ミーハーのクラシック音楽鑑賞

ライブ感を交えながら独断と偏見で綴るブログ

本家本元のチャイコフスキー・オーケストラ

2014-01-31 22:31:10 | 海外オーケストラ
前日に続き一昨日(29日)もサンントリーホールで開かれたサンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団の公演に行ってきた。指揮はユーリ・テミルカーノフ。

【演目】
カンチェリ/アル・ニエンテ~無へ(日本初演)
  ~休 憩~
チャイコフスキー/交響曲第4番
※エルガー/愛の挨拶
※ストラヴィンスキー/組曲『プルチネッラ』から第7曲ヴィーヴォ
《19時00分開演、21時05分終演》

前日はほぼ満席だった客席もこの日はプログラムに現代音楽が入っているせいか8割程度の入り。2008年に初めてテミルカーノフ&サンクトペテルブルク・フィルをオペラシティで聴いたときは、客席の入りが2~3割ぐらいだったことを考えると雲泥の差である。そのときの招聘元はカジモトであったが今回はジャパンアーツである。会場がサントリーホールに変わったこともあるが、ジャパンアーツの努力には敬服する。しかし・・・。

前日は2階席センターで聴いたが、この日は1階で聴く。1階には招待客らしき人たちも多く、そこらじゅうで立ち止まっては挨拶を繰り広げる。まあ、こうした人たちを招待をするのは主催者もしくはスポンサーにとっては大事なことであるかもしれない。しかし、それならば空席や補助席にはめったに海外オケを聴けるチャンスのない芸術系高校や音楽大学の学生を招待することができないのだろうか。主催者やスポンサーの器量の大きさを発揮してもらいたい。

1曲目。現代音楽である。日本初演とあるが世界初演は2000年ということだから、さほど評判になった音楽ではなかったのだと思う。曲は休符を多用したり、強弱のコントラストを明確にして、人間の深層心理を描いているのだろう。しかし、感銘するというところまでは至らなかった。この曲が日本のオケで取り上げるのは、テミルカーノフが読響を指揮するときぐらいだろうか・・・。

2曲目。チャイコフスキーは数多くのバレエ音楽を書いているように、19世紀ロシアにおいてはある種貴族趣味的音楽の達人であった。だが同時に今日まで広く庶民にも親しまれている音楽を作曲したのだから大衆音楽の達人でもあるはずだ。テミルカーノフはその変節という変貌の過程を教えてくれるかのような指揮で、第1楽章の優美な音色から第4楽章の民族的高揚にいたるまで、チャイコフスキーの思いを昇華させてくれているかのようであった。

6年前にオペラシティで聴いた「悲愴」は忘れることのできない感動的名演だったが、今回も一糸乱れぬ弦の音色と金管の優麗な咆哮で十二分に酔いしれることができた。サンクトペテルブルク・フィルは間違いなく本家本元のチャイコフスキー・オーケストラだと確信した。

意外にも明快闊達なラフマニノフ

2014-01-30 21:45:42 | 海外オーケストラ
一昨日(28日)サンントリーホールで開かれたサンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団公演に行ってきた。指揮はユーリ・テミルカーノフ。ピアノはエリソ・ヴィルサラーゼ*。

【演目】
チャイコフスキー/ピアノ協奏曲第1番変ロ短調*
※ショパン/マズルカ第47番イ短調
  ~休 憩~
ラフマニノフ/交響曲第2番ホ短調
※シューベルト/楽興の時D780
《19時00分開演、21時05分終演》

1曲目。う~ん、ちょっと眠かった。大学の先生がピアノを聴いているようなとても模範的なチャイコン。残念ながらそれ以上の感想をもてなかった。一方でちょっと驚いたのが指揮のテミルカーノフ。指揮台はしっかりピアノの方へ角度を向けていて、ソリストとの連携をしっかりしようとしている。また、彼はもうこの曲をおそらく500回以上は指揮しているだろうに、完全暗譜ではなく譜面台をちゃんと見ながら指揮をしている。譜面にソリストの特徴などでも書き記しているのだろうか。素人の私たちはなぜか完全暗譜の指揮者を偉いというか尊敬してしまう風潮があるが、これは間違いだということに気づかされた思いである。

