ミーハーのクラシック音楽鑑賞

ライブ感を交えながら独断と偏見で綴るブログ

ヘルムヒェンの「皇帝」は「主権在民」?

2011-04-29 11:19:22 | N響
一昨日(4月27日)サントリーホールでのNHK交響楽団第1699回定期公演を聴いてきた。指揮はロジャー・ノリントン。ピアノはマルティン・ヘルムヒェン。

【演目】
ベートーヴェン/バレエ音楽「プロメテウスの創造物」序曲
ベートーヴェン/交響曲第2番ニ長調
~休 憩~
ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第5番変ホ長調「皇帝」
《19時00分開演、20時45分終演》

2ヶ月ぶりのN響である。ただし、私の不得手なノリントンである。

1曲目。舞台に登場したノリントンのお腹は♪だるまさんが転んだ♪状態。日本に来て美味しいものを食べ過ぎてこんなになってしまったのだろうか。ただし、ベートーヴェンが残したバレエ音楽の序曲を可もなく不可もなく自然体で指揮をする。

2曲目。ベートーヴェンの交響曲のなかでもっとも演奏される機会の少ない第2番。理由はなぜだろうかと真剣になって聴いたが、う~ん、眠くなる。私にはまるでモーツァルトのような睡眠導入音楽にしか聴こえない。楽聖ベートーヴェンには申し訳ないが、ミーハーな私には残念ながらあまり受け入れられる曲ではなかった。

休憩を挟んで後半がピアノ協奏曲。このプログラミングはなかなかオツかなぁなどと思っていたが、それ以上のものだった。

マルティン・ヘルムヒェンは1982年ベルリン生まれ。N響には今回が3回目の登場だが、前2回はとも聴き逃している。

第1楽章。軽やかである。しかし、華やかにしてきらびやかである。冷静沈着な「皇帝」である。それでいて背筋にゾクゾクとした衝撃も走る。長くのびた指先が鍵盤の上を流れていく。その指は決して気負うこともなく、滑らかに鍵盤を叩いていく。というよりも、置かれていく。この人のピアノの弾き方は理想的というか、クセがなくて良い。姿勢はいつも正しく、ピアノに妙に覆い被さったりするようなことはない。常に貴公子然としてピアノと向き合って正々堂々としている。

第1楽章が終わったあと、観客席のあちらこちらから緊張感がほぐれたようなため息が聞こえ、舞台上ではノリントンはすでにヘルムヒェンに拍手を送っていた。

第2楽章。ソナタ形式のような緩徐楽章であるが、ここでもヘルムヒェンはピアノと正対して、身体を大きく振ることもなく、感情移入することなく坦々と旋律を奏でていく。かといって、奏でられる音色は優美であり、心を清らかにしてくれる。素晴らしい~~。

第3楽章。ベートーヴェンならではの生き生きとしたリズムと旋律をヘルムヒェンは次々と奏でていく。ただし、彼の奏であげる「皇帝」は決して威厳に満ちたものではなく、穏やかでとても庶民的である。ひょっとすると、彼は今回の大震災のことを考えて「庶民そのものが皇帝なのだ」というメッセージを発していたのかもしれない。つまり彼の「皇帝」は「主権在民」だったのかも。

いずれにしろ名演奏であった。放送日時などは未定だが、映像で再度楽しみたいと思う。

やっぱりマーラー音痴だった

2011-04-24 14:28:56 | 日本フィル
一昨日(22日)サントリーホールで開かれた日本フィルハーモニー交響楽団第629回東京定期演奏会
へ行ってきた。指揮は来日できなかった首席客演指揮者ピエタリ・インキネンに代わって山田和樹。クラリネットは日本フィル首席奏者の伊藤寛隆。ソプラノは市原愛。

【演目】
マーラー/花の章
モーツァルト/クラリネット協奏曲
  ~休 憩~
マーラー/交響曲第4番
《19時15分開演、21時15分終演》

先日と同じように開演前に楽団の専務理事からインキネンが来日できなかったいきさつなどをする挨拶。続いてヴォイラの後藤悠仁が日本フィルの今回の震災についての姿勢を説明すると浪江町の人たちが避難している二本松で演奏したことを報告する。

