26日の続きです。
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陳舜臣「日本人と中国人」(集英社文庫)
第八章われら隣人
【名と実】
[中国人が最も信頼するものは"歴史"](206ページ)
中国人が最も固定しているものとみて、それになら、自分をすっかり預けてもよいと考えているものは何であろうか? キリスト教徒ならそれは「神」のはずである。神にも代わるべきもの、中国人の魂のよりどころというべきもの。――
それは『歴史』ではあるまいか。
書かれた歴史、これから書かれるであろう歴史を、人間生活そのものとして尊重する。大袈裟にいえば、歴史に記録されなかった人間は、生きていなかったのとおなじである。歴史に書かれなかった行動は、そんな行動がなかったのとおなじだ。――中国人の心理のなかには、そのような歴史主義がひそんでいる。
司馬遷は『伯夷伝(はくいでん)』の論賛(ろんさん)として、彼のような隠士はほかにもいたのだが、多くは名が消えて今では賞賛されないことを述べ、
――悲しい哉(かな)
と、ほんとうに悲しげに結んでいる。
――青史(歴史)に名をとどめる。
これが男子の本懐なのだ。
まだ志を得ない書生は、
――千年の史策、無名を恥ず。
と、自分を励ましたものである。
歴史を絶対視する一つのエピソードを紹介しよう。
春秋時代、斉の国の実力者崔杼(さいじょ)が、主君の荘公(そうこう)を殺した。これは紀元前548年のことである。
このとき、斉の史官は、
――崔杼、其の君を弑(しい)す。
と記録した。
崔杼は怒って、その史官を殺してしまった。すると、史官の弟が兄のあとをついで、おなじことを書いたので、崔杼はまたそれを殺した。
史官にはまだもう一人弟がいた。当時は官職が世襲であって、一族が同じ仕事に就いていたようだ。その弟も政府の記録におなじことを書き入れた。
さすがの崔杼もあきらめてしまった。
一方、地方にいた史官が、中央の史官がことごとく殺されたという噂をきいて、記録用の竹簡を抱いて都へ急行した。事実を書きとめるためなのだ。
しかし、最後の史官がすでに記録したときいて、安心して田舎にひきあげた。――
これは『春秋左伝』にのっている。
筆を曲げるよりは、死をえらぶという、勇気のある歴史家の物語として、よく引用された史実である。
殺された史官、死を覚悟しても記録しようとした史官、あるいはわざわざ田舎から駆けつけた史官たちは、たしかに職務に忠実な人たちであった。
しかし、このエピソードからは、われわれはそうした修身的教訓だけを教えられるのではない。
歴史が中国人にとって、どういう意義をもっているか、このエピソードはそれを如実に告げている。
---------------------------------------------------------------------
続く
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第八章われら隣人
【名と実】
[中国人が最も信頼するものは"歴史"](206ページ)
中国人が最も固定しているものとみて、それになら、自分をすっかり預けてもよいと考えているものは何であろうか? キリスト教徒ならそれは「神」のはずである。神にも代わるべきもの、中国人の魂のよりどころというべきもの。――
それは『歴史』ではあるまいか。
書かれた歴史、これから書かれるであろう歴史を、人間生活そのものとして尊重する。大袈裟にいえば、歴史に記録されなかった人間は、生きていなかったのとおなじである。歴史に書かれなかった行動は、そんな行動がなかったのとおなじだ。――中国人の心理のなかには、そのような歴史主義がひそんでいる。
司馬遷は『伯夷伝(はくいでん)』の論賛(ろんさん)として、彼のような隠士はほかにもいたのだが、多くは名が消えて今では賞賛されないことを述べ、
――悲しい哉(かな)
と、ほんとうに悲しげに結んでいる。
――青史(歴史)に名をとどめる。
これが男子の本懐なのだ。
まだ志を得ない書生は、
――千年の史策、無名を恥ず。
と、自分を励ましたものである。
歴史を絶対視する一つのエピソードを紹介しよう。
春秋時代、斉の国の実力者崔杼(さいじょ)が、主君の荘公(そうこう)を殺した。これは紀元前548年のことである。
このとき、斉の史官は、
――崔杼、其の君を弑(しい)す。
と記録した。
崔杼は怒って、その史官を殺してしまった。すると、史官の弟が兄のあとをついで、おなじことを書いたので、崔杼はまたそれを殺した。
史官にはまだもう一人弟がいた。当時は官職が世襲であって、一族が同じ仕事に就いていたようだ。その弟も政府の記録におなじことを書き入れた。
さすがの崔杼もあきらめてしまった。
一方、地方にいた史官が、中央の史官がことごとく殺されたという噂をきいて、記録用の竹簡を抱いて都へ急行した。事実を書きとめるためなのだ。
しかし、最後の史官がすでに記録したときいて、安心して田舎にひきあげた。――
これは『春秋左伝』にのっている。
筆を曲げるよりは、死をえらぶという、勇気のある歴史家の物語として、よく引用された史実である。
殺された史官、死を覚悟しても記録しようとした史官、あるいはわざわざ田舎から駆けつけた史官たちは、たしかに職務に忠実な人たちであった。
しかし、このエピソードからは、われわれはそうした修身的教訓だけを教えられるのではない。
歴史が中国人にとって、どういう意義をもっているか、このエピソードはそれを如実に告げている。
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続く