昨日(24日)サントリーホールで開かれた東京都交響楽団の第683回定期演奏会へ行ってきた。指揮は小泉和裕。ホルンは首席奏者の西條貴人。平日夜公演にもかかわらず客席はほぼ満席。演目は地味なのに都響の観客動員力は凄い(?)。
演目
ストラヴィンスキー/交響的幻想曲「花火」
R.シュトラウス/ホルン協奏曲第2番変ホ長調
~休 憩~
チャイコフスキー/交響曲第3番ニ長調「ポーランド」
《19時00分開演、20時50分終演》
1曲目。全く初めて聴く曲。確かに花火を連想させてくれる曲だが、それは「たまや~」「かぎや~」といったダイナミックで優雅な「打ち上げ花火」といった感じでなく、かといっていって「線香花火」のような繊細で華麗な花火ではない。しいていえば「ドラゴン花火」のようで、金管と打楽器がキンキン・ガンガン演奏しているような曲だった。
2曲目。ホルン協奏曲を演奏することは珍しい。下世話な話で申し訳ないが、これにはどうも家庭(オーケストラ)の事情があるのではないかと邪推してしまう。というのも、現在、読響が首席ホルン奏者を2名募集している。また、N響も来年には首席奏者の募集をすると思われる。そのために、在京オケでは若手の有能なホルン奏者の引き抜き(移籍)を阻止するために、ホルン協奏曲を演奏しているように思える。今回の都響の西條貴人に続いて、9月には日本フィルも首席奏者の福川伸陽によるホルン協奏曲を演奏する。
これまで西條の音色は都響でもN響(エキストラで何度も出演している)で聴いている。そして、私は彼の吹く音色を高く買っている。しかし、この日の西條は出だしから音が震えるている。やはり相当緊張しているようだ。曲そのものも難曲のようだが、素人の私ですら明らかにミスだろうなと思う箇所がいくつかあった。しかしながら、朗々とした旋律のときは、こだまする音色は魅惑的であり、彼の端正なマスク同様に上品で美しかった。終演後、都響のメンバーがみんな笑顔で西條の演奏を賛えていたが、日本には素晴らしいホルン奏者は数少ないので、都響もメンバー、そして観客も躍起か必至である。
3曲目。チャイコフスキーの交響曲というと第4番・第5番・第6番「悲愴」が有名で、この第3番が演奏される機会は少ない。というのも、この曲は5楽章形式で妙に長く、飽きる箇所が多いからだろう。私もCDで聴いたりすると、あの憂鬱な第3楽章がなければ、どれだけ楽に聴けるのになぁ、などと思ったりする。
第1楽章は「序奏とアレグロ」。いかにもチャイコフスキーという旋律が数多く登場してきて、終曲部分には弦と管の軽快にして爽快感に満ちたオーケストレーションが入る。どことなく交響曲第4番や第5番を思わせるような楽章でもあり、その後への期待感を抱かせる楽章である。それを小泉和裕はカラヤン・スタイルともいうか、足が指揮台に張り付いて、両肘を少しまげて音を下からすくい上げるような指揮していく。
第2楽章は「アラ・テデスカ」(ドイツ風に)。第1楽章から一転してワルツ形式になる。森林をさまよっている動物が踊っているようで、バレエ音楽という感じである。ストリングスはゆったりと流れる旋律を身を任せながらように奏でていく。コンマス(矢部達哉)の動きもしなやかでスムーズだ。
第3楽章は「アンダンテ・エレジアコ」。私にとってもっとも鬱屈した感じの楽章である。ところが、都響の木管・金管陣はそれを逆手に楽しむかのように演奏する。フルート(柳原佑介)に続く、ファゴット(堂阪清高)やホルン(有馬純晴)のソロもしっとりしていて気持ちいい。なんか冷たい畳の上に仰向けに寝ているような心地良さである。それに続くストリングスも柔らかくて美しい。
第4楽章は「スケルツォ」。この楽章も実はかなり鬱屈している。スキップするような旋律でありながら、暗く沈痛した音色にしか聴こえない。憂鬱な第3楽章よりもこちらの楽章の方が無くてもいいのかなぁ、と思ってしまった。
第5楽章「フィナーレ」。ポロネーズのリズムから始まるが、最後はフーガのように勢いよく終わる。ただ、この楽章になると小泉もオケも少し疲れが出てきたのか音のバランスが少しチグハグになる。最後の最後のフーガではティンパニー(久一忠之?)が頑張っていた。
最後に小泉和裕はこの“隠れた名曲”をうまくまとめあげたと思う。ただ、私にはこの曲が残念ながら名曲とは思えない。楽章間の連係がほとんど感じられない。交響曲としての繋がりとか流れを感じないので全体のイメージが把握できない。これならば、非常に似たような曲であるが、カリンニコフの交響曲第1番の方が間違いなく“隠れた名曲”だと思う。カリンニコフの交響曲第1番、どこか演奏してくれないかなぁ。