1曲目。1曲目の「花の章」は交響曲第1番「巨人」の第2楽章として作曲されたのに後に削除されてしまった。う~ん、どうしてなのだろう。この曲が第1番に入っていればもっと「巨人」は奥行きのある交響曲になったと思うのだが。さて、この曲はトランペット(橋本洋)が主体で、その清廉な音色が心を落ち着かせれてくれる。

2曲目。クラリネットはオーケストラではオーボエに主役の座を奪われがちだが、その音域の広さからもう少し脚光を浴びてもいいのでは。伊藤寛隆は見た目はちょっとずんぐりむっくり。しかし、彼が奏でる音色は極彩色。それはもう変幻自在のパステルカラーのモーツァルト。素晴らしかった。

3曲目。この曲はマーラーの交響曲のなかでももっとも明るい曲なのだが、う~ん、やっぱり理解できない。山田和樹の指揮も妙にこじんまりしていて共感をもつことはできなかった。やはり私はマーラー音痴であり鬼門のようである。

仙台フィルと東北、そして音楽に幸あれ

2011-04-22 14:19:57 | 国内オーケストラ
昨日(21日)、サントリーホールで行われた「東北応援チャリティ・コンサート ~仙台フィルとともに~」へ行ってきた。演奏は仙台フィルハーモニー管弦楽団と在京音楽家有志による合同オーケストラ。ソリストの出演は小山実稚恵(Pf)、漆原朝子、加藤知子、高嶋ちさ子、徳永二男、三浦文彰(Vn)、堤剛(Vc)、高木綾子(Fl)、吉野直子(Hrp)、山口綾規(Org)。指揮は広上淳一と山下一史。司会は山田美也子と高嶋さち子。

【演目】(※はアンコール曲)
メンデルスゾーン/オルガン・ソナタ
(山口、山下&仙台フィル)
モーツァルト/アヴェ・ヴェルム・コルプス
(山下&仙台フィル)

  ~黙 祷~

モーツァルト/フルートとハープのための協奏曲 ハ長調 K299から第1楽章
(高木&吉野、山下&仙台フィル)
マスネ/タイスの瞑想曲
(高嶋&吉野、、山下&仙台フィル)
J.S.バッハ/2つのヴァイオリンのための協奏曲 ニ短調 BWV1043から第1楽章
(加藤&漆原、山下&仙台フィル)
メンデルスゾーン/ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 op.64から第1楽章
(三浦、広上&合同オケ )
ラフマニノフ/ピアノ協奏曲第2番 ハ短調 op.18から第2・第3楽章
(小山、広上&合同オケ)

  ~休 憩~

ブラームス/ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲 イ短調 op.102から第1楽章
(徳永&堤、広上&合同オケ)
ベートーヴェン/交響曲第7番
(広上&合同オケ)
※アンダーソン/忘れられた夢
(小山、広上&合同オケ )
《18時30分開演、22時10分終演》

このコンサート、有名ソリストが多数出演することと料金が一律5,000円ということから、チケットは発売当日に完売になった。

最初の2曲は献奏。そのあとに黙祷を行い、被災して亡くなられた方々への追悼の意を表す。そして、通常のというかチャリティー・コンサートが始まった次第だが、高嶋さち子に座布団3枚進呈したくなるようなトークも楽しく、和やかにスタートする。

1曲目。かなり緊張気味の表情の高木綾子だったが、その音色はマイルドできらびやか。吉野のモーツァルトらしい流麗なハープの音色と交じりあって、ちょっと紅茶でも飲みたい気分にさせてくれた。余談ではあるが、高木のブログによると来月はN響に登場予定とか。

