ミーハーのクラシック音楽鑑賞

ライブ感を交えながら独断と偏見で綴るブログ

ムーティ&東京春祭特別オーケストラ1日目

2013-10-31 14:28:02 | その他
昨日(30日)すみだトリフォニーホールで開かれたヴェルディ生誕200年記念「ムーティ conducts ヴェルディ」を聴いてきた。指揮はリッカルド・ムーティ。演奏は東京春祭特別オーケストラ。ソプラノは安藤赴美子*、バス・バリトンは加藤宏隆**、合唱は東京オペラシンガーズ***。

【演目】
ヴェルディ/歌劇《運命の力》序曲
      歌劇《シチリア島の夕べの祈り》第3幕よりバレエ「四季」
  ~休 憩~
ヴェルディ/歌劇《運命の力》第2幕より「天使の中の聖処女」* **
      歌劇《マクベス》第4幕より「虐げられた祖国」***
      歌劇《ナブッコ》第3幕より「行け、わが想いよ、黄金の翼にのって」***
      歌劇《ナブッコ》序曲
《19時00分開演、21時00分終演》

今回の公演は来年5月に来日するローマ歌劇場のための一大プロモーションイベント。それでもめったにムーティの指揮を受けられない日本の音楽家にとっては嬉しいイベントであり、都響とN響を主体に在京オケの主力メンバーおよびフリーのソリスト(長原幸太、松田理奈など)が集まった編成になっている。

1曲目。ムーティ指揮のもとタイトで引き締った演奏で開始されるものの、途中からヴァイオリン陣がムーティに少し煽らされたのか、それとも気負いすぎたのか、少し上ずった音色に聴こえてしまったのが残念。あと、私がトリフォニーホールの音響に不慣れなせいもあるが、音色が妙に遠くから聴こえてくるような感じがした。トリフォニーのホームページには残響時間約2秒(満席時)と書いてあるが、個人的にサントリーホールやミューザ川崎の半分ぐらいにしか思えない。

2曲目。初めて聴く曲。季節は冬、春、夏、秋の順で演奏されていき、クラリネット、フルート、オーボエ、チェロがそれぞれの季節をリードしていくようだが、木管陣は1曲目のヴァイオリン陣と同じように少し上ずりすぎて落ち着きに欠けていた。一方でチェロ陣は終始穏やかな音色で、約30分にもおよぶバレエ音楽をまとめる牽引車ぶりを発揮した。

後半については簡略に書かせてもらうが、3曲目に登場した2人の歌手は声質は綺麗だが声量不足は否めない。4曲目は初めて聴いた曲だが、合唱そのものは無難だったが、オケと一体化しているようには聴こえなかった。5曲目は前曲とはうって代わり合唱団はうまくオケとマッチしていては素晴らしかった。6曲目、ムーティの真骨頂が発揮され、万来の拍手喝采を受けたが、本人はさほど満足しているようには見えなかった。

全体を通して一番印象が良かったのはトロンボーン陣。次いでチェロ陣、ハープとティンパニーという感じだった。他はやはりムーティの気迫に押されたのか、それとも気負いすぎたきらいが現れていた。2日目は緊張がほぐれて良くなるかもしれないが、1日目は結局のところオケのメンバーたちが生真面目で少し興奮しすぎていたのではないだろうか。

最後に、ムーティはヴェルディを振らせたら世界一の指揮者かもしれない。彼はそれだけヴェエルディを熟知しているし、自信をもって揺るぎない指揮をしていた。別に来年のローマ歌劇場の演奏会を宣伝するつもりはないが、来年は手慣れたオケの指揮となるので充実したオペラ公演になるのではないだろうか。私としてはオペラ公演はちょっと値がはるので行けるかどうか解らないが、もしオケだけのいわゆる特別演奏会があれば必ず行くつもりでいる。

評論家と名乗るならば気概あれ

2013-10-30 00:25:05 | Weblog
世間には評論家と名がつく人が五万といる。政治評論家、野球評論家、映画評論家、とごく一般的分野から、ラーメン評論家、携帯電話評論家などニッチな分野までいろいろな評論家がいる。ありとあらゆるジャンルに評論家は存在するといっても過言ではない。

