昨日(28日)NHKホールで開かれたNHK交響楽団第1789回定期公演を聴きに行ってきた。指揮はヘルベルト・ブロムシュテット。チケットは完売。
【演目】
モーツァルト/交響曲第41番ト短調「ジュピター」
~休 憩~
チャイコフスキー/交響曲第6番ホ短調「悲愴」
《15時00分開演、16時55分終演》
あまりにも有名な2曲のプログラム。一般的にはさほど期待感をもたれない演奏会のはずだが、開演前のロビーにはちょっと異様なムードが漂う。ブロムシュテットがどんな「ジュピター」をやるのか、どんな「悲愴」の最終楽章を聴かせてくれるのだろうか、と音楽ファンたちがワクワクしている気合いがビシビシと伝わってくる。N響定期の開演前にこれほど緊張感が漲っているのを感じたのは初めてである。
1曲目。先日の交響曲第40番はドイツのオケ的な音色で正直感心しなかったが、この日のN響は本来もっている銀白色に輝くシルキーな音色が響きわたる。ブロムシュテットの指示は前回以上に細かく、とても87歳とは思えないセンセティブさ。そして、それを的確に応えていくN響の弦奏者たちは世界でも屈指のレベルといっても過言ではない。あのナイーブにして豊かな響きを出せるオケはそうめったにないと思う。それを考えると、日本人の器用さと繊細さは弦を奏でるのに本当に適していると思わざるをえない。そして、こうした器用さと繊細さに感性がフィットしたときは、鳥肌が立つような音色が奏でられる。これまで「ジュピター」を聴いたときは、そのほとんどが瞼か重い状態に入ってしまったが、この日は初秋の心地よい気候にもかかわらず、時たま妄想にふけることはあるものの、モーツァルトの明快かつ天上的音楽を堪能することができた。ひょっとしてモーツァルト開眼。(笑)
2曲目。
第1楽章。前回と同じようにモーツァルトの優美さを引きづるかのように、ゆったりかつのびのびした弦のボーイングが明晰な音色を奏でていく。ロシア風の重厚さや威厳さは感じられない。しかし、ブロムシュテットは木管を奮い立たせるかのような指示を繰り返し、それに応えて終楽章部分でのクラリネット(松本健司)からファゴット(宇賀神広宣)への旋律移動は白眉な出来。この楽章の終了時点で、今回の演奏は凄いに違いないと確信する。
第2楽章。弦主体のロンド。普通のオケではここは弦が踊るかのような演奏をするが、この日のN響の弦は至極冷静沈着。ただし、その音色は「ジュピター」のときのように、しなやかなにして艶やかなシルクの音色。それでいてどことなく虚脱感と哀愁感も漂う。ここではブロムシュテットは第1楽章ほどの大きな指示はすることなくかったが、オケをしっかり信頼しているかのように温かい目で見守っている感じであった。
第3楽章。木管がスキップするような音色で始まる有名なスケルツォの楽章。ブロムシュテットは全身を使って、さまざまな指示を繰り出していく。それに対して弦も木管も快活かつ上品な音色で応える。そして、トランペット、トロンボーン、チューバも連動的に呼応していく。そしてシンバル(竹島悟史)と大太鼓(石川達也)の絶妙な音だしから、快活にしてリズミカルなコーダを情熱的に盛り上げていった。
第4楽章。アダージョ。絶望的な悲愴感というよりは喪失的な悲しみを表すように葬送的な旋律が流れていく。会場は緊張感からか誰もが息を飲み込んでいる。そんななか、終曲部分のヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスが最後の鼓動を刻み、穏やかにして音色がフェイドアウトしていく。ブロムシュテットは長い静寂な時間を演出する。指揮者とオケの一体感、そして観客とも一体化した素晴らしい演奏であった。
終演後の会場では拍手は鳴り止まず、最後はブロムシュテットを呼び戻すソロカーテンコール(一般参賀)になった。N響定期での一般参賀はファビオ・ルイージが1月に「カルミナ・ブラーナ」を演奏したとき以来ではないだろうか。
私は老害は大嫌いだが、老練、老巧は決して嫌いではない。ブロムシュテットは87歳だが、その振る舞いはとても80代後半とは思えない矍鑠たる姿で、若々しく驚愕と述べるほかない。客席には80代90代の観客が何人もいるだろうが、彼ほどアグレッシブかつエネルギッシュな人はいるだろうか。
最後に、この演奏会の弦参加者にはN響アカデミーに所属しているか、フリーの若い奏者の姿が何人か見受けられた。おそらく彼・彼女らにとって、この公演は一生の誇りであり宝になると思う。20代の若さが肌で感じとった80代の老練、老巧さを、今後の自信と成長の糧にしてもらいたい。
なお、今回のブロムシュテット&N響の「モーツァルト&チャイコフスキー・ツィクルス」は10月5日、12日、19日と3週続けてEテレの「クラシック音楽館」で放送予定。
