 1幕2幕 105分 休憩 25分 3幕 35分 休憩 25分 4幕5幕 85分
《18時00分開演、22時50分終演》

先日の『ラ・ボエーム』ほど酷くはないが、今回の舞台美術も古色蒼然万古不易といっていいほどオーソドックス。ただ、全編を通して斜舞台だったので、それが反響板の役目を果たして、歌声は3階席まで綺麗に届いてきた。また、ルイージ指揮のオケは『ラ・ボーエム』のとき同様、円転滑脱な見事な演奏を繰り広げていき、さすが世界屈指の歌劇場のオケだなぁと感心させられた。

第1幕と第2幕の計105分は長かった。第1幕はエリザベッタとドンカルロの代役2人による馴れ初めの場なのだが、これが長い。ヨンフン・リーは繊細にして伸びやかな声でちょっとナイーブなドン・カルロを演じていくが、エリザベッタのマリーナ・ポプラフスカヤがちょっとか弱い。もし、これがフリットリだったらなとやはり思ってしまう。

というのも、この役はもともとはフリットリが演じるはずだったが、ネトレプコが来日しなかったためにフリットリは横滑りで『ラ・ボエーム』のミミ役に。つまり、代役といいながらも本来のキャストは一緒に来日しているのだから、どうしても比較してしまう。ヨンフン・リーは本来のキャストであったカウフマンは来日していないのだから比較しようがない。本当はそんな比較などしてはいけないことは重々承知なのだが、『ラ・ボエーム』をすでに観ているのだからで仕方がない。こうなると、ネトレプコは罪な女である。

続く第2幕。第1場はロドリゴを演じるディミトリ・ホロストフスキーの躍動感が素晴らしい。ここらあたりで、ようやく出演者およびオケもエンジンがかかり始めたようで、オペラ特有の華やかな世界に浸れるようになってきた。そして、ヨンフン・リーもホロストフスキーとの二重唱あたりから、オペラ歌手としての輝きが出て来たように見受けられる。ただ、第2場の「修道院の庭」はもっときらびやかにするなり、女性陣に動きをつけるなりして、もう少しスピーディな展開が欲しかった。

ここで休憩。この日の3階席はガラガラ。そのせいもあってか、本当はしてはいけないのだろうが、数多くのお客さんが空いている席へ移動。

第3幕。第2場の「大聖堂前の前」ではグランドオペラならでの大人数の合唱となるのだが、斜舞台のために人々の動きがみんな鈍い。もう少し立体感のある機能性のある舞台にするなりして、身軽な展開を観たかった。

ここで休憩。

第4幕と第5幕はルネ・パーペの独壇場。昨年のミラノ・スカラ座ときも圧巻の演技と歌を披露していたが、今回はそれに輪をかけたようなオーラが放たれていて、もはや彼以外に誰がフィリッポ2世を演じることができるのだろうかと思うぐらい、思慮分別と威風堂堂な演技と歌声だった。

エポリ公女役のエカテリーナ・グバノヴァは健闘していたと思う。流麗にして優美な歌声はこの役にピッタリだった。また宗教裁判長役のステファン・コールァンは歌声に威厳さはあるもの、まだ若さが露呈していて、この役をこなすには時間がかかりそうだった。

いずれにしろ、今回の代役陣はチャレンジ精神旺盛で頑張ってはいたが、それと同時に「代役はつらいよ」という苦悩も見え隠れしまったような気がする。彼らにはこの経験を糧に今後に繋げてもらいたいが、豪華メンバーを期待していた観客には、やはり少し不満の残る舞台ではなかっただろうか。いくら震災と原発事故という偶発的な出来事があったにせよ、今後は来日オペラのチケットを買うときは、もう少し歌手事情を把握してから買うようにしたいと思う。

最後にこれは主催者およびNHKホールに言いたいことだが、客席階段や通路のフットライト(足下灯)が明るすぎる。というのも、舞台上が暗いときはフットライトが明る過ぎると舞台に集中できない。舞台制作者はこうした観客の視点にたったことに注意しなければならない。今後、NHKホールでオペラを上演する興行関係者のみなさん、フットライトの明るさをちゃんとチェックしてください。