2曲目。高嶋ちさ子のヴァイオリンは初めて聴いたが、失礼な言い方だが意外に女性っぽく優しかった。高嶋がトークのなかで「最後の曲で私もオケのなかに入るのですが、隣が漆原さんなんですよ。私、厭なんですよねぇ。子供の頃に母親に『なんであなたは朝子ちゃんみたいに優しく弾けないの』と言われたんですよ」と。これにはオケのメンバーもみんなクスクスだった。

3曲目。加藤知子を聴いたのは何年ぶりだろう。堀米ゆず子と共に一世を風靡したヴァイオリニストである。このバッハはもはや貫禄で漆原朝子を支えながら、落ち着いた音色を聴かせてくれた。

4曲目。ここからオケが合同オケになるが、そのなかのヴァイオリン陣が凄かった。コンマス(伝田正秀)の横に小森谷巧(読響)、その後ろに扇谷泰朋(日本フィル)、藤原浜雄(読響)、磯絵里子、徳永二男など錚々たるメンバーが着席。そして、後方には演奏を終えたばかりの加藤知子と漆原朝子もいる。高嶋が「私の師匠である徳永先生が4列目ですからね。こんなのめったにないですよ」には徳永も苦笑だった。

さて、三浦文彰の演奏であるが、彼は顔も体型もまだ若々しい。しかし、音色は全然若々しくなく、まだ完成こそされてはいないものの堂々たるもの。日本人のヴァイオリストというと女性優位だが、この人はひょっとするとひょっとするというぐらいの実力を秘めている。今後に大いに期待したい。

5曲目。4曲目もそうだったのだが、錚々たるメンバーが入ってからは仙台フィルには申し訳ないが弦の音が全然違う。もう弦から唸りと炎が上がるかのような音色が響いてくる。それに応えるかのように、小山も普段のような優美なラフマニノフのではなく入魂の演奏でド迫力。凄かった~。

休憩を挟んで6曲目。クラシック音楽のドンというべき徳永二男と堤剛。高嶋が「巨匠の演奏でしたねぇ」と言っていたが、まさにその通りでもう存在だけでブラームスも観客をも圧している演奏だった。

最後はベト7。管が倍管になりそのなかには宮本文昭も登場。また、弦も人数が増える。堤御大のとなりはN響の山内俊輔。徳永の隣には三浦が座る。そして、演奏はこれまで聴いた数多くのベト7のなかでは文句なしに一番という素晴らしいものだった。広上淳一、仙台フィル、そして在京の有志たちは音楽の力の大きさを見事に示してくれた。終演後はとてつもないブラヴォーの嵐のなか、数多くの観客がスタンディグ・オベーションで感謝の意を表していた。久しぶりに鳥肌ものの感動を味わうと共に、いつまでも記憶に残るコンサートとなった。


【在京音楽家有志】
ヴァイオリン:磯絵里子、扇谷泰明、小森谷巧、佐分利恭子、徳永希和子、藤原浜雄、松浦奈々
ヴィオラ:安藤裕子、井野邊大輔、大野かおる、鈴木康浩、飛澤浩人、柳瀬省太
チェロ:古川展生、向山佳絵子、山内俊輔、山本裕康
コントラバス:石川浩之、那須野直裕、永島義男、本間達朗、吉田秀
チェンバロ:小森谷裕子
フルート:曳地まり
オーボエ:池田昭子、宮本文昭
クラリネット:松本健司、村井祐児
ファゴット:井上俊次、佐藤由起
トランペット:小貫誉、服部孝也

オペラ『ばらの騎士』@新国立劇場

2011-04-20 12:28:39 | オペラ
昨日(19日)新国立劇場・オペラ劇場で演じられているオペラ『ばらの騎士』公演を観に行ってきた。音楽はリヒャルト・シュトラウス。演出はジョナサン・ミラー。指揮はマンフレッド・マイヤーホーファー。管弦楽は新日本フィルハーモニー交響楽団。

