【元日経新聞記者】宮崎信行の国会傍聴記

政治ジャーナリスト宮崎信行、50代はドンドン書いていきます。

石破茂氏「小沢一郎さんは真の改革者と信じましたよ」 岡田克也さん宮澤喜一邸夜討ち「大変丁寧に応対」

2010年12月17日 23時02分03秒 | 小沢一郎氏による解党ビジネス

 自民党政調会長の石破茂さん。「政治改革を実現する若手議員の会」の代表として、岡田克也さん、河村建夫さん、岩屋毅さん、簗瀬進さんらと「宮澤総理・総裁邸」(東京・渋谷)夜討ち事件を起こし、宮澤解散後に自民党を離党。新生党や新進党議員を経て、自民党に帰り防衛相、農相をつとめました。

 その石破さんが17日朝、関東ローカルのラジオ局、文化放送に出演。かつての代表幹事・党首だった小沢一郎さんについて、「あの頃(1993年)は、この人こそ真の改革者だと信じましたよ。我々若い議員は感動しました。あのときは光り輝いていた」と述べました。これに先立ち、「この20年間、小沢さんに大いに振り回されてきました。では、小沢さんがいなければ日本の政治が動かなかったかというと、そんなことはない。小沢さんがいる限り、日本は振り回し続けられる」として、「トータルに必要なことかといえば、水沢に帰る・・・今は奥州市っていうのかな・・・水沢に帰ることだ」と語りました。

 政治改革を実現する若手議員の会は、今でも日本政治の中核で、政権交代時には、河村建夫官房長官(当時)から岡田克也さんと政調会長(直嶋正行さん)が引き継ぎを受けました。危機管理などを中心に、おそらく報償費に関する情報の引き継ぎも受けたと私は想像しています。河村さんは一度も自民党から出ず改革にまい進。一方の岡田さんは“あの日”(宮澤解散当日の1993年6月18日)から一度も自民党にも戻らずに、連立も組んだことがありません。簗瀬進さんもそうです。岩屋さんは河村さん同様、自民党で頑張ってきました。岡田さんは新進党時代に「一度裏切った人間は二度裏切るということを覚えた」と語っています。岡田さんが石破さんのことに言及することは滅多にありません。

 松野頼久さんらから「小沢問題」で直談判を受けた後、宮澤邸夜討ち事件について、岡田さんが月曜日(12月13日)の記者会見で述懐しました。私(宮崎信行)が質問しました。

 「宮澤さんのご自宅に押しかけたことは私の懐かしい思い出の1つですが、そのときに宮澤さんは、夜、突然お邪魔したにもかかわらず、大変丁寧に応対していただきました。そこは、私は、非常にいい、強く印象を持ちましたので、なるべく今日も、最初は院内で、と連絡してあったのですが、皆さん党本部にお集まりだということで、いったん私は院内に行ったのですが、党本部に戻りましてお話をさせていただいたということです。なかなか宮澤さんのような応対になったのかどうか、しかし、誠実に私は私の考え方をお答えさせていただいたつもりです」。

 宮澤さんは、自民党を象徴する人物です。田中角栄さんを自民党の象徴のようにイメージしている方は多いでしょう。私もそう思ってしまいますが、実際には、角さんは自民党には極めて異質な存在だったから、幹事長・総理・総裁になれたのでしょう。それに比べて、二世議員で、東大法卒で、官僚出身で、地方選出で、日米講話交渉の密使だった池田勇人蔵相の秘書官として、ワシントンで英語を駆使した、宮澤さんが自民党の象徴です。

 自民党と言えば、民主党と違って、政調が事前審査制なので、部会がもめて、当選3・4回生の部会長がまとめきれず、先輩が大声で「部会長一任!」「部会長一任!」と叫んでまとめることがありました。安倍晋三さんは自民党厚労部会長時代に、先輩の衛藤晟一さんに助けてもらい、落選後の参院院替えに助力しました。

 私は月曜日、「幹事長一任」になったと聞いて、古き良き自民党の薫りを感じました。

 古き良き自民党と、インターネット生中継の記者会見でそれを発表する先進性。岡田克也という男にそれが併存し、そして矛盾していない。岡田克也のアウフヘーベンに、安定感をつかみ取りました。まあ、石破さんも頑張ってください。



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