なかでも芸術関係の評論家は数多い。映画評論家、演劇評論家、音楽評論家、舞踊評論家、美術評論家といった人たちである。映画評論家と名乗る人は五万とは言わないが、少なくとも5百人以上はいるのではないだろうか。ただ、この人たちは単に評論するだけでは生活できないので、多くの人は映画会社のパンフレットやチラシの原稿を書いて収入を得ている。要は評論家ではなく下請けのライターというべきなのだろうが、世間的には映画評論家と言った方が箔がつく。

このことは音楽評論家も似たりよったりかもしれない。彼らの書くコンサート批評は正直なところ毒にも薬にもならないものが多い。なんでもかんでも好意的に書こうとしていて、読んでていて時折本心なのかと思ったりしてしまう。結局のところ音楽評論家にしても一部の映画評論家同様にチラシやパンフ、雑誌の原稿で食っている単なるライターという人も多いのではないだろうか。

一億評論家時代と言われて久しいが、評論家ならば時には当事者(芸術家)から反発を食らうぐらい気概のある評論や建設的な意見を書いてもらいたい。そうでなければ、どんな評論家にしても太鼓持ちでしかないだろう。音楽評論家にしてもタダで演奏会を聴きにいって、主催者の都合のいいことを書くようでは読者から信頼はされない。気骨ある評論を書いてもらいたものである。

少し話は飛ぶが、福島第一原発事故で分かったように、世の原子力学者という人たちの99%が東京電力から資金提供を受けていて、それで飯を食っていた。そのために原発事故の恐ろしさを伝えることをしないし、できもしない。もちろん、マスコミを広告代をいっぱいもらっていて、それを批判することができない。

同じことが評論家全般にもいえないだろうか。彼らの多くは業界から恩恵を受けている。それゆえに評論家は業界のマイナス面、ネガティブな面を書くことができない。なぜならば、そんなことを書けば、業界に睨まれて、いずれは追放されて、職を失いかねないからだ。

かくいう私も以前はテレビ評論家、女子アナ評論家などと言われたが、私は太鼓持ちのような評論をした覚えはない。良いもの良い、悪いものは悪い、という自分のポリシーを曲げてまで評論などしたくはなかったからである。

東京シティフィルの『カルメル派修道女の対話』

2013-10-27 00:55:01 | 東京シティフィル
一昨日(25日)オペラシティで開かれた東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団の第273回定期演奏会を聴いてきた。指揮は矢崎彦太郎。

【演目】
フランシス・プーランク/歌劇『カルメル派修道女の対話』
(全3幕・演奏会形式・日本語字幕付)

  ブランシュ・ド・ラ・フォルス:浜田理恵
  フォルス侯爵:萩原 潤
  騎士、司祭:与儀 巧
  クロワシー修道院長、ジャンヌ:小林真理
  リドワーヌ修道院長:半田美和子
  マリー修道女長:秦 茂子
  コンスタンス:コロンえりか
  第1の人民委員:大川信之
  従者、医師、役人:金沢 平
  マチルド:布施奈緒子
  修道女、群衆:東京シティ・フィル・コーア

《18時00分開演、21時20分終演》休憩2回

プーランクのオペラとはどういうものだろうかという勉強のために聴きに行った。大正解だった。久しぶりに鳥肌ものの演奏会形式に出会ったという感じである。そして、オペラシティ・コンサートホールがこんなに演奏会形式に適しているホールだとは思いもよらなかった。とにかく歌声が通る。ピアニッシモであろうとフォルテであろうと。それは時には教会にいるかのように、時には静寂な森の中にいるかのように。小さな歌声であろうと、大きな歌声であろうと客席にダイレクトに伝わってくるのだ。

歌劇『カルメル派修道女の対話』はミラノ・スカラ座の委嘱により、1957年1月にまずイタリア語版が初演された。そして、その5ヶ月後にパリ・オペラ座でフランス語版が上演された。今回は後者のフランス語版。

物語はフランス革命のなか、反革命的という理由よって処刑された16人のカルメル派修道女の史実を基に書かれているが、なぜ修道女までもが処刑されなければならないかという経緯はフランス史を相当勉強しないと解らないかもしれない。ただ、この歌劇ではそうした前提を抜きにしても、終始一貫美しい旋律が流れるなか、歌劇として十二分に鑑賞することができるに違いない。ただしラストはかなりショッキングなシーンで終わる。