元帥夫人:アンナ=カタリーナ・ベーンケ(ソプラノ)
オックス男爵:フランツ・ハヴラタ(バス)
オクタヴィアン:井坂 惠(メゾソプラノ)
ファーニナル:小林由樹(バリトン)
ゾフィー:安井陽子(ソプラノ)
マリアンネ:黒澤明子(ソプラノ)
ヴァルツァッキ:高橋 淳(テノール)
アンニーナ:加納悦子(メゾソプラノ)
警部:長谷川 顯(バス)
元帥夫人の執事:小貫岩夫(テノール)
ファーニナルの執事:経種廉彦(テノール)
公証人:晴 雅彦(バリトン)
料理屋の主人:加茂下 稔(テノール)
テノール歌手:水口 聡(テノール)
帽子屋:國光ともこ(ソプラノ)
動物商:土崎 譲(テノール)
合唱:新国立劇場合唱団

上演時間 1幕 75分 休憩 25分 2幕 60分 休憩 25分 3幕 70分
《18時00分開演、22時15分終演》

あらすじは以下の通り。夫の留守中に元帥夫人は若いツバメの伯爵オクタヴィアン(なんと17歳!)と愛し合う。一方でオックス男爵は新興貴族のファーニナルの娘ゾフィーと婚約するものの、ゾフィーはあまりにも田舎者の男爵に愛想をつかし、銀のバラをもってきたオクタヴィアンに一目惚れしてしまう。そのために、男爵とオクタヴィアンはイザコザを起こしてしまうが、結局は元帥夫人が間を取り持って、若い二人の愛を祝福するというハッピーエンドで幕が下りる。

ご存知のように開幕直前に指揮者や出演者が大幅に変更になり、初日(7日)公演は中止され、初日観劇予定だった私もこの日に振替をせざるをえなかった。

さて、オペラの方であるが、元演劇制作者から言わせてもらうと、第1幕は非常に長く締りがない。これは元帥夫人とオクタヴィアンの囁きなどがダラダラしていて、無意味な場面も多くオペラ全体のバランスを考えると少なくとも15分ぐらいはカットできそうである。まあ、今となってはそんなことは無理な話ではあるが、次にこのオペラを観るときは半分寝ていてもいいかなぁとも思ってしまった。しかし、第2幕以降の展開はスピディーな上に、リヒャルト・シュトラウスの音楽も有名な旋律が登場して冴え渡り俄然面白くなる。

さて、舞台美術ならびに演出は非常にオーソドックスだ。明るいアイボリー(クリーム?)色で遠近法を主体とした舞台装置はこれといった趣向を凝らしたものではないが、解りやすく観やすい。また、照明にしても地明かりと外向照明のみでこれといった特殊機材は使っていない。ただ、演出はあまりにも凡庸で、元帥夫人をはじめとした女性陣の立ち位置および振る舞いにもうひと工夫欲しかった。

次に音楽であるが、残念ながら新日本フィルの演奏には賛辞は贈れない。開演直後の序曲は金管およびホルンは情けないくらいボロボロで、これで平気なのかよと思わざるをえなかった。ただし、第2幕に入ってオーボエのすばらしい音色が響き渡ってからは、まるで人が変わったような演奏になり、弦もシュトラウスの音楽を優美に奏でていくようになった。なお、マイヤーホーファーは演奏の指揮に終始しているようで、あまり舞台に細かい指示はしているように見えなかった。

さて、出演者ではあるが、これはオックス男爵を演じたフランツ・ハヴラタ抜きには語れないだろう。主要メンバーでは彼だけがオリジナル出演者であり、もし彼が来日しなかったら、この舞台は成り立たなかっただろうかというぐらいの好演だった。役柄はいわばピエロのような存在なのだが、それを時にサラっと、時にアクが強くと、緩急を取り混ぜた演技は見事であり、ハツラツとしたバスの歌声も魅力的だった。

元帥夫人を演じたアンナ=カタリーナ・ベーンケは非常に落ち着いた歌声で、オペラ全体を引き締めていた。このようなレベルの高い代役を急遽決めた劇場関係者の手腕は大したものだ。