演目
ストラヴィンスキー/交響的幻想曲「花火」
R.シュトラウス/ホルン協奏曲第2番変ホ長調
~休 憩~
チャイコフスキー/交響曲第3番ニ長調「ポーランド」
《19時00分開演、20時50分終演》
1曲目。全く初めて聴く曲。確かに花火を連想させてくれる曲だが、それは「たまや~」「かぎや~」といったダイナミックで優雅な「打ち上げ花火」といった感じでなく、かといっていって「線香花火」のような繊細で華麗な花火ではない。しいていえば「ドラゴン花火」のようで、金管と打楽器がキンキン・ガンガン演奏しているような曲だった。
2曲目。ホルン協奏曲を演奏することは珍しい。下世話な話で申し訳ないが、これにはどうも家庭(オーケストラ)の事情があるのではないかと邪推してしまう。というのも、現在、読響が首席ホルン奏者を2名募集している。また、N響も来年には首席奏者の募集をすると思われる。そのために、在京オケでは若手の有能なホルン奏者の引き抜き(移籍)を阻止するために、ホルン協奏曲を演奏しているように思える。今回の都響の西條貴人に続いて、9月には日本フィルも首席奏者の福川伸陽によるホルン協奏曲を演奏する。
これまで西條の音色は都響でもN響(エキストラで何度も出演している)で聴いている。そして、私は彼の吹く音色を高く買っている。しかし、この日の西條は出だしから音が震えるている。やはり相当緊張しているようだ。曲そのものも難曲のようだが、素人の私ですら明らかにミスだろうなと思う箇所がいくつかあった。しかしながら、朗々とした旋律のときは、こだまする音色は魅惑的であり、彼の端正なマスク同様に上品で美しかった。終演後、都響のメンバーがみんな笑顔で西條の演奏を賛えていたが、日本には素晴らしいホルン奏者は数少ないので、都響もメンバー、そして観客も躍起か必至である。
3曲目。チャイコフスキーの交響曲というと第4番・第5番・第6番「悲愴」が有名で、この第3番が演奏される機会は少ない。というのも、この曲は5楽章形式で妙に長く、飽きる箇所が多いからだろう。私もCDで聴いたりすると、あの憂鬱な第3楽章がなければ、どれだけ楽に聴けるのになぁ、などと思ったりする。
第1楽章は「序奏とアレグロ」。いかにもチャイコフスキーという旋律が数多く登場してきて、終曲部分には弦と管の軽快にして爽快感に満ちたオーケストレーションが入る。どことなく交響曲第4番や第5番を思わせるような楽章でもあり、その後への期待感を抱かせる楽章である。それを小泉和裕はカラヤン・スタイルともいうか、足が指揮台に張り付いて、両肘を少しまげて音を下からすくい上げるような指揮していく。
第2楽章は「アラ・テデスカ」(ドイツ風に)。第1楽章から一転してワルツ形式になる。森林をさまよっている動物が踊っているようで、バレエ音楽という感じである。ストリングスはゆったりと流れる旋律を身を任せながらように奏でていく。コンマス(矢部達哉)の動きもしなやかでスムーズだ。
第3楽章は「アンダンテ・エレジアコ」。私にとってもっとも鬱屈した感じの楽章である。ところが、都響の木管・金管陣はそれを逆手に楽しむかのように演奏する。フルート(柳原佑介)に続く、ファゴット(堂阪清高)やホルン(有馬純晴)のソロもしっとりしていて気持ちいい。なんか冷たい畳の上に仰向けに寝ているような心地良さである。それに続くストリングスも柔らかくて美しい。
第4楽章は「スケルツォ」。この楽章も実はかなり鬱屈している。スキップするような旋律でありながら、暗く沈痛した音色にしか聴こえない。憂鬱な第3楽章よりもこちらの楽章の方が無くてもいいのかなぁ、と思ってしまった。
第5楽章「フィナーレ」。ポロネーズのリズムから始まるが、最後はフーガのように勢いよく終わる。ただ、この楽章になると小泉もオケも少し疲れが出てきたのか音のバランスが少しチグハグになる。最後の最後のフーガではティンパニー(久一忠之?)が頑張っていた。
最後に小泉和裕はこの“隠れた名曲”をうまくまとめあげたと思う。ただ、私にはこの曲が残念ながら名曲とは思えない。楽章間の連係がほとんど感じられない。交響曲としての繋がりとか流れを感じないので全体のイメージが把握できない。これならば、非常に似たような曲であるが、カリンニコフの交響曲第1番の方が間違いなく“隠れた名曲”だと思う。カリンニコフの交響曲第1番、どこか演奏してくれないかなぁ。