起きて半畳 寝て一畳

株式投資の記録を中心に、日々感じた事や考えたこと、読んだ本のことなどなど

世界のブロガーの3人に1人は日本人?

2006年09月29日 21時04分07秒 | トピックス
 面白いなと思ったニュースです。
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【世界のブロガーの3人に1人は日本人?】
 ブログ検索サービスを提供する米テクノラティ社が2006年8月に発表した調査によると、世界中で1日当たり17万5,000件の新しいブログが生まれており、06年7月31日現在で同社がチェックするブログの数は5,000万件に達した。
 6月時点での内訳では、英語が最多の39%を占め、日本語は2位の31%。世界のブロガーの3人に1人が日本語を使っていることになる。3位は中国語(12%)だった。(2006年09月20日16時09分J-CASTニュース)
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 「英語が最多」という調査結果には、誰もがそうだろうなと納得すると思います。「39%」という比率に関しては、当初私は「以外に多いな」と思いましたが、その内に「そんなものかも知れない」と思うようになりました。

 「日本語は2位の31%」という結果は、私だけでなく日本人なら大半の人が意外に感じて驚いたのではないでしょうか。
 
 ブログ総数が5千万件だから、
①英語で書かれたブログは、5,000万件×39%=1,950万件、
②日本語のブログは、5,000万件×31%=1,550万件、
③中国語のブログは、5,000万件×12%=600万件、
ということになります。

 中国語が「3位」という順位については、現時点では「そんなものかもしれないな」と思うものの、「600万件」というのは「少ないなあ」というのが私の印象です。


 フリー百科事典・ウィキペディア(Wikipedia):言語によると、【普段話されている言語別人口順位(人口は概算)】は次のようになっています。
1.中国語 (13億人)(2005年)
2.アラビア語 (4億2000万人)
3.ヒンディー語 (3億6600万人)(1999年)
4.英語 (3億4100万人)(1999年)
5.スペイン語 (3億2200万~3億5800万人)(1999年)
6.ベンガル語 (2億700万人)(1999年)
7.ポルトガル語 (1億7600万人)(1999年)
8.ロシア語 (1億6700万人)(1999年)
9.日本語 (1億2500万人)(1999年)
10.ドイツ語 (1億人)
11.フランス語 (7800万人)
12.朝鮮語(韓国語) (7800万人)

 ということは、
①英語 3億4100万人÷1,950万件=17.5、
②日本語 1億2500万人÷1,550万件=8.1、
③中国語 13億人÷600万件=216.7、
ということになります。

 こうやって眺めると、赤ん坊から寝たきり老人まで含めて「日本語人口の8人に1人がブログを書いている」と言うのは、いかにも多いなあと思います。
 日本人てそんなに日記を書くのが好きだったっけ
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9月29日

2006年09月29日 17時43分44秒 | エトセトラ
【9月29日の市場概況】日経平均終値:16,127円(+102円
 日経平均株価は3日続伸。28日のニューヨーク・ダウ工業株30種平均が2000年1月に付けた最高値を一時上回ったことが好感された。
 朝方発表の8月の鉱工業生産指数(速報)は前月比1.9%上昇と市場予想平均と同じだったが、景気減速への警戒感はひとまず和らいだとの見方を誘った。

【株式投資の記録:9月29日】
 取引しませんでした。
 
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憲法前文の文章比較②

2006年09月28日 23時56分43秒 | エトセトラ
 昨日の続きになります。
 きょうは、昨日紹介した中曽根試案をもとにして作られた【第一次草案】と、それを舛添要一参院議員がバッサリと全文削除して、全く新しくつくった【新憲法草案】を並べて比較してみます。