東京シティフィルの演奏はところどころに粗い部分もあったが、たった1回公演のために奏者たちが渾身の力を込めて演奏しているのは十二分に伝わってきた。同じことは歌手陣からも十二分にも伺え、全体を通してどの歌も美しく、時にうっとり、時に切なくなり、それを出演者たちは歌い上げていたと思う。なかでも印象に残ったのは第2幕の女性6人によるアンサンブルで、その歌声はオペラシティのホールの隅々にまで美しく響き渡っていき、天を仰がざるをえなかった。

歌手陣はそれぞれが実力を発揮していたと思うが、第2幕と第3幕の重要な場面で凛々しくも切ない歌を披露した半田美和子にMVPを与えたい。またヒロインである生真面目なブランシュ役を演じた浜田理恵と、対称的に天真爛漫なコンスタンス役を演じたコロンえりかの2人は敢闘賞ものであった。

演奏後の観客の反応は凄まじかった。スタンディグオベーションをする人もかなり多く、また外国人客(フランス大使館関係だろう)もみんな盛大に拍手を送っていた。とにかく観客の多くがこの意欲作への取り組みと成功に賛辞を止むことはなかった。ブラビー!

最後に話は少しズレるかもしれないが、来年度から新国立劇場の音楽監督に飯守泰次郎が就任することが決定しているので、東京シティフィルが新国立劇場のオケピに入る可能性は高いと思われる。もしそうなれば大変喜ばしいことなのであるが、ただ、飯守が得意とするワーグナーを演奏するのだけではなく、できれば今回のような意欲作をも演奏してもらいたい。期待している。

『フィガロの結婚』@新国立劇場

2013-10-24 23:44:13 | オペラ
昨日(23日)新国立劇場・オペラ劇場で公演されている『フィガロの結婚』を観てきた。音楽はヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。演出はアンドレアス・ホモキ。指揮はウルフ・シルマー。管弦楽は東京フィルハーモニー交響楽団。主な出演者は下記の通り。

  フィガロ:マルコ・ヴィンコ
  スザンナ:九嶋香奈枝
  アルマヴィーヴァ伯爵:レヴェンテ・モルナール
  伯爵夫人:マンディ・フレドリヒ
  ケルビーノ:レナ・ベルキナ
  マルチェッリーナ:竹本節子
  バルトロ:松位浩
  バジリオ:大野光彦
  ドン・クルツィオ:糸賀修平
  アントーニオ:志村文彦
  バルバリーナ:吉原圭子
  合唱:新国立劇場合唱団

《18時30分開演、21時45分終演》休憩1回

天才と馬鹿は紙一重とか、天才と凡人は紙一重とか、◯◯と△△は紙一重と、いろいろな紙一重の表現があるが、今回の『フィガロの結婚』も傑作と凡作(駄作?)は紙一重という印象な舞台だった。

まず最初に演出の意図がよく解らない。かといって芝居全体が面白くないというわけではない。

舞台美術は四角い遠近法を利用した箱上になっている斜舞台。なんか今から20年ぐらい前に下北沢の小劇場で流行った舞台の様。ただし、今回の舞台はその傾斜が10度以上はあろうかというかなり急な八百屋舞台。そこにこれまた箱ものや大きな洋服ケースが置かれるというかなり無造作にしてシンプルなもの。そして、前半の照明はずっと地明かりだけでほぼ真っ白な状態で、観客は目も眩むハレーションのような世界で延々と芝居は行われていく。

しかし、後半はセンターにでなく上手(右手)側に傾斜した少し崩壊した舞台で話が進む。これは伯爵の心情を表しているのか、それとも人間関係の崩壊を表しているのか、それとも他の意図があるものだろうか。ただし、照明は陰影をつけたエスエス(サイドスポットライト)を使うようになり、舞台に影を入れて何処となく日常性とエロティック性を対比したドラマになっていく。しかし、それでも確たる演出の意図は掴むことはできない。