カヴァー(アンダースタディ)から主役の座を射止めた井坂恵、小林由樹、安井陽子の3人はそれぞれ健闘していた。井坂は若い伯爵の揺れ動く心をうまく表現をしていたが、ただ声量に浮き沈みがある感じがして、これを克服すれば前途有望なのではないだろうか。小林は堅実性のある歌声と安定的な演技はいいのだが、もう一つ何かインパクトが欲しかった。3人のなかで今回のチャンスをしっかりとモノにしたのは安井だろう。艶やかで伸びのあるソプラノは多くの観客を魅了。彼女が演じたゾフィーは華があるようであまり華のない役柄なのだが、それを歌い重ねていくごとに華のある存在にしていった歌声は見事であった。

終演は10時15分と遅かったが、それでも多くの観客は最後までスタンディング・オベーションで、まだ余震も続き世相が明るいとはいえない日常のなかで、すこぶる楽しく明るい舞台を見せてくれた出演者たちに惜しみない拍手を贈っていた。

自粛を自粛する広上淳一にブラボー!

2011-04-18 14:04:40 | 日本フィル
昨日(17日)、サントリーホールで行われた日本フィルハーモニー交響楽団の第345回名曲コンサートへ行ってきた。指揮は来日できなかった首席客演指揮者ピエタリ・インキネンに代わって広上淳一。ピアノは小菅優。

【演目】(※はアンコール曲)
ドビュッシー/牧神の午後への前奏曲
ラヴェル/ヴァイオリン協奏曲ニ長調
※ショパン/前奏曲No.3
  ~休 憩~
ドビュッシー/交響詩《海》
ラヴェル/バレエ音楽《ダフネスとクロエ》第2組曲
※ドビュッシー(カプレ編曲)/子供の領分より「ゴリウォッグのケークウォーク」
《14時30分開演、16時45分終演》

開演前に楽団の専務理事からインキネンが来日できなかったいきさつなどをする挨拶。フィンランドがチェルノブイリのときに被害をうけてナーバスになっているとか、大使館が広島に移って戻ってきたりといろいろ説明(言い訳)があったが、そんなこともうどうでもいい。広上淳一が代打を買ってくれたことをもっと褒めてやってほしかった。

1曲目。真鍋恵子のゴールドのフルートがマイルドにしてピュアな音色を奏でてあげていく。日本のフルート奏者のレベルは非常に高いと思う。ベルリンフィルのパユやコンセルトヘボウ管のバイノンのような世界的な名声はないにしろ、どこのオケにも実力のある首席フルート奏者が1人2人いる。真鍋もその1人であるし、私は彼女とホルンの福川伸陽(この日は降り番だったが)が日本フィルの二枚看板だと勝手に思っている。話が横道にそれてしまったが、その真鍋と共に素晴らしかったのがオーボエ(杉原由希子?)。彼女の音色にはひた向きな私はこうありたいというかこう生きていきたいという希望と若さが溢れていて、これまでのオーボエ奏者とはひと味もふた味も違った。

2曲目。この日の小菅優には硬さも緊張感といったものがまったくなく、とにかくゴムまりのように弾けていた。まだまだ暗い世相の漂うようななかで、この天真爛漫さに救われた。第1楽章は華やかに、第2楽章のソロはゆったりと、そして、ジャズ風の第3楽章はのびのびと音が飛び跳ねていて、それでいてスィング感もあり楽しかった。いつか彼女の奏でるアメリカ音楽も聴いてみたい。

3曲目。前半の小編成から後半は大編成へ。ドビュッシーならではのうねりのある音階を木管陣はうまく引き出していくが、残念ながら弦がそれに伴っていない。とにかく硬い。どうして、もっと柔らかく軟派な色合いを出してくれないのだろうか。確かに自然の波や海風といった自然の情景を表しているが、それがどうも額縁に入ったような感じのものなのだ。もっと型破りでいいと思う。殻に閉じこもるような音色は正直聴きたくない。

4曲目。前曲と同じようにうねりを主体にした演奏だが、「小さな巨人」広上淳一の的確なタクトが冴え渡り、加えて木管と金管、そして打楽器陣が思う存分自分たちの力量を発揮して、心地よく聴くことができた。広上、いい仕事しています。