2曲目。1曲目もそうであったが、オケは木管・打楽器以外は素舞台。弦は対抗配置でコントラバスは第1ヴィオリンとチェロの後方下手側(左側)。一方、金管はホルン、トランペット、トロンボーンのすべてが第2ヴァイオリンとヴィオラの後方上手側(右側)。つまり、この配置は金管とコントラバスおよびチェロの低弦のコントラストを明確にする狙いがある。そのおかげもあってか、2階センターで聴いていた私にはまるでステレオ・サウンドを聴いているかのように金管の旋律と低弦が弾くリズムがクリアに聴こえてきた。しかし、この配置だとサントリーホールのRAやRBに座っている人たちは、手前下で金管がブンジャカやって、後方から低弦がズンズンと聴こえてきて、かなり違和感があったのではないだろうか。

ということで、今回のサンクトペテルブルク・フィルは少し前のステレオ・サウンドを楽しむことができた。しかしながら、演奏そのものはとても満足ができるものではない。ラフ2というと固定観念が強すぎるのかもしれいが、気だるくデカタンスな感じがする音楽だと思うのだが、それがまったくない。なんか聡明かつ健康的なのである。有名な第3楽章のクラリネットにしてもアニュイさはまったくなく、加えて、第1ヴァイオリンの首席と次席はムーディというよりポップに弦の音を出しまくっていた。

また、テミルカーノフというと、私はこれまでに何度も「手刀を切ったような指揮」と書いてきたが、今回のテミルカーノフは「掌を返した」とは言わないが、妙に掌をうまく使った優しい指揮をしていた。サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場で初演された、元祖ともいうべきラフ2は意外にも明快闊達な演奏だった。

ルイージ&N響 第1774回定期演奏会(後編)

2014-01-27 10:15:20 | N響
2曲目。弦は16型(チェロ首席の後には首席夫人である首席が w)、管は倍管、打楽器は多数にピアノ2台とチェレスタ1台。合唱団は東京混成合唱団+東京藝術大学合唱団の大人約100人に加えて、30人ほどの東京少年少女合唱隊がオケの後に並ぶ。ソリスト3人は指揮台横。

『カルミナ・ブラーナ』の冒頭と終曲の派手な旋律はいろいろなBGMや入場曲などで使われることが多いのでご存知の方が多いと思うが、実演を久しぶりに聴くと1910年代にストラヴィンスキーが作った『火の鳥』『ペトルーシュカ』『春の祭典』の3部作にかなり刺激されているように思う。

ルイージは前半同様ダイナミックかつ情熱的な指揮をしていく。そして、今回はそれに科学的というか計算された理性を加えたようで、大編成オケのベクトルを芸術性という方向に集約していく。ルイージという指揮者は先日のブルックナーの第9番のときにも少し思ったが、音楽をリズミカルかつドラマチックに表現していく。ましてや、今回のような劇的音楽を指揮したら、さすがにメトロポリタン歌劇場首席指揮者だけのことはあり敵なしなのかもしれない。この実力と美学を目前にすると、いつかN響でオペラの演奏会形式を披露してもらいたい。

歌手ではやはり容姿端麗のモイツァ・エルトマンに魅入ってしまったが、それと共にバリトンのマルクヴァルトにも聴き入ってしまった。この人、相当の実力の持ち主ではないだろうか。それにしても、ルイージが連れてきたソリストたちは魅力的な人が多く、申し訳ないがサンティ組よりも実力も人気も上であろう。

後半の合唱団は芸大の学生が多く加わったせいもあるが、かなり若々しい歌声となるものの、表現力は前半と変わらい力量を魅せてくれる。前半の合唱のときにも思ったが生身の人間の歌声はどんな楽器よりも強く、そしてどんな楽器より表現力があるということを久しぶりに知らしめてくれた。