出演の外国人歌手陣は総じて小粒だ。これまで観た新国立劇場のオペラではもっとも小粒な外国人歌手陣といっても過言ではないだろう。いくら期待の若手を集めたといっても、残念ながら彼らにはこれぞと光るものは見受けとれなかった。一方で、日本人歌手たちは山椒は小粒でピリリと辛いではないが、スザンナ役の九嶋香奈枝を筆頭に、バルバリーナ役の吉原圭子、アントーニオ役の志村文彦は十二分に存在感を示していた。ちなみに、東京フィルの演奏はとても手慣れていて安定はしていたものの、あまりパンションが伝わってこなかった。

う~ん、やはり、これは傑作ではなく凡作であろう。おそらく本来の『フィガロの結婚』はもう少し滑稽性とかエロティシズムがあるのではないだろうか(実は私は『フィガロの結婚』を今回初めて観た)。今回の舞台は確かテンポはいいが、狭い斜舞台ということもあるせいか、出演者は誰もが正面切りの芝居しかできず、歌声は客席に上手く通るものの、アンサブルとしての芝居がまるっきりない。よって、出演者たちの関係性が非常に希薄である。ということで、音楽的には成功しているかもしれないが、演劇的には失敗だ。ということ両者痛み分けと言いたいところだが、オペラは両方が成立しての総合芸術だと思うので、この作品は結局のところは凡作であろう。

『フィガロの結婚』は世界でもっとも上演されている有名オペラの1つである。それならば、新国立劇場は日本人演出家を育てるためにも、演出家に演出プランを提出させるオーディションでもやって、もっとも面白そうな人に任せて新制作をした方がいいのではないだろうか。

クリスチャン・ヤルヴィ&小山実稚恵 with 都響

2013-10-18 10:54:59 | 都響
一昨日(16日)サントリーホールで開かれた東京都交響楽団の第758回定期演奏会Bシリーズを聴いてきた。指揮はクリスチャン・ヤルヴィ。ピアノは小山実稚恵。

【演目】(※はアンコール曲)
ラフマニノフ/コレッリの主題による変奏曲(管弦楽版/日本初演)
プロコフィエフ/ピアノ協奏曲第3番ハ長調
※プロコフィエフ/前奏曲op.12-7
  ~休 憩~
ストラヴィンスキー/バレエ組曲「火の鳥」(1945年版)
《19時00分開演、21時05分終演》

初めて聴くクリスチャン・ヤルヴィ。多彩な変化球をコーナーぎりぎりに投げる指揮者という感じで実に面白い。ただ、そうした変化に富んだ指揮に上手に演奏できたのはピアノの小山実稚恵ぐらいで、都響のメンバーはついていくのがやっという感じでもあった。都響の指揮者というと、インバル、フルシャ、小泉和裕とみんな直球勝負の指揮者ゆえに、ヤルヴィのような変則型の指揮者には慣れていないのかもしれない。ただし、こうした指揮者と上手く付き合えないようでは問題だとも思う。

1曲目。コレッリの主題による20からなる変奏曲なのだが、途中何度かパガニーニの主題による変奏曲のような旋律とアレンジが表れて、ちょっとニヤリとしてしまう。日本初演というにも関らず、クリスチャン・ヤルヴィは完全暗譜。一方でオケはみんな初めての演奏だから、合わすので精一杯という感じで、演奏そのもの出来は少し疑問が残った。でも、この曲はかなり魅力的なので、都響にはぜひとも掌中に収めてもらいたい。

2曲目。10数年ぶりにこの曲を弾いたという小山実稚恵。この曲が彼女に似合うとは思えなかったが、それは大間違いだった。彼女の奏でる音色は軽快にして丁寧。それでいて踊る回る飛び跳ねるという感じでまるでバレエ音楽のような優美さ。プロコフィエフといえば『ロミオとジュリエット』という不朽のバレエ音楽の名作を産んでいるのだから、この曲をバレエ音楽のように演奏してもおかしくもないだろう。というより、何処かのバレエ団の方、この曲でバレエを振付てみてはいかがだろうか。絶対に面白いと思うのだが。

3曲目。クリスチャン・ヤルヴィはまたもや暗譜。今度は正真正銘のバレエ音楽。そのせいかどうかしらないが、ヤルヴィはステップは踏むは、片足は上げるは、ジャンプはするはで、バレエのようでもなりロックでもあるような指揮ぶり。(笑)そのせいか、ここでもオケはなかなかついていけない。特に弦の首席次席奏者たちにはちょっと困惑の表情が・・・。一方で、木管の若手首席奏者の鷹栖三恵子(オーボエ)や長哲也(ファゴット)などは必死に食らいついていこうしていて、その意気込みが音色から伝わってきた。