が【第一次草案】、が【新憲法草案】です。それでは最初の文章から順番にみていきましょう。は私の意見です。


 日本国民はアジアの東、太平洋と日本海の波洗う美しい島々に、天皇を国民統合の象徴として戴き、和を尊び、多様な思想や生活信条をおおらかに認め合いつつ、独自の伝統と文化を作り伝え多くの試練を乗り越えて発展してきた。
 日本国民は、自らの意思と決意に基づき、主権者として、ここに新しい憲法を制定する。
 第一次草案は、ちょっと気取って書いた散文調の文章で始まり、それが「和を尊び」のところから万葉調の素朴でおおらかな調子の文章になっています。味のある文章だとおもいます。
 新憲法草案は、先ず最初に「主権者として、ここに新しい憲法を制定する」という宣言文がきています。第一次草案では⑦の一番最後にある部分が一番最初にあると言うところが両者の特徴をよくあらわしていると思います。
 三島由紀夫さんの「文章読本」(中公文庫)の言葉を借りれば、第一次草案は「女性的理念、感情と情念の理念」で憲法前文を書こうとしているのに対し、新憲法草案は「男性的特質、論理及び理知」で前文を書こうとしているようにも考えられます。


 日本国は国民が主権を持つ民主主義国家であり、国政は国民の信任に基づき国民の代表が担当し、その成果は国民が受ける。
 象徴天皇制は、これを維持する。また、国民主権と民主主義、自由主義と基本的人権の尊重及び平和主義と国際協調主義の基本原則は、不変の価値として継承する。
 「天皇」というむき出しの言葉ではなく、「象徴天皇制」というオブラートに包んだ言葉を持ってきているところに新憲法草案の文章の巧さを感じます。


 日本国は自由、民主、人権、平和、国際協調を国の基本として堅持し、国を愛する国民の努力によって国の独立を守る。
 日本国民は、帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務を共有し、自由かつ公正で活力ある社会の発展と国民福祉の充実を図り、教育の振興と文化の創造及び地方自治の発展を重視する。


 日本国民は正義と秩序による国際平和を誠実に願い、他国と共にその実現の為協力し合う。
 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に願い、他国とともにその実現のため、協力し合う。


 国際社会に於いて圧制や人権の不法な侵害を絶滅させる為の不断の努力を行う。
 国際社会において、価値観の多様性を認めつつ、圧政や人権侵害を根絶させるため、不断の努力を行う。


 日本国民は自由と共に公正で活力ある社会の発展と国民福祉の充実をはかり教育の振興と文化の創造と地方自治の発展を重視する。自然との共生を信条に美しく豊かな地球環境を護るため力を尽くす。
 日本国民は、自然との共生を信条に、自国のみならずかけがえのない地球の環境を守るため、力を尽くす。


 日本国民は大日本帝国憲法及び日本国憲法の果たした歴史的意味を深く認識し現在の国民とその子孫が世界の諸国民と共に更に正義と平和と繁栄の時代を内外に創ることを願い、日本国の根本規範として自ら日本国民の名に於いて、この憲法を制定する。
 (無し)



 【第一次草案】に対しては、「美文調」「復古調」という評があり、【新憲法草案】に対しては、「味もそっけも無い」「事務的な文章」という評が一般的のようです。

 私は第一次草案よりは新憲法草案の方が好きです。何と言っても「明晰さ」において新憲法草案は圧倒的に勝っています。「味もそっけも無い」「事務的な文章」という言葉を悪口の意味で使っているとすれば、それは間違っていると思います。

 私は新憲法草案の文章は決して不味い文章などではなく、むしろ品格のあるいい文章だと思います。
 たとえてみれば、「非常におしゃれな人が、非常に贅沢な着物をいかにも無造作に着こなして、そのおしゃれを人に見せない、しかもよく見るとその無造作な普段着のように着こなされたものが、たいへん上等な結城であったり、久留米絣であったりというような文章」(三島由紀夫「文章読本」)だと思います。
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9月28日

2006年09月28日 16時16分40秒 | エトセトラ
【9月28日の市場概況】日経平均終値:16,024円(+76円
 日経平均株価は続伸。8日以来ほぼ3週間ぶりに1万6000円台を回復した。
 日本株の出遅れ感や安倍新内閣への期待感から海外投資家の買いが入るとの見方が広がり、株価指数先物が主導して買いが先行。現物株にも裁定取引に絡んだ買いが入った。

【株式投資の記録:9月28日】
 取引しませんでした。
 
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憲法前文の文章比較①

2006年09月28日 00時41分21秒 | エトセトラ
 25日に「TVタックル」という番組をみていましたら、自民党が進めている「憲法改正」が取り上げられていました。その中で、中曽根元首相が草案した美文調の「憲法前文」が自民党案をまとめる段階でバッサリと削られ、味も素っ気も無い文章に差し替えられたという話がでていました。