終演後、楽団員と広上淳一から今回の大震災に対するそれぞれの姿勢が語られた。そのなかで広上は「自粛を自粛して、音楽家としてできることをやっていく」と力強いメッセージが発した。当然である。歌舞音曲が不謹慎だのというのは言語道断である。歌舞音曲には崇高な力強さがあり、それはある意味、政治や宗教をも凌駕する力をもっている。そうした素晴らしいことを仕事にしている人たちなのだから、それをいつまでも自粛自粛などしている必要はまったくない。

確かに音楽を始めとした歌舞音曲は地震には勝てない。津波にも勝てない。また原発にも勝てない。しかし、風評被害というか、魑魅魍魎とした疑心暗鬼な人々の心に打ち勝つことはできるのだ。

やはり普段とは違った都響定期演奏会

2011-04-15 13:52:37 | 都響
昨日(14日)サントリーホールでの東京都交響楽団の第714回定期演奏会を聴いてきた。指揮はモーシェ・アツモン。ヴァイオリンは竹澤恭子。アツモンが都響を指揮するのは18年ぶりとか。

【演目】
バッハ/G線上のアリア
エルガー/ヴァイオリン協奏曲ロ短調
~休 憩~
ブラームス/交響曲第2番ニ長調
《19時00分開演、21時20分終演》

サントリーホール・ロビーには楽団員たちが募金活動を行っている。私の席は2階席なので階段を登っていくと、そこにも若手楽団員たちがうまく言葉を発せられないながらも募金をお願いしている。「慣れないことをすると大変だね」と声をかけて募金すると、みなさんが声を揃えて「ありがとうございます」と言って笑みを浮かべてくれた。

開演前に「本日は通常の定期演奏会ですが、余震があった場合は係員の指示に従ってください」といったアナウンスが流された。そして、通常の照明の半分以下に落とされた舞台にオケのメンバーが登場して、指揮者のアツモンが挨拶。続いて「G線上のアリア」が演奏され、そのあとメンバーが起立、それに続いて観客も起立して1分間の黙祷が行われた。第二ヴァイオリン後方の女性が何度も涙をぬぐっているのが印象的だった。

1曲目。数多くあるヴァイオリン協奏曲のなかでももっとも長い曲のひとつ。それゆえにあまり演奏される機会が少なく、私もライブでは初めて聴く。竹澤恭子は黒鳥を思わすようなドレスで登場。

第1楽章。日本一ダイナミックでパワフルなヴァイオリニストといえば竹澤恭子をおいてほかにない。その彼女ならでは低音の響きがホール全体に響いていく。それはまるで震災で亡くなられた人々の魂が乗りうつったような無念さを表しているかのようだった。

第2楽章。ホルン4人(有馬、和田、笠松、野見山)のユニットが素晴らしかった。そのバックに応えるかのように竹澤のヴァイオリンが唸る、撓る、そして轟く。この楽章、エルガーらしい壮大なロマンと共に繊細さを感じることができた。

第3楽章。正直、長い。だけど、竹澤のヴァイオリンには東北人のような粘りがある。そして、持続力も体力もある。これが日本人だ、これが日本の力だというような彼女の信念が伝わってくる。やはり普段とは違う何かを感じてしまう。

2曲目。超スローなブラ2。第1楽章から第3楽章までアツモンはスローテンポのなか、自分たちの気持ちを思うがままに表現してくれ、と言わんばかりに、かなり突き放した指揮をする。しかし、残念ながら都響のメンバーはうまくそれに応えることはできない。弦にはいつものようなエレガンスさがない。統率感もあるようには聴こえない。実力者揃いの木管陣の音色も空回りしている。

ところが、第4楽章に入ると、アツモンは細かい指示と目線をどんどん送り、ブラームスのもつ重厚さ、大らかさを引き出そうとしていく。そして、中盤のヴァイオリンが低音の主題を弾いたところからは、それまでは明らかに違った団結力のある引き締まった音色が響いていった。音楽などの芸術には「終わりよければすべて良し」という言葉は適さないが、この夜はそれを許してしまう何かがやはり漂っていた。