豪華絢爛百花繚乱のMET特別コンサート

2011-06-15 11:53:33 | 海外オーケストラ
昨日(14日)、サントリーホールで行われたメトロポリタン歌劇場管弦楽団特別コンサートに行ってきた。指揮はファビオ・ルイージ。チケットは完売、のはずなのになぜか当日券売り場があった。

【演目】(※はアンコール曲)
ベッリーニ/オペラ《ノルマ》より序曲
ベッリーニ/オペラ《清教徒》よりリッカルドのアリア“おお、永遠に君を失った”
 (バリトン:マリウシュ・クヴィエチェン)
ベッリーニ/オペラ《清教徒》よりエルヴィラのアリア“優しい声が私を呼んでいる・・・さあいらっしゃい愛しい人よ”
 (ソプラノ:ディアナ・ダムラウ) 
R.シュトラウス/交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」
  ~休 憩~
ヴェルディ/オペラ《運命の力》序曲
ヴェルディ/オペラ《イル・トロヴァトーレ》より レオノーラのアリア“穏やかな夜”
 (ソプラノ:バルバラ・フリットリ / メゾ・ソプラノ:エディタ・クルチャク)
ヴェルディ/オペラ《仮面舞踏会》より リッカルドのアリア“永遠に君を失えば”
 (テノール:ピョートル・ベチャワ)
R.シュトラウス/交響詩「ドン・ファン」
※プッチーニ/オペラ『マノン・レスコー』間奏曲
《19時00分開演、21時20分終演》

当初は全く行くつもりのないコンサートだったが、指揮者がジェームス・レヴィンからファビオ・ルイージに変更になったために俄然行く気になった。そして、出演者がネトレプコが来日しなかったので、その代りにダムラウ、フリットリ、そしてベチャワが登場して豪華共演となった。演目も序曲、歌曲、交響詩と、普段ではまず聴くことができないプログラムで盛りだくさん。

ファビオ・ルイージの指揮は観ていて本当に飽きない。序曲では舞台への誘いと期待を高めるべく緩急おりまぜながら、抑揚のきいた指揮をする。歌曲では歌手たちをいかに気持ちよく歌わせるかに終始して、自分は影武者に徹する。そして、交響詩では指揮台狭しとまるで踊るかのように、全身全霊を使って情熱的な指揮を行う。これだけ変幻自在にして智勇兼備な指揮者はそうそういない。ブラボー!

こうした指揮に応えるオケも素晴らしかった。オケは弦が18型で大規模編成。そしていかにもアメリカのオケといった感じで、その音色は全体を通してはきらびやくで派手派手。こうした音色を好まない人もいるかもしれないが、ヨーロッパや日本のオケにはまず出せないボリューム感と質感の音色だ。アメリカ・オケ好きの私には堪らなかった。w

歌は残念ながら座席がP席だったこともあり、その正確な歌声を評価できないが、やはりダムラウとフリットリの二人のソプラノの表現力は後方から聴いていても凄いものだなぁと思わざるをえなかった。そして、歌い終わったあとの会場に鳴り響いた地響きのような「ぶらぼお~、ぶらゔぁあ~」の嵐も凄かった。

一夜限りの祝宴のようなコンサートを催してくれたMETに感謝。こんな豪華絢爛百花繚乱のコンサートができるのはMET以外にないだろう。正真正銘の「特別コンサート」だった。Thanks !

手放しで喜べなかったMET『ラ・ボエーム』

2011-06-13 10:43:30 | オペラ
一昨日(11日)、NHKホールで行われたメトロポリタン歌劇場公演『ラ・ボエーム』に行ってきた。指揮はファビオ・ルイージ。演出および舞台美術はフランコ・ゼッフィレッリ。演奏はメトロポリタン歌劇場管弦楽団。主な出演者は下記の通り。

マルチェッロ:マリウシュ・クヴィエチェン
ロドルフォ:ピョートル・ベチャワ
コッリーネ:ジョン・レリエ
ショナール:エドワード・パークス
ミミ:バルバラ・フリットリ
ムゼッタ:スザンナ・フィリップス
ベノワ/アルチンドロ:ポール・プリシュカ

合唱:メトロポリタン歌劇場合唱団
   TOKYO FM 少年合唱団

上演時間 1幕 40分(転換5分)2幕 20分 休憩 25分 3幕 25分 休憩 25分 4幕 30分
《15時00分開演、18時00分終演》

まず、いまだに原発事故による放射能汚染に終止符が打たれていない日本に、総勢350名で来てくれたメトロポリタン歌劇場(MET)に心から感謝したい。しかし、残念ながら『ラ・ボエーム』公演はそれに対して手放しで喜べるような作品とは思えなかった。