 憲法前文の文章がどんな風に変わっていったのか、興味が湧いてきましたので調べてみました。
 尚、興味の対象は、あくまで「文章及び文体の品格」であって、内容の優劣ではありませんので念のため。

 調べてみると、先ず最初にくるのが中曽根元首相が主宰する世界平和研究所が発表した【中曽根試案】ともいえる「憲法改正試案」です。
 その次に来るのが、中曽根試案をたたき台として生まれた【第一次草案】です。そして最後に来るのが自民党案としてまとめられた【新憲法草案】です。

 「TVタックル」によると、復古調の色彩が強い第一次草案では、憲法改正に必要な三分の二の賛成が得られないので、舛添要一参院議員がバッサリと削り、差し替えたということでした。

 そこで、きょうは【中曽根試案】とそれをもとに作られた【第一次草案】を並べて比較してみたいと思います。

が【中曽根試案】、が【第一次草案】です。それでは最初の文章から順番にみていきましょう。は私の意見です。


 我ら日本国民は、アジアの東、太平洋の波洗う美しい北東アジアの島々に歴代相承け、天皇を国民統合の象徴として戴き、独自の文化と固有の民族生活を形成し発展してきた。
 日本国民はアジアの東、太平洋と日本海の波洗う美しい島々に、天皇を国民統合の象徴として戴き、和を尊び、多様な思想や生活信条をおおらかに認め合いつつ、独自の伝統と文化を作り伝え多くの試練を乗り越えて発展してきた。
 美文調といわれる所以がここの文章だと思います。また、前文が始まって直ぐに「天皇」という言葉が出てきますが、これは一部の人に警戒心を呼びさますというわりと大きな(逆)効果があるように思います。


 我らは今や、長い歴史の上に、新しい国家の体制を整え、自主独立を維持し、人類共生の理想を実現する。我が日本国は、国民が主権を有する民主主義国家であり、国政は国民の信頼に基づき国民の代表者が担当し、その成果は国民が享受する。
 日本国は国民が主権を持つ民主主義国家であり、国政は国民の信任に基づき国民の代表が担当し、その成果は国民が受ける。


 我らは自由・民主・人権・平和の尊重を基本に、国の体制を堅持する。
 日本国は自由、民主、人権、平和、国際協調を国の基本として堅持し、国を愛する国民の努力によって国の独立を守る。


 我らは国際社会において、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、その実現に貢献する。
 日本国民は正義と秩序による国際平和を誠実に願い、他国と共にその実現の為協力し合う。


 我らは自由かつ公正で活力ある日本社会の発展と国民福祉の増進に努め、教育を重視するとともに、自然との共生を図り、地球環境の保全に力を尽くす。
 国際社会に於いて圧制や人権の不法な侵害を絶滅させる為の不断の努力を行う。


 また世界に調和と連帯をもたらす文化の重要性を認識し、自国の文化とともに世界文化の創成に積極的に寄与する。
 日本国民は自由と共に公正で活力ある社会の発展と国民福祉の充実をはかり教育の振興と文化の創造と地方自治の発展を重視する。自然との共生を信条に美しく豊かな地球環境を護るため力を尽くす。


 我ら日本国民は、大日本帝国憲法及び日本国憲法の果たした歴史的意義を想起しつつ、ここに新時代の日本国の根本規範として、我ら国民の名において、この憲法を制定する。
 日本国民は大日本帝国憲法及び日本国憲法の果たした歴史的意味を深く認識し現在の国民とその子孫が世界の諸国民と共に更に正義と平和と繁栄の時代を内外に創ることを願い、日本国の根本規範として自ら日本国民の名に於いて、この憲法を制定する。
 若い人だと、なぜここに「大日本帝国憲法」が出てくるのか「意味わかんねえよ!」という人が多いのではないかと思います。
 私の場合は、「中曽根さん、あなたの気持ちは分るけど、いくらなんでもそれはちょっと古すぎる。そんなものは要らないよ。」というものです。