終演後、合唱団の一員が舞台を去るまでおそらく500人近くの観客が拍手を鳴り止めなかった。そして、N響定期にしては珍しくルイージを引っぱりだす“一般参賀”となった。しかし、この“一般参賀”は単にルイージに対するものではなく、演奏会に関わったN響、エキストラの奏者、合唱団、少年少女合唱団らに対する敬意ではなかったのはなかろうか。少なくとも私はそういう思いで拍手を続けた。

どんな芸術でもそうだが、芸術は演者が作るものであると同時に、観客が育てるものである。この日の演奏会はそれを地で行くものであった。N響のメンバーは場慣れしているので感銘を受けたかどうかは解らないが、あの拍手を受けた合唱団や少年少女隊は「合唱をやっていて良かった」「これからも合唱を続けよう」と思ったに違いない。いや、そう思ってもらいたい。そういう意味においては500人近くの観客はブラボー!である。

ルイージ&N響 第1774回定期演奏会(前編)

2014-01-26 21:15:02 | N響
昨日(25日)NHKホールで開かれたNHK交響楽団第1774回定期公演を聴きに行ってきた。指揮はファビオ・ルイージ。

【演目】
オルフ/カトゥリ・カルミナ
  ~休 憩~
オルフ/カルミナ・ブラーナ
《18時00分開演、20時05分終演》

ソプラノ:モイツァ・エルトマン(1・2曲目)
テノール:ヘルベルト・リッパートル(1曲目)
テノールティモシー・オリヴァー(2曲目)
バリトン:マルクス・マルクヴァルト(2曲目)

合唱:東京混声合唱団(1・2曲目)
合唱:東京藝術大学合唱団(2曲目)
児童合唱:東京少年少女合唱隊(2曲目)
ピアノ:梅田朋子、楠本由紀、成田良子、野間春美(1曲目)

私はクラウディオ・アバドの全盛時代をまったく知らない。というより、彼が指揮した演奏会は1回しか行ったことがない。しかし、リッカルド・ムーティが若き情熱を手向けていたフィラデルフィア管弦楽団時代の演奏は何度も聴いた。そして、今、もっとも脂ののったイタリア人指揮者であるファビオ・ルイージの演奏は何度も聴いている。

この日の演奏会を聴いていて、思ったというか肌に感じたのは“歴史的名演”とかではなく「ああ、もしかすると時代のなかにいるかも」という感慨だった。クラシック音楽という芸術のなかで、その寵児ともいうべき指揮者の一人を目の当たりにしていると感じたのである。それも海外ではなく日本でである。

第1曲目。舞台には蓋を開かれた4台のピアノが指揮台に向けて扇形に並べられる。その後方にティンパニーをはじめとして数多くの打楽器が並ぶ。弦楽器、木管・金管楽器はまったくいない。どことなく先日新国立劇場で観たバレエのストラヴィンスキー『結婚』の編成に似ている。そして、ソリストの2人は指揮台の横、合唱団は打楽器人の後方に並ぶ配置となる。

ちなみに、この曲が演奏されることは非常に珍しく、聴く方も初めての人がほとんどだが、奏者の人たちもほとんどが初めてだろう。それゆえに、4人のピアニストに加えて9人の打楽器奏者たちも緊張感のある面持ちで入場。そして、ソプラノのモイツァ・エルトマンと、テノールのヘルベルト・リッパートルがルイージと共に登場。エルトマンは噂に違わぬ美人で、ボディにフィットした純白のタイトドレスが眩しい。w

曲は4幕形式なのだが、4台のピアノを中心としたオケは序幕と第3幕のフィナーレを演奏するだけで、第1幕から第3幕はソリストと合唱団はアカペラで歌う。交響曲というより合唱曲か合唱舞台劇といっても言言いかもしれない。その内容は性愛の悦びを表したもの(否定する部分もでてくるが)である。このような曲をよく第2次世界大戦真っただ中1943年のナチスドイツ下で初演できたものである。日本の軍政化では絶対に無理だ。