オペラは総合芸術である。そんなことは誰もが解っている。そして、その総合芸術の出来映えは時代と共に変化していく。今回の舞台を観ているいると、いったいいつの時代の演出と舞台美術を観ているのかと思ってしまう。第1幕と第4幕は共に屋根裏部屋が舞台となるが、舞台美術はいかにも屋根裏部屋でございますというセット。まあ、そこまでは良しとしよう。ところがそのセットの後方が書き割りの背景絵なのである。これには失望せざるをえなかった。なんでもっと立体感のあるミニチュアにするなど、他にも現代的な美術にできなかったのだろうか。

書き割りなどはもはや現代演劇で使われることがない前時代的シロモノである。この書き割りは第2幕の見せ場であるパリの街並であるカフェ・モミュスを作り出すために使用されているのは解っているが、あの奥行きのないセットでは、舞台に観客を視覚的に引き込む力がまったくない。20年も30年も前の遺物のような舞台美術をいまだに踏襲していることに正直驚かざるをえなかった。

とここまでは思いっきり不満を書かせてもらっが、オペラの主体となるのは歌と音楽である。主役のミミを演じたフリットリは素晴らしかった。しかし、これも申し訳ないがやはりネトレプコが演じたならばと思わざるをえない。フリットリは歌声も綺麗だし、演技力もある。しかし、悲劇の世界に導く魅力の何かが弱い。それゆえに、第4幕でミミが息を引き取るシーンも、どことなく唐突的で心を揺さぶれることがなかった。

一方で、ロドルフォを演じたピョートル・ベチャワは魅力的だった。久しぶりに華のあるきらびやかなかなテノールを聴いた思いだった。彼はルックスもスタイルも二枚目風であり、すでにMETで『ロミオとジュリエット』のロミオを演じているようだが、これはアタリ役になりそうな感じだった。そして、いつの日かせひとも新国立劇場にも登場してもらい。

ムゼッタ役のスザンナ・フィリップスは陽気で伸びやかな声量のある歌手で、アメリカ人かなぁと思ったらやはりアメリカ人だった。w まだまだ若手のようだが、表現力をつければもっと大役をもらえる潜在能力があるとお見受けした。

今回の公演で一番素晴らしかったのは、ファビオ・ルイーズ指揮するメトロポリタン歌劇場管弦楽団だっただろう。これまでに日本で1度、アメリカで何度もMETを観ているが、オケがこんなに上手だとは思ったことは一度もなかった。これならば、ニューヨーク・フィルと遜色はないかもしれない。ひょっとしたらそれ以上かもしれない。14日の特別コンサートが楽しみである。

最後に、またもや苦言をひとつ。オペラのキャスト変更は体調不良などで当たり前と言われている。そして、今回のような原発事故によって来日を止めてしまう歌手が出てしまうのも解る。しかしながら、こうしたオペラ界の「常識という非常識」にはそろそろピリオドを打ってもらいたい。それが興行主としての責任であり務めである。もちろん、キャスト変更による希望者への払い戻しを受け付けないという「常識という非常識」も同様である。

堀米ゆず子と高関健と美人木管奏者たち

2011-06-12 12:20:23 | 日本フィル
一昨日(10日)、サントリーホールで行われた日本フィルハーモニー交響楽団の第346回名曲コンサートへ先月に続き母親と一緒に行ってきた。指揮は腰の緊急手術のために来日できなかったアレクサンドル・ラザレフに代わって高関健。ヴァイオリンは堀米ゆず子。

【演目】
ブラームス/ヴァイオリン協奏曲
  ~休 憩~
R.シュトラウス/交響詩《ツァラトゥストラはかく語りき》
《19時00分開演、20時35分終演》

1曲目。堀米ゆず子は1957年生まれだからすでに50代半ばである。しかし、彼女は今でもパワフルで、観客の心を震わせる何かをもっている。このヴァイオリン協奏曲はピアノ協奏曲ほど交響曲っぽくはないが、それでもブラームス特有の理知的な重厚さがある。