 声を出して読み比べてみれば直ぐに分ることですが、文章の品格としては最初の【中曽根試案】の方が優れていると思います。内容の網羅という点ではその後に出来た【第一次草案】の方がもちろん勝っていますが、その分文章としてはゴツゴツしたところが出来てしまっています。
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9月27日

2006年09月27日 19時01分45秒 | エトセトラ
【9月27日の市場概況】日経平均終値:15,947円(+390円
 日経平均株価は大幅高となり、4営業日ぶりに反発。自律反発の機運が高まっていたうえ、米経済指標の改善で米景気の急減速懸念が後退したことが株価の下値不安を和らげ、主力株を中心に幅広い銘柄が買われた。
 前日夜に発足した安倍晋三内閣が経済成長重視の姿勢を示したことも安心感を与えた。

【株式投資の記録:9月27日】
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花王

2006年09月26日 18時28分25秒 | エトセトラ
【9月26日の市場概況】日経平均終値:15,557円(-76円
 日経平均株価は3日続落し、9月中間期の配当落ち(QUICK算出、63円41銭)を超える下落幅となった。9月中間期の権利・配当落ちに加え、10月以降の下期運用をにらんだ機関投資家の銘柄入れ替えや換金売りが指摘された。
 東証2部株価指数は11日続落。7月5~19日の10日続落を上回り、今年最長の連続下落記録となった。2002年12月4日~同24日の14日連続の下落以来となる。

【株式投資の記録:9月26日】
 ①花王(03/30買建@3,150*2,000株)
  @3,040-で2,000株とも返済しました。▲多分30万円チョットの損失です。
 
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9月25日

2006年09月25日 21時52分23秒 | エトセトラ
【9月25日の市場概況】日経平均終値:15,633円(-0.86円
 日経平均株価は横ばい。前場は22日の米株安を嫌気した売りに押されていたが、後場は値がさハイテク株などの持ち直しをきっかけに上げに転じる場面があった。

【株式投資の記録:9月25日】
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【村上春樹は中国でなぜ読まれるのか】林少華

2006年09月25日 18時48分13秒 | 本・その他
 村上春樹さんが、アイルランドの文学賞「フランク・オコナー国際短編賞」を受賞するというニュースが今日(25日)流れていました。記事の中にもありましたが、村上春樹さんは『今年のフランツ・カフカ賞(チェコ)の受賞も決まっており、国際的な文学賞をダブル受賞する快挙』となった由です。

 『フランツ・カフカ賞の04、05年の受賞者はいずれもその年にノーベル文学賞を受賞』しているということですから、今後の展開が楽しみになってきました。


 村上春樹さんの作品が中国でも人気があることは9月13日の記事「村上春樹と日本語と中国語」でご紹介しましたが、その元記事を全文ここに転載して残しておきたいと思います。
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【村上春樹は中国でなぜ読まれるのか】  青島海洋大学外国語学院教授 林少華


 村上春樹の『ノルウェイの森』が出版されたばかりのころ、私は日本にいた。当時の私は、中国と日本の古詩の比較をテーマとしていたから、翻訳には興味がなかった。帰国してから、私の文章の調子が『ノルウェイの森』の翻訳にきわめて適している、と漓江出版社に推薦してくれる人があり、私はそこで初めて真剣に、村上春樹の原著を読んだ。読んでみると、彼の作品は本当に私の気持ちにぴったり来た。そこでついに翻訳を始めた。

 これから始まって一冊、また一冊と、翻訳を一度始めたら収拾がつかなくなった。すでに中国で出版されたのは六作品である。『ノルウェイの森』(中国語の題名は『ナイ威的森林』)、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(『世界尽頭與冷酷仙境』)、『ダンス・ダンス・ダンス』(『舞!舞!舞!』)、『羊をめぐる冒険』(『尋羊冒険記』)、『ねじまき鳥クロニクル』(『奇鳥行状録』)及び短編集の『象工場のハッピーエンド』(『象的失踪』)である。ほとんどの作品が読者に歓迎され、好評を博した。

