起きて半畳 寝て一畳

株式投資の記録を中心に、日々感じた事や考えたこと、読んだ本のことなどなど

陳舜臣監修・図説・古代中国5000年の旅

2007年04月05日 22時10分03秒 | 本・陳舜臣
 先週の土曜日、古本屋でやっとこの本を見つけて買い求めることができました。値段は千円ちょうどでした。

〔図説・古代中国5000年の旅〕陳舜臣監修 定価5500円 大判箱入りハードカバー(日本放送出版協会)
 

 上の画像は以前ヤフー・オークションに出品されていたものです。希望落札価格は確か千円だったと思います。千円程度のものをオークションで落札するのは、振り込み手数料や送料を考えると高い買い物になるので応札はしませんでしたが、その後、古本屋をのぞくたびに置いてないかなと探してみるようになったのですが、ぜんぜん見つからなかった本です。

 ここまで書いてきて、この記事を書くブログを間違えてることに気がつきました。もともとこの記事は、私のもうひとつのブログ【陳舜臣「中国の歴史」読書日記】に書くつもりだったものです。
 面倒なのでこのままこちらに投稿します。。
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二つ目のブログ開設

2006年10月20日 23時04分53秒 | 本・陳舜臣


 新しく【陳舜臣「中国の歴史」読書日記】というブログをFC2に開設しました。
 「FC2ブログ」にしたのは、この goo ブログで使っているユーザーIDと同じ「kobe77」でユーザー登録ができたからです。

 タイトルはもしかすると『陳舜臣「中国の歴史」私抄』に変わっているかも知れません。実は「私抄」と「読書日記」の間を既に3回ほど行ったり来たりしていて、いまだにタイトル名が固まっていません。

 『陳舜臣「中国の歴史」私抄』というタイトルは、堀田善衛さんの名著「定家明月記私抄」の猿マネです。それだけに「私抄」という言葉をタイトルに使うのは格好良すぎて少々荷が重い。ということがあって、今は「読書日記」という言葉を使っています。

 新しいブログは、週1回週末の土曜か日曜日の更新を目標にしています。
 この「起きて半畳 寝て一畳」はこれまでどおりのペース・内容で気ままに続けていきますので、よろしくお願いいたします。

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陳舜臣「日本人と中国人」第八章われら隣人 ⑧

2006年02月08日 21時47分52秒 | 本・陳舜臣
7日の続きです。
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陳舜臣「日本人と中国人」(集英社文庫)
第八章われら隣人
【竜と鳳】
[長短相補う国家、日本と中国](220ページ)

 一人の人間にすべての力を集めて、その体制を維持しようとする皇帝的人間主義、そして圧し潰されようとしたときには、人間性を回復するために、体制を砕こうとする人民的人間主義。――この二つの人間主義が、神様を棚上げして、二千年にわたって中国の歴史をいろどることになった。

 中国思想は、皇帝の独裁を、聖王であるという条件でゆるし、革命を人間性回復のためという条件で容認する。理念の二重性なのだ。

 日本では機構あるいはしきたりの上の権力二重構造で自己を制御し、中国では理念の二重性と竜鳳の交替で蘇生をくり返した。

 機構は『実』であり、理念が『名』であることはいうまでもない。
 このように、長短相補うような国家を、たがいに隣国として存在させているのは、摂理のような気がする。

 どちらがすぐれ、どちらが劣るかという問題ではない。一方が一方を倣って、それに同化してしまっては、なにもならない。摂理に対する冒瀆(ぼうとく)であろう。

---------------------------------------------------------------------
 完
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陳舜臣「日本人と中国人」第八章われら隣人 ⑦

2006年02月07日 21時01分03秒 | 本・陳舜臣
6日の続きです。
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陳舜臣「日本人と中国人」(集英社文庫)
第八章われら隣人
【竜と鳳】
[人間の力をもってすればすべてが可能](218ページ)

 話をこの前に途切れたところから導入することにしよう。
 自殺のことである。
 高官が処刑されずに自殺するのは、伝統的な形式であったが、漢の武帝はこれにいささかの訂正を加えた。

 ――大臣罪有らば皆自殺し、刑を受けず。武帝の時に至りて、稍(や)や獄に入らしむるは、寧成(ねいせい)より始まる。   『漢書 賈誼伝(かぎでん)』
 とあるように、寧成は九卿の身で、頭を剃られ首枷(くびかせ)をはめられる刑を受けた。
 漢の武帝はこのほか公孫賀など三人の丞相(じょうしょう)を処刑または獄死させている。
 大臣を処刑しないという『形式』を、武帝はうち破ったことになる。
 人間の力をもってすれば、どんなことでもできる。怒り狂った黄河の水もしずめることもできる。――この人間の力に対する過信が、中国の人間至上主義を生む。

 だが、すべての人間に無限の力があるわけではない。聖人または皇帝(古代においては、この両者は一致していた)にして、はじめてその力が与えられる。漢の武帝は、このようなウルトラ人間主義――皇帝的人間主義の権化だったといえよう。

 人間主義の生んだ『形式』さえ、人間の力によって粉砕できるのだ。
 人間の力をこれほど大きくみたが、それにたいする怖れもあった。絶大な力を集めた皇帝の暴走などはとくにおそろしい。

 聖人が帝王であるあいだはよかったが、かならずしもそうではなくなった。覇王続出の時代に、それをチェックする思想があらわれたのはとうぜんであろう。
 孟子(もうし)である。
 彼は人民が最も貴く、社稷(国家)がそのつぎで、君主はまたそのあとだ、と説いた。これは革命容認の思想であり、皇帝的人間主義に歯止めしたのにほかならない。
『孟子』を積んで日本へ来る船はかならず沈没するという言い伝えがある。日本は権力の二重構造で、ちゃんと歯止めがうまく行っているのに、そこへ革命思想という別の歯止めなど不要であろう。