第1楽章。堀米のヴァイオリンはいきなり撓る、畝る、そして響いていく。彼女の音色はあくまでもアグレッシブで前向きで観客を圧倒していく。おそらく身長150センチそこそこの小さな身体の彼女だが、そこから出される音色は150キロを投げる豪腕投手のように唸りをあげいく。オーボエやホルンなどの木管との掛け合いも、お姐さんパワーでグイグイとリードしていく余裕すらも見え、しっかりとフィットしていく。年の功である。そして、終盤のカデンツァでは熟れた果実のようにしっとりとした音色の奏であげ魅了させてくれた。

第2楽章。穏やかな楽章なのでこれといった印象を受けなかったが、それでもオケのメンバーが彼女を見る目が違うように見えた。

第3楽章。第1楽章に出てくる主題が何度も繰り返されるが、これがもう弓と弦の間から♪マークが羽ばたいて、指揮者高関の上を舞い踊っているかのようだった。ブラームスのロマンと重厚さに加えて、堀米の舞い踊る音色が見事に溶け合っていく様を聴いているだけで悦に入った。

2曲目。日本人の指揮者は小柄な人が多いが、私は広上淳一、下野竜也、高関健を「日本の小さな3巨人」指揮者だと思っている。この3人はとも的確な指示とオケをのせる力に非常に長けている。なかでも、高関の指揮はぐいぐい引っ張って行く塾の先生タイプでなく、どことなく小学校の先生のようであり、「はい、次はあなたの番ですよ、次はあなたの番ですよ」といった具合に、ソロパートをのせるのが巧みである。

1曲目もそうだったが、この日のオケは対向配置。これが良かったのか、中低音部の弦がさほど目立つことなくシュトラウスが得意とする木管と金管がどんどん鳴り響いていく。なかでもトランペットのオッタビアーノ・クリストーフォリの音色はいつもながら逞しく、聴いていて気持ちがいい。加えて、この日は美人が数多く占めていた木管陣も鮮やかな音色を醸し出していた。

それにしても、このところの日本フィルの木管陣は美人の宝庫だ。この日はフルートに3人(真鍋、難波、客演)、オーボエに3人(杉原、坪池、客演)、ファゴットに3人、ホルンに2人といった具合で、音の保養だけでなく目の保養にもなる。来シーズンの会員を継続しておいて良かった。(苦笑)

で、最後に恒例の母親の一言。「堀米さんは上手いねぇ。ブラームスはピアノ協奏曲ほど重くなかったね。R.シュトラウスは『ばらの騎士』の方が綺麗だね」ということであった。

アシュケナージとN響の相性は良いの?悪いの?

2011-06-09 21:11:12 | N響
昨日(8日)サントリーホールでのNHK交響楽団第1705回定期公演を聴いてきた。指揮はウラディーミル・アシュケナージ。ヴァイオリンは神尾真由子。

【演目】
ショスタコーヴィチ/弦楽八重奏のための2つの小品
プロコフィエフ/ヴァイオリン協奏曲第2番ト短調
  ~休 憩~
ショスタコーヴィチ/交響曲第5番ニ短調
《19時00分開演、20時55分終演》

正直、首を捻らざるをえないコンサートだった。

1曲目。元々は2つの弦楽四重奏団のために書かれた「前奏曲」と「スケルツォ」の2つの曲からなる作品だが、今回は弦楽オーケストラとしての演奏。N響の弦のメンバーは普段から室内楽に取り組んでいる人が多いことから、この手の曲は得意中の得意。引き締まった音色と機動力のある音の運びなどは他のオケの追随を許さないだろう。この曲を選曲したアシュケナージに拍手。

2曲目。この日のお目当てはこれだったのだが・・・。神尾真由子は上手い。しかし、こういうことを書くと女性には失礼かもしれないが、なんか「女」になっちゃたような音色なのである。以前聴いたような大胆な野心性はまったく聴くことができない。妙になんか丁寧に丁寧に、失敗しないように失敗しないように、という守りの姿勢が見えてしまい、面白みに欠けた。こんな神尾はこれまで聴いたことがなかった。

神尾がこうした演奏をしたことはアシュケナージにも責任があると思う。というのも、アシュケナージは先日のガヴリリュクのときのようにピアノ協奏曲だと、演奏者の個性をうまく引き出すことは上手いのだが、ヴァイオリン協奏曲になるとそれがほとんど見られない。いくら元超有名ピアニストだとしても指揮者としては問題があるのではないだろうか。