小編成のオケとはいえ、ルイージはいつものようにダイナミックかつ情熱的な指揮をしていく。ただ、その情熱は的確冷静にして決して興奮したものではない。それにオケも合唱団も見事に応えていく。その集中力が冒頭の肉欲的かつ性交的な歌詞などに関係なく、和音となり合唱となり一体化して観客に伝えられていく。この曲ではエルトマンの歌はさほどないが、常にアカペラで歌うテノールのリッパートルは難しかったにちがいないが、それを見事に歌いきった。そして、何よりも東京混成合唱団の歌声とストーリーに対する表現力が素晴らしかった。

それにしても、この曲は性的なことがテーマであり少し問題があるためか、なかなか演奏されないのかもしれない。しかし、曲全体の構成としてかなり面白く、また合唱舞台劇としてもメチャクチャに面白い。こうした曲を演目に選んだルイージに敬意を払うと共に、この曲が今後も広く演奏されることを願ってやまない。

(明日の後編に続く)

西本智実と日本フィルはオケピに入ろう

2014-01-20 09:45:31 | 日本フィル
一昨日(18日)、サントリーホールで開かれた日本フィルハーモニー交響楽団のMusic Partner Series Vol.2(第359回名曲シリーズ)を聴きに行ってきた。指揮は西本智実。アート・ディレクターは田村吾郎。

【演目】
チャイコフスキー/バレエ音楽《白鳥の湖》(MPS版)
《14時00分開演、16時05分終演》(途中休憩1回)

チャイコフスキーのバレエ音楽にプロジェクション・マッピングでホール壁面に投影するという試みの演奏会の第2弾である。クラシック音楽の演奏会が斬新な試みをするという決して嫌いではない。しかし、前回の『くるみ割り人形』はとてもじゃないが褒められたものでなかっただけに今回に期待したが、結果はとてもじゃないどころか、失望の一言であった。ただし、この失望は映像だけに対してであり、演奏は非常に素晴らしかった。

前回同様、オケの譜面台にはライトが点けられ、オケは仄かな地明かりで照らされるだけ。前回あった天井から指揮台に向けられたスポットライトはなし。そして、客席は客電(客席のライト)および非常灯が消され薄暗い。そうしたなかで、今回もサントリホールの壁面いっぱいにプロジェクターによる映像が描かれていく。

映像は前回同様にピカソが描いたドンキホーテのようなタッチの水彩画で、前回ほどカラフルさはなくモノトーンというか1色主体。第1幕は緑の田園風景、第2幕は赤茶けたような大地、第3幕は茶色い中世の都市、そして第4幕は宮殿?と、いったコンセプトのなかで映像が繰り広げられているように思えた。ただし正直「どこが『白鳥の湖』なの?なにが『白鳥の湖』なの?」と聞きたくなるような抽象的な展開で、前回の『くるみ割り人形』の方がまだ解りやすかった。

さて、演奏の方だが、西本智実というと可哀想なことにすぐに「宝塚的」とか「男装の麗人」と色眼鏡で語られてしまい、私も何度か彼女の指揮を目にしてきているがさほど関心させらたことはなかった。しかし、この日の彼女は『白鳥の湖」の悲哀さ可憐さなどを見事に浮き彫りにさせ、オケへの指示も非常に滑らかにして的確でブラバー。特に後半の第3幕・第4幕のドラマチック性は見事で、映像などそっちのけで思わず身を乗り出しそうになった。こうなると、映像などよりもこのままオケピに入って、新国立劇場バレエ団か東京バレエ団の指揮してほしいと思うぐらいで、次回の『眠れる森の美女』では映像だけでなく、生身のダンサーも登場してほしいものである。

ルイージ&N響の学究的なブル9

2014-01-17 23:00:51 | N響
一昨日(15日)サントリーホールで開かれたNHK交響楽団第1773回定期公演を聴きに行ってきた。指揮はファビオ・ルイージ。ピアノはルドルフ・ブッフビンダー。

【演目】(※はアンコール曲)
モーツァルト/ピアノ協奏曲第20番二短調K.466
※シューベルト/アンンプロムプチュop.90-2
  ~休 憩~
ブルックナー/交響曲第9番ニ短調(ノヴァーク版)
《19時00分開演、21時00分終演》