そして、終演後興味深かったのがP席やサイド席のお客さんたちが、正面席のお客さんたちよりもはるかに大きな拍手をおくっていて大喝采。う~ん、ヤルヴィの指揮ぶりが面白かったんだろうなあ。w

さて、クリスチャン・ヤルヴィは来年3月に読響に登場。また翌年には以前も振ったことがある大阪フィルに登場。さて、何処のオケが彼のハートをしっかり取らえることができるのだろうか。

来シーズンのノット&東響に期待

2013-10-16 00:13:44 | 東響
一昨々日(13日)サントリーホールで開かれた東京交響楽団の第614回定期演奏会を聴いてきた。指揮は来シーズンから第3代音楽監督に就任予定のジョナサン・ノット。ソプラノはクリスティーネ・ブリューワー。

【演目】
R.シュトラウス/4つの最後の歌
  ~休 憩~
R.シュトラウス/アルプス交響曲
《14時00分開演、15時50分終演》

芝居にしても、オペラにしても、バレエにしても、音楽にしても、マチネ(昼)にライブ鑑賞をするのが好きではない。最大の理由は、終演後劇場を出たときに外が明るいと、せっかく非現実の世界に浸っていたのに、急激に現実の世界に引き戻されてしまう気がするからだ。

他にも理由がある。私にとってマチネ公演は眠くなるのだ。せっかくの芸術鑑賞なのに、途中で寝てしまうというのは演者に対して失礼にあたるし、もったいないと思う。そして、マチネ公演にはちょっとした問題点がある。演者たちの声が明瞭に出にくいのである。これは舞台役者でもソアレ(夜)とマチネでは声のクリアさが違う。おそらく歌手はそれ以上の違いがあるだろう。

ということで、少し前置きが長くなってしまったが、そうしたマチネの欠点が前半に表れてしまった演奏会だった。

1曲目。クリスティーネ・ブリューワーの歌声は鮮明でない、声量もあまりない。彼女の本当の力量がどれぐらいあるのかは解らないが、明らかに声質にマチネ特有の翳りがあり伸びがない。これでは、目を瞑って聴くしかない、と思うと今度は私にマチネ特有の睡魔が襲ってきた。オケのみなさんには申し訳ないが、ここは沈黙の時間を過ごさざるをえなかった。

2曲目。ジョナサン・ノットのアルプス登山は若干早歩き。ただし、休憩して周囲の山々を見回したり、頂上でパノラマを満喫するときは、爽快にして流麗なマイペースで気持ちがいい。彼の指揮ぶりは決して気をてらわず、オーソドックスでオケのメンバーは演奏しやすいのではないだろうか。というより、乗せられやすいのではないだろうか。いつもはちょっとひ弱なイメージのある東響の中低弦が怯まずに主張するところは主張するといった勢いで、張りのある音色を聴かせてくれた。また、木管金管陣もホルンを中心に充実していて、牧歌的かつ渓谷的な雰囲気を鮮やかに描いていた。ただ、下山途中で嵐に合うところが、少し粗く感じられたのが残念でならなかった。

ジョナサン・ノットは来シーズン4月、6月、12月、3月と東響を指揮をする予定になっている。そのなかには彼が得意とするワーグナーやブルックナーもプログラムされている。期待したい。

東京交響楽団(2014-2015演奏会案内)
http://tokyosymphony.jp/common/tso/images/pdf/2014_2015pamphlet.pdf

衰えない、色褪せないスクロヴァチェフスキ&読響

2013-10-14 00:50:47 | 読響
一昨日(12日)サンントリーホールで開かれた読売日本交響楽団第530回定期演奏会に行ってきた。指揮はスタニスラフ・スクロヴァチェフスキ。

【演目】
スクロヴァチェフスキ/パッサカリア・イマジナリア
  ~休 憩~
ブルックナー/交響曲第4番変ホ長調「ロマンティック」
《18時00分開演、20時05分終演》

