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陳舜臣「日本人と中国人」第八章われら隣人 ②

2006年01月29日 22時43分51秒 | 本・陳舜臣
26日の続きです。
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陳舜臣「日本人と中国人」(集英社文庫)
第八章われら隣人
【名と実】
[中国人が最も信頼するものは"歴史"](206ページ)

 中国人が最も固定しているものとみて、それになら、自分をすっかり預けてもよいと考えているものは何であろうか? キリスト教徒ならそれは「神」のはずである。神にも代わるべきもの、中国人の魂のよりどころというべきもの。――

 それは『歴史』ではあるまいか。
 書かれた歴史、これから書かれるであろう歴史を、人間生活そのものとして尊重する。大袈裟にいえば、歴史に記録されなかった人間は、生きていなかったのとおなじである。歴史に書かれなかった行動は、そんな行動がなかったのとおなじだ。――中国人の心理のなかには、そのような歴史主義がひそんでいる。

 司馬遷は『伯夷伝(はくいでん)』の論賛(ろんさん)として、彼のような隠士はほかにもいたのだが、多くは名が消えて今では賞賛されないことを述べ、
 ――悲しい哉(かな)
 と、ほんとうに悲しげに結んでいる。
 ――青史(歴史)に名をとどめる。
 これが男子の本懐なのだ。
 まだ志を得ない書生は、
 ――千年の史策、無名を恥ず。
 と、自分を励ましたものである。

 歴史を絶対視する一つのエピソードを紹介しよう。
 春秋時代、斉の国の実力者崔杼(さいじょ)が、主君の荘公(そうこう)を殺した。これは紀元前548年のことである。
 このとき、斉の史官は、
 ――崔杼、其の君を弑(しい)す。
 と記録した。
 崔杼は怒って、その史官を殺してしまった。すると、史官の弟が兄のあとをついで、おなじことを書いたので、崔杼はまたそれを殺した。
 史官にはまだもう一人弟がいた。当時は官職が世襲であって、一族が同じ仕事に就いていたようだ。その弟も政府の記録におなじことを書き入れた。
 さすがの崔杼もあきらめてしまった。
 一方、地方にいた史官が、中央の史官がことごとく殺されたという噂をきいて、記録用の竹簡を抱いて都へ急行した。事実を書きとめるためなのだ。
 しかし、最後の史官がすでに記録したときいて、安心して田舎にひきあげた。――
 これは『春秋左伝』にのっている。
 筆を曲げるよりは、死をえらぶという、勇気のある歴史家の物語として、よく引用された史実である。
 殺された史官、死を覚悟しても記録しようとした史官、あるいはわざわざ田舎から駆けつけた史官たちは、たしかに職務に忠実な人たちであった。
 しかし、このエピソードからは、われわれはそうした修身的教訓だけを教えられるのではない。
 歴史が中国人にとって、どういう意義をもっているか、このエピソードはそれを如実に告げている。

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 続く
コメント
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