 中でも、『ノルウェイの森』はこれまでにもっとも売れた日本の文学作品で、累計ですでに40万冊以上印刷された。この数字は、これまで中国で発行されたいかなる日本の小説をも遥かにしのいでいるばかりでなく、どの外国の現代小説よりも売れ、奇跡的な販売記録を樹立したのだ。日本や外国の現代小説が、十年もの間売れ続け、依然その勢いが衰えないということは、これまでおそらくなかったことだろう。

 ここから引き起こされた「村上春樹ブーム」は、いまも過熱するばかりである。村上春樹を読むことが、中国の都会の若者にとって一種のファッションとなった。その影響で、若者たちが日本文学を新しい目で見るようになり、また、日本の若者たちの生活や日本文化に対する興味を引き起こした、と言ってよい。こうした点を考えて、上海訳文出版社は今年と来年、17巻の『村上春樹文集』を出版しようとしている。

 中国の読者はなぜ村上春樹ばかりを寵愛するのだろうか。十数年来、村上作品を翻訳してきて私が、自分で体験したことや考えたことを基にして、それに読者からの手紙に書かれた感想や見方を加え、簡単にその原因を紹介したい。あるいは、中国人がどのように村上作品を見ているか、を紹介すると言ってもよい。

 これを二点に分けて論じてみよう。 風が水面を渡るような文章  まず、村上作品独特の言葉遣いや筆の運び、それに文体が、中国人の読みたいという気持ちを引き起こしたことだ。

 中国は昔から「詩文大国」を任じ、とくに文章の彩りや技巧を重視してきた。「二句をつくるのに三年かかり、ひとたび吟ずれば両眼から涙があふれる」といった唐の賈島のような文人墨客は、どの時代も枚挙にいとまがない。おそらくこうした文化的遺伝子のせいで今日までずっと、中国人は文章や作品の水準や風格に対して、ことのほか敏感であり、重箱の隅をつつくようなことをしてきたのだ。

 もっとも称賛される文章は簡潔、明瞭な筆致である。(これは中国語の最大の優れた特徴でもある)。これに比して「粘着語」に属する日本語には、こうした優れた点はない。
 だから、中国語に翻訳された日本の文学作品を中国人が読み始めるときまって、どろどろとした、すっきりしない感じを受けるのだ。(もちろん、翻訳の拙さが原因である場合も排除できないが)。

 たとえ川端康成のような大文学者の作品でも、文章の風格から言えば、普通の中国人が読み続けていくのは大変苦しい。これはたいてい、川端文学をはじめすべての日本文学が、中国ではかなり少数の人にしか興味を持たれない原因の一つとなっている。多くの読者からの手紙では、作者の名前を見なくとも、ほんの数行読めば、それが日本文学だとわかってしまう、と書いてきている。日本文学の、あのねばねば、べたべたした感じは、読者には実に耐えられないのだ。

 村上春樹の賢いところは、彼が最初から、伝統的な日本語の持つこうした先天的な弱点を意識していて、洗練された、簡潔な言葉の使い方に格別の注意を払っている点だ。彼はかつて取材を受けた時、こう語っている。

 「僕はいろんな言葉のまわりについていた付属物を洗い流しちゃって、それを洗い流したままで抛りだしたような気がするんです」


 村上春樹の作品は、中国でよく売れた後、多くのメディアの注目を集めた。その結果、村上春樹は成功した。彼の書き方は明らかに他の日本の作家とは異なっている。このため中国の読者の眼には、彼の小説は日本の小説ではないように見える。そして日本の小説臭さが希薄であるからこそ、中国の読者が自然に彼の作品を受け入れ、たちまちその中に引き込まれてしまうのである。

 多くの人たちはみな、村上の小説がもっとも人を引きつけるのは、言葉に独特の風格を備えているところにあり、言葉の簡潔さ、流暢さ、ユーモア、節度ある抒情的な書き方が、読者に彼の作品を読む特有の喜びを与えるのだ、と言っている。『ノルウェイの森』を百回以上読んだという女子高生がやって来て、ほとんど一字一句間違えずにすらすらと、小説の一節を暗誦できると言った。