先日スクロヴァチェフスキは90歳を迎えたが、この卒寿の翁にはまったく衰えがない。今から2年前スクロヴァチェフスキ・ブームというのが起き、彼が指揮をする演奏会はいつも完売になった。しかし、この日の演奏会はチケットは完売することはなく、P席にも30席以上の空席があり、読響もN響と同じように深刻な空席問題を抱えているということが露呈してしまった。それでも、スクロヴァチェフスキはそんなことどこ吹く風といった雰囲気で、読響のオケをうまく紡ぎ束ねていき、2年前いやそれ以上の斬新にして清麗な音を作り上げていった。衰えたのはスクロヴァチェフスキでなく観客の方であった。

1曲目。5人の打楽器奏者がいるといういかにも現代音楽という曲である。こうなると、旋律も構成もあったものではない。言葉は悪いが多分に自己完結的世界である。ということで、私は早々に後半に備えるべく一人勝手に英気を養うことにした。

2曲目。ブルックナーの交響曲第4番というと、1年前のブロムシュテット&バンベルグ交響楽団の名演が忘れられないが、この日のスクロヴァチェフスキ&読響の演奏もそれに全く引けを取らない演奏だった。

第1楽章。読響の弦は以前は剛直にして律儀という音色だったが、今はコンマスが大幅に入れ替わったせいもあるかもしれないが、どんな音楽にも適応するしなやかさを持ち合わせるようになった。この第1楽章でも重厚感はないにしても硬軟うまくとりまぜて、ブルックナー特有の神々しい世界への下地というか礎を見事に作り描いていった。コンマス小森谷巧、グッドジョブ!

第2楽章。森を表す楽章だが、その音色は針葉樹の森というより広葉樹の森といった感じで色彩感に満ちている。弦の大きなうねりに松坂隼率いるホルン陣の柔らかい導きが清涼感に満ちていた。

第3楽章。出足はちょっと快速気味のスケルツォだったが、それもすぐに弦が主体となって修正され、全体としては金管陣・木管陣共に爽快感に溢れた演奏で見事だった。

第4楽章。第1楽章に回帰していく楽章だが、その高揚感が素晴らしい。ティンパニー(岡田全弘)の目立たないながらも、心柱とも思える響きがしっかりして、トランペットとトロンボーンのアンサンブルも澄み渡った輝きを表す。音量的には爆音かもしれないが、それは単に豪快なだけでなく、緻密に計算された和音となって伝わってくる。ブラボー!

終演後、90歳になったスクロヴァチェフスキを称えるために“一般参賀”が行われたが、この日の演奏はスクロヴァチェフスキを称える以上にオケを称えるべきであろう。今年聴いた読響の演奏では文句なしに一番である。

ノリントン&N響のB定期

2013-10-10 21:46:15 | N響
昨日(9日)サントリーホールで開かれたNHK交響楽団第1763回定期演奏会に行ってきた。指揮はロジャー・ノリントン。ピアノはロバート・レヴィン。

【演目】(※はアンコール曲)
グルック(ワーグナー編)/歌劇「アウリスのイフィゲニア」序曲
ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第2番変ロ長調
※ベートーヴェン/7つのバガテルop.33から第7番変イ長調
  ~休 憩~
ベートーヴェン/交響曲第6番ヘ長調「田園」
《19時00分開演、20時50分終演》

人には自分の肌の合う人、合わない人がいる。このことはクラシック音楽の世界、指揮者にも当てはまると思う。私が肌の合う指揮者は何人もいるが、肌の合わない指揮者というのはあまりいない。許容量が広い方だと思う。(笑)しかし、この人だけは何度聴いてもダメだ。

1曲目。12型対抗配置。コントラバスは木管金管の後、雛壇後方センターに構える。そのためにコントラバスの音は2階席後方にはほとんど響いてこない。演奏もとりとめなく、これといった特筆するべきものもなかった。