3曲目。第1楽章冒頭からN響の弦はタイトな響きを掲げていくが、そのあとが続かない。なかでも木管陣のチグハグさが妙に目立ってしまう。これはアシュケナージのやたらテンポを変える指揮に戸惑っていて、ついていけないのである。特に低音部を支えるファッゴットやクラリネット、そしてホルンに精彩が感じられなかった。そんななかでも、弦だけはしっかりした音色を携えていく。しかし、最終楽章ではアシュケナージは打楽器に破壊するような音色を出させて、オケ全体のバランスを崩していく。これが彼の狙いであり、演奏スタイルなのかもしれないが、結局のところ交響曲としての一体感はまるでなく、虚無感だけが残ったシーズン最後のコンサートだった。

外国人に観てもらいたい『蝶々夫人』@新国立劇場

2011-06-07 11:16:45 | オペラ
昨日(6日)新国立劇場・オペラ劇場でオペラ『蝶々夫人』公演(初日)を観てきた。音楽はジャコモ・プッチーニ。演出は栗山民也。指揮はイヴ・アベル。管弦楽は東京フィルハーモニー交響楽団。

蝶々夫人:オルガ・グリャコヴァ
ピンカートン:ゾラン・トドロヴィッチ
シャープレス:甲斐栄次郎
スズキ:大林智子
ゴロー:高橋淳
ボンゾ:島村武男
神官:佐藤勝司
ヤマドリ:松本進
ケート:山下牧子
合唱:新国立劇場合唱団

上演時間 1幕 50分 休憩 30分 2幕 70分
《18時30分開演、21時30分終演》

私は80年代、90年代に小劇場演劇に関わっていたが、当時、私は日本の現代演劇は世界の最先端を走っていると信じていた。しかし、ミュージカルやオペラはまだまだ世界の足下にも及ばないと思っていた。その頃、毎年のようにニューヨークへ行き、ブロードウエイ、オフ・ブロードウエイやオフオフの芝居もよく観たが、さほど刺激的なことなど一度もなかった。しかしながら、ミュージカルやオペラはその前向きな姿勢や完成度にため息が出たものだった。

あれから20年近くになるが、この『蝶々夫人』を観ていると、日本のオペラも遂に世界レベルになったのではないかと感涙せざるをえなかった。栗山民也による演出は2005年の初演以来、2007年、2009年と新国立劇場で上演され、今回で4回目となるみたいだが、その成熟度はもはや世界の何処で上演しても恥ずかしくないものである。途中何度もここは日本なのだろうかと思ったぐらいだった。

現在、メトロポリタン歌劇場が来日しているが、新国立劇場もこの作品をもってヨーロッパやアメリカへ行ってもいいのではないだろうか。それが無理ならば、日本にいる外国人にもっともっと観てもらうために英語字幕をつけるなり、英語解説書を用意するぐらいしてもいいのではないだろうか。

蝶々夫人を演じたオルガ・グリャコヴァは同役をすでに演じているようだが、今回の出演でこの役への自信をつけることは間違いないだろうし、今後予定されているウィーン国立歌劇場での公演で更なる飛躍を遂げ、いずれアタリ役になるに違いない。

ピンカートンのゾラン・トドロヴィッチは損な役回りだが、もう少し大胆に演じても良かったのではないかという気がした。シャープレスを演じた甲斐栄次郎とスズキを演じた大林智子は、ともにこの役をすでに自分のものしていて安定感抜群だった。また、ゴローを演じた高橋淳は芸達者で役者としても十二分に通用する。

オケピの東京フィルも今回が4回目ということだろうが、完全にこの曲を掌中に入れていた。特に弦の歌い方はこれまでの東京フィルとは見違える出来映えで、その音色を引き出したイヴ・アベルにブラボーだ。

アシュケナージとN響による前衛と叙情の対比

2011-06-05 09:47:46 | N響
一昨日(3日)NHKホールでのNHK交響楽団第1704回定期公演を聴いてきた。指揮はウラディーミル・アシュケナージ。ピアノはアレクサンダー・ガヴリリュク。