N響を聴きに行く理由は

2011-04-12 11:16:46 | N響
以前ある飲み屋で「どうしてN響を聴きにいくのですか」と聞かれたことがある。唐突な質問だったために「N響以外にも都響、読響、日本フィルなども聴きに行きますよ」とお茶を濁した答えしてしまったが、本当のところはどうなのであろうか。

NHK交響楽団は名実共に日本を代表するオケで、特に弦は世界のなかでも屈指の実力があると思う。しかしながら、NHKホールというデッドな音響が時おり嫌になることがある。また、観客のマナーの悪さにも辟易することもある。

それでもN響を聴きに行っているのは、やはり家に近いところで演奏をしているからだあろう。もし、私が江東区か墨田区に住んでいればトリフォニーホールを本拠地としている新日本フィルを中心に聴きにいくだろうし、川崎市もしくは横浜市に住んでいれば東京交響楽団や神奈川フィルを聴きに行っているだろう。

つまり、私はN響を聴きにいっているより、家から近いNHKホールやサントリーホールに足を運んでいるのにすぎないのかもしれない。それだけ恵まれた場所に住んでいることに感謝をしなければないが、どうも私の頭の片隅にはN響はお隣の渋谷区にあるオーケストラという感じも否めない。w

N響の2011年度の事業計画書
http://www.nhkso.or.jp/about/pdf/bizplan_2011.pdf

芸術に理解ある人に投票しましょう

2011-04-09 20:43:52 | Weblog
明日は統一地方選挙。注目の東京都知事をはじめ12の知事選、41道府県議会議員選などが行われます。東日本大震災のために選挙戦はあまり盛り上がりませんでしたが、選挙の「自粛」は何処かの愚かな知事が言った「自粛」同様にNoです。

選挙(参政権)は生存権、教育権と共に日本国民の三大権利。その権利を放棄しないように、自分の信じるにたる人に、少しでも芸術に理解のある人に1票を託しましょう。もし託せる人がいなければ棄権することなく白票を投じましょう。

私はすでに期日前投票を行いました。それゆえに、出口調査に協力できないのが残念。w

アルミンクに続いてインキネンも来日中止

2011-04-07 16:34:34 | Weblog
新国立劇場でのオペラ『ばらの騎士』の指揮を予定していた新日本フィルの音楽監督アルミンクに続いて、今度は日本フィルの首席客演指揮者のインキネンも4月公演の来日を中止してしまった。

そんななかで読響のカンブルランはすでに来日。東京フィルのエッティンガー、都響のアツモン、N響のノリントンの動向も気になるが、どうも若い指揮者ほど来日を避けているようにも思える。家庭的事情やお国の事情もあるだろうが・・・。


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4月21日のサントリーホール売り切れ

2011-04-06 12:51:57 | Weblog
4月21日(木)にサントリーホールで開かれる「東北応援チャリティ・コンサート ~仙台フィルとともに~」は発売初日(昨日)でチケットが売り切れたそうだ。豪華メンバーで料金も5,000円ということだから当然なのかもしれないが、それにしてもあっという間の売り切れである。

さて、話は変わるが下記にある総務省が作成した義援金口座一覧を知っておいていただきたい。義援金は日本赤十字などに送るもいいが、自分に縁のある土地、訪れたことがある土地などに義援金を直接送るのもいいのではないだろうか。

東日本大震災に係る被災地方公共団体に対する寄付金及び義援金の受入口座一覧について
http://www.soumu.go.jp/menu_kyotsuu/important/110404_1_kojin.html


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被災地の人々に捧げる読響特別演奏会

2011-04-03 11:39:31 | 読響
昨日(4月2日)東京文化会館での「東京・春・音楽祭-東京のオペラの森2011~東北関東大震災 被災者支援チャリティー・コンサート~ 読売日本交響楽団 特別演奏会」を聴いてきた。指揮は尾高忠明。