2曲目。楽器配置は2008年にノリントンがシュトゥットガルト放送交響楽団(ピアノは小菅優)を指揮したときと同じで、センターに蓋を外したピアノを正面向きに置く。そして、オケはそれを取り囲むように配置される。いわば室内楽的な演奏方法なのだろうか。そのために、2階席後方までは弦の音色はあまり届かず、正直、このオケ配置はサントリーホールの2階席を無視したものといえる。ただし、ピアノは舞台上の透明な反響板にあたりホール内に響きわたる。ロバート・レヴィンの音色は活き活きして爽快感に満ちあふれていた。プログラムには彼のことを「フォルテピアノ奏者としの評価が高く」と書いてあったが、その弾き方は飛んだり跳ねたり、千切ったり細切れにしたりと、なんともはやユニークで若々しい。第1楽章の即興演奏も鮮やかで、フォルテピアノ奏者というより、“ピチカートピアノ”奏者(こんな言葉はないと思う)という感じだった。

3曲目。弦は16型対抗配置。コントラバスは1曲目同様センター後方。木管は倍管。ノリントンは楽章によって指揮棒を持ったり置いたりと果敢に取り組み、かなり自由奔放で軽快というかスピードアップした演奏。しかしながら、妙にこじんまりしている。2曲目のピアノ協奏曲のような歯切れよさというか、スキップ感が伝わってこない。こうなると、これはノン・ヴィブラード奏法だの、ピリオド奏法だの、ピュアトーンだのと言ったこととは別次元の話である。一見その演奏法は革新的であるが、中味は保守王道といった感じで、演奏に広がりが感じられない。なんか動物園にいる鳥ではないが、羽ばたいているのが大きなケージのなかだけといった感じ。「田園」風景を思い浮かべようとしても、思い浮かぶのはゴルフ場か競馬場のような人工的な風景だけで、自然豊かな起伏に富んだ田園風景が思い浮かばない。う~ん、なんでだろう・・・。

そして、私がもっとも不可解に思えたのが、終演後にノリントンがホルン、フルートの首席奏者を真っ先に立たせて演奏を称えたことである。これには申し訳ないが「えっ」と思わざるをえなかった。やはりノリントンとは肌が合いそうにない。

最後に、今回のB定期もチケット完売にもかかわらず、やはり空席が目立った。P席は20席以上が空いていて、左右のRA&LAブロックもひどかった。N響は会員価格が安いP席、RA&LA席の定期会員数を減らして、1回券を増やすべきである。そうでないと、いつまで経っても空席問題は解決しないだろう。

空席対策に乗り出したN響
http://blog.goo.ne.jp/komatsu0529/e/f3fffea6d66a52bccd7e64246ee20ad9

フランス放送フィルハーモニー管弦楽団@NHK音楽祭2013

2013-10-07 00:46:01 | 海外オーケストラ
一昨日(5日)、NHK音楽祭のフランス放送フィルハーモニー管弦楽団による「ビゼー『カルメン』特集」へフランス音楽好きの老母を連れて聴きに行ってきた。指揮はチョン・ミョンフン。メゾ・ソプラノは藤村実穂子*。

【演目】※はアンコール曲
ベルリオーズ/序曲「ローマの謝肉祭」
ビゼー/「カルメン」組曲から
     前奏曲
     「アラゴネーズ」*
     間奏曲
     セギディーリャ「セビリアのとりでの近くに」*
     アルカラの竜騎兵
     ハバネラ「恋は野の鳥」*
     衛兵の交代
     ロマの歌「にぎやかな楽の調べ」*
※サンサーンス/歌劇『サムソンのデリラ』から「あなたの声に私の心は開く」*
  ~休 憩~
ストラヴィンスキー/バレエ組曲「火の鳥」(1919年版)
ラヴェル/バレエ音楽「ラ・ヴァルス」
※ラヴェル/組曲「マ・メール・ロワ」より終曲
《19時00分開演、21時00分終演》

前半の1曲目「ローマの謝肉祭」、木管金管から硬質な音が耳に刺さるように聴こえ、その後の演奏が危惧されたが、これは結果的に徒労に終わった。

「カルメン」組曲では前奏曲からは、チョン・ミョンフンは緩急自在硬軟を取り混ぜた指揮で、しっかりとオケをコントロールしていき、全体にまろやかな香りを漂わせるかのような演奏を導いていく。そして、それに応えるかのように、藤村実穂子もハリと艶のある歌声をホールに響きわたせる。