【演目】
プロコフィエフ/組曲「3つのオレンジへの恋」
プロコフィエフ/ピアノ協奏曲第2番ト短調
※ラフマニノフ/ヴァカリーズ
  ~休 憩~
シベリウス/交響詩「大洋の女神」
シベリウス/交響曲第7番ハ長調
《19時00分開演、20時55分終演》

前半は前衛的なプロコフィエフ、後半は叙情的なシベリウスという異色なプログラムだったが、これがなかなか味わい深い演奏会だった。なお、ヴィオラ首席は店村眞積が先月いっぱいで退団したために井野邉大輔が務めていた。

1曲目。プロコフィエフが作曲したオペラからの組曲。いろいろなヴァリエーションの6曲で構成されているが、聴いているとオペラというよりバレエの曲という感じがしたりする。プロコフィエフ特有の先鋭的な音色だけでなく、優美な旋律もあり非常に面白い。N響の演奏も妙に劇的に奏でることなく、端正にして流麗な音を展開していた。

2曲目。アレクサンダー・ガヴリリュクは1984年ウクライナ生まれ。2000年の第4回浜松国際ピアノコンクールで16歳にして第1位に輝いている。ちなみに、このコンクールでは2006年の第6回大会で同じウクライナ出身の俊英アレクセイ・ゴルラッチ(7月の読響に出演=完売)が優勝している。また、第7回大会の優勝者はチョ・ソンジンで、10代の逸材を堀り起こす高レベルなコンクールのようである。

ピアノ協奏曲第2番は全楽章を短調で形成されているので、構成そのもにさほど起伏はない。それでもやはりプロコフィエフの挑発的な旋律があちらこちらに散りばめられていて、聴く者を飽きさせない。なかでも第1楽章終盤の超絶技巧によるカデンツァは特徴的で、低音部を力強い和音で、高音部を繊細にして高難度の旋律が繰り広げられ、プロコフィエフならでの世界へ聴衆を導いていく。あとはもうプロコフィエフがガヴリリュクに乗り移ったのではないかと言われるぐらい、素晴らしい演奏を次々と展開していった。ガヴリリュクは只者ではないピアニストである。

演奏終了後、観客ばかりでなくオケのメンバーも拍手喝采だったが、なかでも打楽器陣は自分の仲間のように大喜びしていたのが印象的だった。

3曲目。大西洋を渡ったシベリウスが海の精に捧げた曲。弦は海のうねりを表していて、その波の上を遊ぶ海の精たちを木管が旋律を奏で、そして、海を進む船をホルンと金管が表しているようだ。これといった特徴のある旋律などはないのだが、それでも、大型客船が穏やかな大西洋を航海している光景を想像させてくれる。名曲『タピオラ』ほどのダイナミックさはないが、心地良い気分にさせてくれる曲だ。

4曲目。3曲目では神田寛明と渡邊玲奈のツインフルートの音色に心弾かれたが、4曲目は神田と甲斐雅之のツインフルートで、こちらの音色も素晴らしかった。交響曲などではオーボエかホルンがリード役を務めることが多いが、やはり花形はフルートだ。その昔、フルートを吹いたことがある者として、ああいう音色が出せる人が羨ましい。(苦笑)

チラシ文化をそろそろ見直すべきでは

2011-06-01 23:36:13 | Weblog
80年代90年代、私が芝居に関わっていたとき、チラシやポスターはもっとも有効な伝達および宣伝手段だった。そのために、各劇団は有名写真家、まんが家、イラストレーターなどに依頼して、ほとんどアートといってもいいようなものを作ったりしていた。

しかしながら、昨今のチラシ、なかでもクラシック音楽系のチラシは多色刷でとても豪華なのだが、アートにはほど遠く味気ないものがほとんどである。そして、それが公演ごとに何万枚も刷られていることに違和感を覚えざるをえなくなってきた。

チラシを全廃しろとまでは言わないが、少なくとも劇場前でチラシが配られるような現状はそろそろ脱してもいいのではないだろうか。大量の印刷物はどう考えても環境にはやさしいとは思えないし、経費削減にもなると思うのだが・・・。

確かに高齢の人はインターネットなどを使えず、いまでもチラシが情報源という人が多い。しかしながら、あんなに大量に配る必要性があるのだろうか。劇場側ももう少し置きチラシのスペースを設けるなり、業界全体でも考え直す時期ではないだろうか。