【演目】
モーツァルト/交響曲第41番ト短調「ジュピター」
~休 憩~
チャイコフスキー/交響曲第6番ホ短調「悲愴」
《15時00分開演、16時55分終演》
あまりにも有名な2曲のプログラム。一般的にはさほど期待感をもたれない演奏会のはずだが、開演前のロビーにはちょっと異様なムードが漂う。ブロムシュテットがどんな「ジュピター」をやるのか、どんな「悲愴」の最終楽章を聴かせてくれるのだろうか、と音楽ファンたちがワクワクしている気合いがビシビシと伝わってくる。N響定期の開演前にこれほど緊張感が漲っているのを感じたのは初めてである。
1曲目。先日の交響曲第40番はドイツのオケ的な音色で正直感心しなかったが、この日のN響は本来もっている銀白色に輝くシルキーな音色が響きわたる。ブロムシュテットの指示は前回以上に細かく、とても87歳とは思えないセンセティブさ。そして、それを的確に応えていくN響の弦奏者たちは世界でも屈指のレベルといっても過言ではない。あのナイーブにして豊かな響きを出せるオケはそうめったにないと思う。それを考えると、日本人の器用さと繊細さは弦を奏でるのに本当に適していると思わざるをえない。そして、こうした器用さと繊細さに感性がフィットしたときは、鳥肌が立つような音色が奏でられる。これまで「ジュピター」を聴いたときは、そのほとんどが瞼か重い状態に入ってしまったが、この日は初秋の心地よい気候にもかかわらず、時たま妄想にふけることはあるものの、モーツァルトの明快かつ天上的音楽を堪能することができた。ひょっとしてモーツァルト開眼。(笑)
2曲目。
第1楽章。前回と同じようにモーツァルトの優美さを引きづるかのように、ゆったりかつのびのびした弦のボーイングが明晰な音色を奏でていく。ロシア風の重厚さや威厳さは感じられない。しかし、ブロムシュテットは木管を奮い立たせるかのような指示を繰り返し、それに応えて終楽章部分でのクラリネット(松本健司)からファゴット(宇賀神広宣)への旋律移動は白眉な出来。この楽章の終了時点で、今回の演奏は凄いに違いないと確信する。
第2楽章。弦主体のロンド。普通のオケではここは弦が踊るかのような演奏をするが、この日のN響の弦は至極冷静沈着。ただし、その音色は「ジュピター」のときのように、しなやかなにして艶やかなシルクの音色。それでいてどことなく虚脱感と哀愁感も漂う。ここではブロムシュテットは第1楽章ほどの大きな指示はすることなくかったが、オケをしっかり信頼しているかのように温かい目で見守っている感じであった。
第3楽章。木管がスキップするような音色で始まる有名なスケルツォの楽章。ブロムシュテットは全身を使って、さまざまな指示を繰り出していく。それに対して弦も木管も快活かつ上品な音色で応える。そして、トランペット、トロンボーン、チューバも連動的に呼応していく。そしてシンバル(竹島悟史)と大太鼓(石川達也)の絶妙な音だしから、快活にしてリズミカルなコーダを情熱的に盛り上げていった。
第4楽章。アダージョ。絶望的な悲愴感というよりは喪失的な悲しみを表すように葬送的な旋律が流れていく。会場は緊張感からか誰もが息を飲み込んでいる。そんななか、終曲部分のヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスが最後の鼓動を刻み、穏やかにして音色がフェイドアウトしていく。ブロムシュテットは長い静寂な時間を演出する。指揮者とオケの一体感、そして観客とも一体化した素晴らしい演奏であった。
終演後の会場では拍手は鳴り止まず、最後はブロムシュテットを呼び戻すソロカーテンコール(一般参賀)になった。N響定期での一般参賀はファビオ・ルイージが1月に「カルミナ・ブラーナ」を演奏したとき以来ではないだろうか。
私は老害は大嫌いだが、老練、老巧は決して嫌いではない。ブロムシュテットは87歳だが、その振る舞いはとても80代後半とは思えない矍鑠たる姿で、若々しく驚愕と述べるほかない。客席には80代90代の観客が何人もいるだろうが、彼ほどアグレッシブかつエネルギッシュな人はいるだろうか。
最後に、この演奏会の弦参加者にはN響アカデミーに所属しているか、フリーの若い奏者の姿が何人か見受けられた。おそらく彼・彼女らにとって、この公演は一生の誇りであり宝になると思う。20代の若さが肌で感じとった80代の老練、老巧さを、今後の自信と成長の糧にしてもらいたい。
なお、今回のブロムシュテット&N響の「モーツァルト&チャイコフスキー・ツィクルス」は10月5日、12日、19日と3週続けてEテレの「クラシック音楽館」で放送予定。