 さらに彼の作品にはユーモアがあることだ。普通の中国人の眼から見ると、日本人はユーモアのセンスに欠け、いつもまじめで、きちんとしている。日本の小説にもこうした傾向がある。だから中国人が日本の小説を読むと、圧迫感や重苦しさ、息苦しく、暗くて、意気消沈するような感じに、いつもとらわれる。さらに、想像力に乏しく、現実生活の中の、とるに足らない些細なことに拘泥して、くどくどと述べたてる。中国の普通の読者にとっては、これは耐え難いことで、最後までなかなか読み切れないのだ。

 しかし村上春樹は違う。彼はその筆の中に、感情をころしたユーモアと独特で飛躍的な想像力を持っている。これは比喩を使った手法の中に、十分表れている。思いつくままに、二つの例を挙げて見よう。

 「どれくらい私のこと好き? と緑が訊いた。『世界中のジャングルの虎がみんなバターになってしまうくらい好きだ』と僕は言った」

 「緑は長いあいだ電話の向こうで黙っていた。まるで世界中の細かい雨が世界中の芝生に降っているような沈黙がつづいた」

 このような比喩は、どの作品にもみな使われていて、絶えず独創的である。おそらく村上春樹はこうした点を、日本の伝統文学よりも欧米の現代文学作品から学んだのではないか。そしてこのような比喩は確実に、中国の読者の耳目を一新させ、ときには驚喜させるのだ。
 日本にこんな奇抜で優れた文学作品があったのか! と。とくに若い女の子は、胸をときめかせ、村上春樹の小説は「チョー クール(すごくかっこいい)」と思うのだ。一部の人は文章や著作の中で大なり小なり「村上文体」を模倣しはじめた。

 つまるところ、中国の詩文は昔から装飾性を重んじ、誇張して想像力をかき立てるやり方を好んできた。例えば「白髪三千丈」という表現は、日本人には訳の分からないものに見えるかもしれないが、中国人にとっては、きわめて良くわかる表現なのである。だから中国の読者にとっては、堅苦しくてユーモアや想像力に乏しい文章を受け入れるのは容易なことではないのだ。
 
 村上春樹の、簡潔で洗練された、とらえ所のない、知性豊かな、ユーモアに富む、ハッとするような文章は、まさに中国人の好みにぴったり合っていて、読みはじめるとまるで風が水面を渡るような感じを受けるのである。 共感呼ぶ孤独と無力感  次に、村上作品に特有の都会人の感覚が、中国の読者の共鳴を引き起こしたことだ。

 村上春樹の小説の主人公はこれまで、何かを努めて強調しようとはせず、社会の現実に面と向かって批判することもきわめて少ない。ほとんどいつも、ただ降りしきる小雨の中で、あるいは西洋音楽が響く中で、静かに黙々と自己の魂を見つめ、穏やかに、悠々と、優雅に、自由の中にも節度を持って、都会人の感覚を主張し、彼らの孤独、失意、無力感、空っぽな心の世界を主張しているにすぎない。日本の評論家、川本三郎はまさにこう言っている。

 「村上春樹は処女作以来一貫してシンプルにそしてリアルにこのことだけを言い続けていた。『人生は空っぽである』」

 ただし、村上春樹は一般的な、通り一遍の主張にとどまってはいない。彼の筆にかかると、孤独や失意、無力感、空虚さはもはや、天を恨んだり人をとがめたりするための不平や悲しみを表すものではなくなる。さらにまた、社会や他人にその発散の道を求めることもなく、内在する理知を働かせて、これを優雅なムードや、なんとも言えないすばらしい境地に昇華させ、場合によってはこれを愛でて審美する対象にさえしてしまうのだ。

 このように、孤独や無力感をうまく扱うところが、私のもっとも好きな、心の躍るところだ。孤独とか空虚とかいう類のものは、世間の眼から見れば価値のないものであり、否定すべきものだが、村上春樹の作品の中では、価値のある、肯定すべき要素になってしまう。実はこれは、作者が都会人のために提供した一種の生活のモデルであり、人生に対する態度なのだ。

 私が受け取った多くの読者からの手紙からみると、村上春樹が好きな人には、とくに年齢による差はない。その原因は、村上春樹が提示するこうした人生への態度が、現在の中国人、とりわけ都会の若者の日常感覚と、心の中の深いところにある感受性とにぴたりと一致したところにあるからだ。
 