チョンは先日のN響の「ワーグナー・ガラコンサート」のときの指揮者と違い、ホールの音響を熟知しているからか、藤村が歌うときは極力オケの音を抑えるような感じで、彼女の歌をうまく引きたたせていく。そして、藤村もオペラで一般的に演じられる自由奔放なカルメンではなく、演奏会形式(?)用に合わせた理知的なカルメンをしっとりと歌いあげ観客を魅力させていく。こうなると、ちょっとインテリジェンスなカルメンの舞台も見たくなってしまう。

後半はコンマスが変わったせいかどうか解らないが、前半よりひと皮剥けたというか、より一層滑らかな音色になった感じでお洒落な演奏になる。「火の鳥」はスッタカートを強調しながらも、バレエ音楽ならでの流麗さを見事に表現。「ラ・ヴァルス」も甘くとろけるような音色でラヴェルの魅惑的な旋律をホール全体に沁み込ませていった。

で、最後に恒例(高齢)の母親の感想は「テレビで見慣れているせいか、N響の方がうまく聴こえるわね」であった。う~ん、それは身も蓋もないというか、ちょっと筋違いというか、手厳しい~。(苦笑)

ワーグナー・コンサート@NHK音楽祭2013

2013-10-04 10:45:51 | N響
一昨日(2日)、NHK音楽祭のNHK交響楽団による「ワーグナー・コンサート」を聴きに行ってきた。指揮はフィリップ・オーギャン。ソプラノはエヴァ・ヨハンソン*。テノールはサイモン・オニール**。

【演目】
ワーグナー/舞台神聖祭典劇「パルシファル」から前奏曲
     「役立つのはただ1つの武器」**
ワーグナー/楽劇「トリスタンとイゾルデ」から「前奏曲と愛の死」*
  ~休 憩~
ワーグナー/楽劇「神々のたそがれ」から「夜明け」
     「あなたの新しい働きを」* **
     「ジークフリートのラインの旅」
     「ブリュンヒルデよ、神聖な花嫁よ」**
     「ジークフリートの葬送行進曲」
     「ブリュンヒルデの自己犠牲」*
《19時00分開演、21時15分終演》

ワーグナーのオペラで観たことがあるのは『トリスタンとイゾルデ』だけだと思う。あとはなぜか観る機会を逃している。いや、なるべく観ないようにしているのかもしれない。というのも、ドイツ語がまったく解らないという妙なコンプレックスがどこか心の奥底にあるからであろう。ちなみにイタリア語も勉強したことはないが、スペイン語をある程度マスターしたおかげで、なんとなく解る部分が多い。

ということで、今回のような多くのドイツ語による歌が演奏される「半演奏会形式」なのに、字幕がないということはワーグナーもドイツ語も知らない者にとっては少々辛かった。

前半。なんか何処か余所行きの演奏だった。指揮のフィリップ・オーギャンとN響の関係は本当に稽古をしたの?と思うぐらい、呼吸も間合いが合っていないように思える。加えて、サイモン・オニールの歌声は透明感のある声質ながらも声量がか細い。またエヴァ・ヨハンソンもいまひとつノリが悪かった。正直、後半は平気なのかと思うぐらいだった。

後半。フィリップ・オーギャンの指揮は前半のような空回りはなくなるものの、N響とのギアの噛み合いはなかなか良くならない。この指揮者、オペラに関してはプロのようだが、それは結局のところオケピを熟知したオケとの絡みはいいのかもしれないが、一般のオケとの相性は良くないのかもしれない。というのも彼の指揮はちょっと独断先行型とでもいおうか、オケの良さを引き出そうというより、俺について来い的でオケのすべてのパートを完全把握しているように思えなかった。一方、オニールとヨハンソンの歌声は前半より艶や張りが出るようになり、最低限観客を魅了する表現力となっていた。

ただ苦言を呈させてもらえるならば、今回の演奏会は字幕がないのに加えて、舞台セッティングにも問題がなかっただろうか。二人の歌手がいくら実力があるとはいえ、指揮者の横では大編成のオケに負けてしまう。できれば、舞台をもう少し張り出して歌手は指揮者より前で歌ってほしかった。そうすれば、二人の歌声はもっと鮮明に聴こえたのではないだろうか。

最後に特筆すべきは後半のホルン陣。エキストラ(ワーグナーチューバとの持ち替え)に読響の松坂準、東響の上間善之など豪華な顔ぶれ。そのおかげもあってかホルンのバランスは素晴らしかった。