ルイージにブッフビンダーという組み合わせなのでかなり期待して会場を訪れたが、やはりモーツァルトにはかなわなかった・・・。(笑)しかし、2曲目のブルックナーはいい意味での裏切りを体感した思いだった。

1曲目。数多くあるモーツァルトの協奏曲のなかでも少ない短調。ブッフビンダーでもあるから、これはちょっと聴き応えがあるかなと思ったが、やはりモーツァルトである。結局、この曲にも音符のなかには睡眠薬が入っているようで、開演前に飲んだスタバのコーヒーの効果もなく、聴いていくうちに眠くなってしまう。私にはどうやら永遠にモーツァルトを語る資格はないようである。

2曲目。ブル9はあまり得意な曲ではない。最終楽章がないことで未完成な感じがして、結論を知りたいという欲求がある私にとっては、シューベルトの『未完成』同様に欲求不満の音楽である。加えて、2年前のベルリン・フィルの「あっという間の演奏」を聴いて、ブル9に対する興味が希薄になってしまった。しかし、この日のルイージとN響は、私にブル9の魅力を再認識しろと言わんばかりの熱演だった。

第1楽章は中世に作られた大聖堂のなかで宇宙とは音楽とは問われるような思い。続く第2楽章は広大な大地で地球はいかにして成長していったかを問われるような思い。そして、第3楽章はのどかな田園で人間と自然の関係というか環境とはいったいどういうものなのかを考えさせられる思い。つまり、この曲は「天地創造」であり「人類の歩み」を問うことをブルックナーは意図していたのではないだろうかと考えさせられた。こうなると、第4楽章がどういものだったのかを聴いてみたかった。

このように、今回の演奏はいわゆるブルヲタが賞賛するような神々しいとか荘厳といった感じの音楽ではなく、ブルックナーが求めていた宇宙観や世界観はなんであるかを探求する音楽だった。それはルイージがオペラに明るいから為せる技だったのかもしれない。ルイージ、侮るべからず。

当たりハズレの大きいカンブルラン&読響

2014-01-16 10:59:00 | 読響
一昨日(14日)サンントリーホールで開かれた読売日本交響楽団第533回定期演奏会に行ってきた。指揮はシルヴァン・カンブルラン。ヴィオラは鈴木康浩(読響ソロ・ヴィオラ奏者)*。

【演目】
ガブリエリ/カンツォーナ(「サクラ・シンフォニア集」から/カンブルラン編)
ベリオ/フォルマツィオーニ
  ~休 憩~
ベルリオーズ/交響曲「イタリアのハロルド」*
《19時00分開演、21時00分終演》

以前も書いたがカンブルランは当たりハズレの大きい指揮者である。この日も前半は???だったが、後半は大当たりでホッという感じだった。それにしても、この日のサントリーホールの客席は悲惨だった。P席は70席以上が空席。つまり3分の2しか埋まっていない。右サイド(RA・RB)にいたっては半分以上が空席。1階席も後部座席は空席だらけで、おそらく全体でもは5~6割の入りだっただろう。

いくらプログラムがあまり知られていない曲とはいえ、クラシック音楽は知っている曲だけでなく、知らない曲を知ろうとしないと面白みがない。そんな絶好の機会なのに空席だらけとは。読響ファンの体制的というか保守的な姿勢にちょっと唖然とさせられた。それだからではないだろうが、読響の来季プログラムの凡庸なこと・・・。

1曲目。木管と金管はほぼ通常配置だが、弦は2-2-2-2-1と小ぶり。音楽は17世紀のヴェネツィアの大聖堂に響いたというものだから完全にバロック調。というわけで、小編成ながらも教会で演奏しているかのような感じをうけるものの、残念ながらその音色は右から左の耳に抜けるだけであった。