 いまの中国の経済発展段階と社会の雰囲気は、村上作品の背景となっている日本の6、70年代や80年代とかなり似通ったところがある。改革・開放政策の始まる前や始まったばかりのころ、中国人の物質生活はかなり逼迫していて、文化生活もあまり多様化していなかった。人々の精神生活は単調で貧しく、生き生きとして個性豊かな、豊富多彩なものを、心や身体で体験することは少なかった。

 そしていま、大多数の都市住民の物質生活は「小康(まずまずの)状態」になった。さらに政治的環境は緩やかなものになり、民主化の進展は加速している。人々の眼は、外部の世界の輝かしさを羨望することから、心の中の世界で、ものごとを賞翫したり、省察したりする方向に変わり始め、生命の価値を悟ったり、把握したりする方向へ向かい始めた。

 しかしそれとともに、市場経済の早いリズムと大きな圧力が、従来の人と人との自然な関係を変えてしまい、人と人との間の意思の疎通や交流が十分でなくなり、人々は一日の張りつめた仕事で疲れ切った後で、自室に引きこもり、自己の脆弱な心を慰めることしかできない。人々が自分の心を慰めようとするとき、その孤独感や喪失感、空虚さが、村上春樹の小説が描く世界のものと、はからずも符合することを発見するのだ。

 そしてさらに重要なことは、村上春樹が人々に、いかにしてこれに対処するのかを習得させてしまうことだ。先に述べたあのようなやり方と同じように、つまり、無理して人と交わるなど外的な力に頼って孤独と空虚をかたづけようとするよりは、自我をコントロールして、内的な力によって穏やかに対処する方がよいということだ。その意味で、村上文学が示しているのは、孤独の美学であり、空虚の美学であり、喪失の美学であり、疲労困憊の美学である。

 村上作品は、都会に生きる小人物たちに、平凡な日常生活の中にも、心引かれるものやメルヘンがあることを見つけさせ、心の空間の「奥行き」をさらに広げさせるのだ。これによって喧しい俗世間の中にあっても、彼らに魂が憩うことのできる芝生を持たせ、そこで彼らが自らのアイデンティティーを確かめ、自分の頭で「私は誰、どこから来て、どこに行くのか」という先哲の思索を繰り返すことができるようにしたのだ。

 中国人が日本の作家の作品を読み始めて最初に感じるのは、いま読んでいるのは他人のことであり、日本人のことであり、つまり自分とは無関係の人間や事柄について読んでいるのだ、ということだ。しかし村上作品を読むと、自分のことを読んでいると感じ、自分の精神世界と心の天地の中を遊び回って、ついに自分自身を見つけたと感じるのだ。

 一言で言えば、村上文学は、中国の都市に住む青年男女の心の共鳴を引き起こした。これがまさに、村上春樹の小説が中国で長くブームを続け、衰えを見せないもっとも根本的な原因である。

 村上春樹君が今後も絶えず新作を発表し続けるよう祈りたい。(2001年10月号より)
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9月22日

2006年09月22日 18時55分42秒 | エトセトラ
【9月22日の市場概況】日経平均終値:15,634円(-199円
 日経平均株価は反落。8月11日以来1カ月半ぶりの安値水準だった。
 米フィラデルフィア連銀が米国時間21日に発表した9月の製造業景気指数が大幅に悪化。同日の米市場では米景気の先行き不透明感から米国株とドルが売られた。

 一方、国内で内閣府と財務省が朝方に発表した7~9月期の法人企業景気予測調査で大企業全産業の景気判断指数(BSI)が3期ぶりに改善したが、株価の下支え効果は限られた。

 株式需給の悪化懸念が市場心理を弱気に傾けた。日経平均が4月7日に年初来高値を付けた局面で信用取引を利用して株式を買った投資家の返済期日(6カ月)が近づいているほか、10月決算期が多い米ミューチュアルファンド(投資信託)による節税目的の売りに警戒感が根強い。

【株式投資の記録:9月22日】
 取引しませんでした。
 

 9月末の中間配当狙いの買いで株価は上がるのでは、と思っていたのですが見事に予想が外れました。おかげで今日も損出しする踏ん切りがつきませんでした。
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