【演目】(※アンコール曲)
バーバー/弦楽のためのアダージョ
~休 憩~
マーラー/交響曲第5番嬰ハ短調
※エルガー/エニグマ変奏曲よりニムロッド
《18時10分開演、19時50分終演》

本来は「東京・春・音楽祭」の「グスタフ・マーラー《大地の歌》演奏会」だったが、大震災のために中止となり、その代替公演である。そのために払い戻しをした人も多く、空席がかなり目立った。4~5割の入りだったのではないだろうか。

会場である東京文化会館に入る前に上野公園の桜を見て回った。全体としてはまだ3分咲きといった感じだったが、それでも花見客はいっぱい。例年がどの程度なのか知らないので比較しようがないが、いつも通りブルーシートを通路や広場に敷いて宴会に興じている。何処かの都知事は自粛をなんて言ったが、自粛したらなにもかも萎縮するだけである。お花見は江戸時代から伝統文化なのだから、自粛する必要性など全くないのだ。

1曲目。演奏前に「1曲目は今回の大震災の被害に見舞われた人たちへの追悼のためのものですので、演奏後の拍手はご遠慮ください」というアナウンスが流れる。指揮者の尾高忠明も読響のメンバーの中にまぎれるかのように入場して、普段より暗めの照明の下で演奏はおごそかに行われる。

「弦楽のためのアダージョ」はケネディ大統領の葬儀や映画『プラトーン』などで使われ、バッハの「G線上のアリア」などと並んで代表的な追悼曲である。普段はあまり目を瞑って演奏を聴くことがないが、この1曲だけは哀悼の意をこめて瞳を閉じた。そして、演奏は明晰にして重厚。文化会館特有のストレートな反響にもマッチして、非常に心揺さぶれるものだった。

2曲目。マーラー音痴の私ですら、この曲は好きである。何故ならばこの曲には誰もがもつ喜怒哀楽とそして前向きに生きようという希望が込められているからだ。

第1楽章。冒頭のトランペット(長谷川潤?)が憂いを帯びながらも高らかになる。文化会館の乾いた反響のせいか何処か遠くの方にこだましているようでもある。そして、続く木管や弦の音色も穏やかながらも、いつもはあまり感じえない魂が乗り移ったようような音色が響いくる。やはり、大震災のあとの演奏会だなぁ、と実感させれる。

第2楽章。弦楽主体の楽章だがチェロの音色が印象的だった。

第3楽章。ホルン主体の楽章だが、残念ながら少しムラっ気がある。本当にホルンという楽器は難しいのだなぁ。

第4楽章。アダージョ。弦楽とハープだけの楽章。追悼曲としも使われることがあるだけ、読響の弦は1曲目と同様におごそかに、そして力強く演奏していった。

第5楽章。尾高はいわゆる爆演的な指揮者ではない。しかし、この楽章は彼の悲しみと怒りが露になったような感情的な指揮だった。正直、ここまで煽るのかと思うぐらい、普段の尾高の指揮とは違っていた。そして、それに引きづられるかのようにオケも感情を露にしていく。それはまるで裸一貫の人間が前を向いていく歩いているようにも思えた。音楽のもつ爆発的エネルギーは馬鹿にならない。できれば、この演奏を東京にいる我々にだけでなく、いつの日か被災地の人々に聴かせて上げてほしいと思わざるをえなかった。

演奏終了後、尾高忠明は「3月は仕事がキャンセルになりきつかった。新国立では外国人の出演者や指揮者も来日しない。それでもなんとか『ばらの騎士』はできるようになった。このコンサートは復興の力にしようとの思いで開催したコンサートなので、自分も演奏家もその力になりたい」などと聴衆に話しかけた。そして「マーラーの後にアンコールなんか有り得ないのですが、コンマスのノーランさんと相談して、エルガーのニムロッドを演奏します」と。

言うまでもないことかもしれないが、生涯忘れることのないコンサートになった。

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