2曲目。説明をすると長くなりそうなので省略するが、弦と木管・金管が入り乱れた複雑怪奇な配置。音楽も現代音楽で複雑怪奇なのだが、これがオケの配置とうまくシンクロしているかというと、とてもじゃないがそうは思えない。結局のところ、配置も音楽も斬新さを狙ったものの空回りした曲でしかなかった。

3曲目。ヴィオラ独奏(鈴木康浩)が入るという一風変わった交響曲。ということで、配置は協奏曲スタイル。ということで、音楽も交響曲というもののあまり交響曲らしくない。第1楽章は鈴木康浩のヴィオラの独奏が随所に入るものの『幻想交響曲』のダイジェスト版といった感じで、終盤部分のフレーズはもう瓜二つ。思わず苦笑してしまった。ところが、第2楽章「巡礼の歌」にはいると、いくら緩徐楽章とはいえ全体のバランスを考えると全く別の曲。また第3楽章「セレナーデ」にしても弦楽主体という感じのセレナーデではなくスケルツォのような感じで、これまたあとで全体のバランスを考えてみると異様な楽章。そして、最後の第4楽章は第1楽章の『幻想』に『ベト7』が加わったような目まぐるしい展開。ただし、最後の部分で弦楽バンダ(ヴァイオリン・ヴィオラ?・チェロの3人)がP席後方に登場して、ヴィオラ独奏の鈴木はP席最前列に現れて、終曲部分を奏でてしっかりと締める。

というわけで、今回のカンブルランの意図もしくはテーマは「オケの配置」だったのだろうが、個人的に満足できたのは後半の1曲だけだった。鈴木は第1楽章ではいつもの柔やかなスマイルはなく、かなり緊張していたが、第2楽章以降はのびのびしていて、ヴィオラという楽器の魅力を十二分に伝えていたと思う。それゆえに、空席だらけの客席は可哀想でならなかった。

聴き始めはN響定期

2014-01-12 23:28:40 | N響
一昨日(10日)NHKホールで開かれたNHK交響楽団第1772回定期公演を聴きに行ってきた。指揮はアレクサンドル・ヴェデルニコフ。ヴァイオリンはジェニファー・コー 。

【演目】
グラズノフ/演奏会用ワルツ 第1番
チャイコフスキー/ヴァイオリン協奏曲ニ長調
  ~休 憩~
チャイコフスキー/バレエ音楽「眠りの森の美女」(抜粋)
《19時00分開演、20時50分終演》

1曲目。とてもゆったりとしたワルツ。ヨハン・シュトラウスの曲と言われても、信じてしまいそうな優雅にして華麗な曲である。こういう曲を聴いているとニューイヤーコンサートではないが、舞台上でも舞台下でも構わないから、2~3組のダンサーを入れてほしいと思ってしまう。w

2曲目。ジェニファー・コーの演奏は強靭にしてかなり独自色が強いのかそれとも変則的な演奏。一方で、指揮者はオケに対してやたらスタッカートを要求しているようで、あまり噛み合った演奏とはいえなかった。ソリストと指揮者の相性はよくなかったようである。

3曲目。アレクサンドル・ヴェデルニコフは2001年から2009年までボリショイ劇場の音楽監督兼首席指揮者を務めていたので、バレエ音楽はこの曲は十八番であろう。ということで、バレエ音楽としては珍しく指揮台の前に譜面台はなく、ヴェデルニコフは完全暗譜。

コンサートで「眠れる森の美女」を聴くのは初めてかも。ただし、この4月に日本フィルでノーカット版を聴く予定にはなっているが。さて「眠れる」は全編を演奏すると2時間以上かかるが、今回は抜粋して「序奏」「行進曲」に始まり、途中に「ワルツ」を入れたりして、第3幕の終曲で終わるという構成になっている。そして、演奏はN響の弦の味わいのあるシルキーな音色や、金管(トランペットが良かった)の突き抜けるような澄みきった音色など、N響ならでは深遠な音を聴かせてくれた。ただ、こうした音色を聴いていると、1曲目でも思ったように何処かでダンサーを登場させてくれよと言いたくなってしまう。新春なのだからN響もそれぐらい粋な計らいをしてもらいたい。