昨日(22日)新国立劇場で公演されている新国立劇場バレエ団の『ジゼル』を観てきた。音楽はアドルフ・アダン。振付はJ.コラリ/J.ペロー/M.プティパ。主な出演者は下記の通り。
ジゼル:ダリア・クリメントヴァ
アルベルト:ワディム・ムンタギロフ
ミルタ:堀口純
ハンス:古川和則
村人のパドドゥ:寺田亜沙子、江本拓
モンナ:丸尾孝子
ジュリマ:厚木三杏
指揮:井田勝大
演奏:東京交響楽団
上演時間 1幕55分 2幕55分 休憩20分
《19時00分開演、21時15分終演》
終演後に私がツイートした文章は「完成度は高い。しかし、何か物足りない」だった。舞台美術はバレエにしてはお金がかかっているという感じで壮観。照明(沢田祐二)もさり気ないメリハリがあり絢爛。衣裳も色彩感がしっとりながらも華麗。そして、東京交響楽団の演奏も落ち着きがあって聴かせてくれる。しかし、何か物足りない。
その物足りなさは一体なんだろうか、と帰り道ずっと考えていた。そして、出た結論は「守りに入っていて、攻めがない」ということだった。
具体的にいうと、踊りでは第1幕の村人のパパドゥはなんか間違えないよう間違えないようという感じで活き活きとした楽しさを表していない。第2幕の女性陣の群舞も美しい。しかし、ここもなんか身体で踊っているというより頭で踊っているという感じで、妙に揃えよう揃えようという感じで大人しい。
演奏にしてもホルン、オーボエ、フルートなどのソロパートはとても輝いているのだが、全体を通してなにか肩肘を張っているようで、時折なんで指揮の井田勝大はジゼルを演じたダリア・クリメントヴァのような柔らかさがないんだろうと思ったりもした。
新国立劇場バレエ団は稽古場にしても財政的にもおそらく他のバレエ団と比較して裕福というか余裕のある環境にある。その分、甘えやハングリーさが薄らいでいないだろうか。そのことが舞台に現れるようではいただけない。ハングリーであれ、守りに入るなかれ。表現者は失敗を恐れず攻めてこそ表現者でなかろうか。
ジゼル:ダリア・クリメントヴァ
アルベルト:ワディム・ムンタギロフ
ミルタ:堀口純
ハンス:古川和則
村人のパドドゥ:寺田亜沙子、江本拓
モンナ:丸尾孝子
ジュリマ:厚木三杏
指揮:井田勝大
演奏:東京交響楽団
上演時間 1幕55分 2幕55分 休憩20分
《19時00分開演、21時15分終演》
終演後に私がツイートした文章は「完成度は高い。しかし、何か物足りない」だった。舞台美術はバレエにしてはお金がかかっているという感じで壮観。照明(沢田祐二)もさり気ないメリハリがあり絢爛。衣裳も色彩感がしっとりながらも華麗。そして、東京交響楽団の演奏も落ち着きがあって聴かせてくれる。しかし、何か物足りない。
その物足りなさは一体なんだろうか、と帰り道ずっと考えていた。そして、出た結論は「守りに入っていて、攻めがない」ということだった。
具体的にいうと、踊りでは第1幕の村人のパパドゥはなんか間違えないよう間違えないようという感じで活き活きとした楽しさを表していない。第2幕の女性陣の群舞も美しい。しかし、ここもなんか身体で踊っているというより頭で踊っているという感じで、妙に揃えよう揃えようという感じで大人しい。
演奏にしてもホルン、オーボエ、フルートなどのソロパートはとても輝いているのだが、全体を通してなにか肩肘を張っているようで、時折なんで指揮の井田勝大はジゼルを演じたダリア・クリメントヴァのような柔らかさがないんだろうと思ったりもした。
新国立劇場バレエ団は稽古場にしても財政的にもおそらく他のバレエ団と比較して裕福というか余裕のある環境にある。その分、甘えやハングリーさが薄らいでいないだろうか。そのことが舞台に現れるようではいただけない。ハングリーであれ、守りに入るなかれ。表現者は失敗を恐れず攻めてこそ表現者でなかろうか。