 日本が安泰なのは、二重構造の一方が絶対であるからだ。その絶対性をゆるがすかもしれないので、革命容認の思想はとくに危険とみなされる。

 武帝以後は、儒教の影響によって、人間至上の色合いがさらに濃くなる。と同時に、それがウルトラ人間主義となって、皇帝の権力も強化された。
 武帝は儒教を採用することで、皇帝の独裁体制をつくりあげたつもりであろう。
 だが、その下におなじ儒教のもつ革命思想という爆弾を埋めたことにもなる。

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 続く
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陳舜臣「日本人と中国人」第八章われら隣人 ⑥

2006年02月06日 21時38分03秒 | 本・陳舜臣
4日の続きです。
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陳舜臣「日本人と中国人」(集英社文庫)
第八章われら隣人
【竜と鳳】
[なぜ日本では根底的な変革がないのか](215ページ)

 戦闘集団は滅びやすい。中国史上にあらわれる塞外(さいがい)民族の運命がそうだ。あとどうなったのか、わからないのがすくなくない。
 ひとり日本は戦闘集団の形をのこして、今日まで生きのびてきた。最大の理由は、掠奪や遊牧でなく、農耕に生活の基盤を置いていたからであろう。

 蒙古などは元朝をたてても、百年も中国統治がつづかなかった。満州族の清が二百数十年と、かなり長く続いたのは、彼らが豚を飼っていたからだ。そのために、満州族は遊牧民族の中で、『豚飼い』と、鼻つまみにされていた。羊を飼えば脚が速く、移動はかんたんである。だが、豚はノロノロしていて、豚の大群を率いての移動は、考えただけでもうんざりする。だから、移動が少なくなる。つまり半ば定着した生活をしていたのだ。これが、のちに王朝をたてて定着生活をするうえでも、おおきなプラスになったのだろう。

 西方でも、漁業を営んでいたセルチュク・トルコの国家が、蒙古諸汗国より長く続いたのがそれに似ている。河の漁であるが、漁場はきまっているので、純粋の遊牧民よりは定着性があったわけだ。

 豚飼いや漁業にくらべて、農耕はさらに定着性が強い。
 農耕が日本を今日まで支えてきた。
 長つづきしたということは、さきにのべた日本人の『保存の天才』を養(そだ)てた一つの要素だが、それがすべてではない。

 正倉院御物がのこっていることは、日本という国が今日までのこっているだけではなく、根こそぎの破壊がおこなわれなかったという条件が必要である。
 大流血がすくなかった。
 海のおかげで、異民族との戦いがなかったのも大きな理由であろう。

 ほかにも考えられる理由がある。
 戦闘集団にとって、なにが大切かといって、団結より大切なものはない。
 軍扇のままに動くから強いのだが、もしそれを振る人がいなくなればどうなるのか? 指揮者は失敗することがある。失敗した指揮者は追放されるだろう。そんなときは、すぐにかわりの人がみつかる。だが、その人をみつけ、それに実権を授けるのは誰であろう?

 有機的であればあるほど、戦闘集団はこのようにして絶対的な権威をもつ首長を必要とする。
 それは、失敗することのない、けっして追放されることのない――という条件をあてはめると、シンボル的存在とならざるをえない。
 『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』を再びひもとこう。有名な女王のくだりである。――

 其の国、本(も)と男子を以って王と為し、住(とど)まること七,八十年。倭国乱れ相攻伐(こうばつ)すること歴年、乃(すなわち)共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼(ひみこ)と曰(い)う。鬼道に事(つか)え、能(よ)く衆を惑わす。年已(すで)に長大なるも夫壻(ふせい)無く、男弟有り、佐(たす)けて国を治む。・・・・・・

 卑弥呼というのは、絶対的、そしてシンボル的首長である。彼女は紛争をしずめ、『団結』を守るために立てられたのだ。
 それを佐けて国を治めていた男弟というのは、扇を振る人物にほかならない。
 白鳥庫吉博士は、卑弥呼は『みこ』で、男弟は『かんなぎ』であるとした。
 
 おなじ関係は、日本歴史でも、
 天照大神(あまてらすおおみかみ)と天児屋根命(あめのこやねのみこと)、建御雷神(たけみかずちのかみ)
 神功(じんぐう)皇后と武内宿禰(たけのうちのすくね)
 推古天皇と聖徳太子
 斉明天皇と中大兄皇子
 と類例は多い。

 それが構造化されて、天皇と摂政関白、天皇と幕府などの関係にまで伸びている。
 一方はシンボルであり、一方は扇振りである。一方は追放されることのない絶対者であり、一方はなにかあれば失脚するかもしれない身分である。

 日本に変革がなかったわけではない。だが、それは絶対者には及ばないような機構になっている。だから、ひっくり返しは、根もとからおこなわれない。そのようなひっくり返しをした人がいないということは、超人的英雄が出現しにくいということであり、変革のスケールが大きくないことなのだ。

 根こそぎの破壊がそれによって防げたので、中国で亡佚(ぼういつ)した本が日本でみつかったり、正倉院御物がのこっていたりするのである。

---------------------------------------------------------------------
 続く


「日本は戦闘集団の形をのこして、今日まで生きのびて・・・」とありますが、陳舜臣さんが日本のどの部分を見て"戦闘集団の形"と言っているのか、いまいちピンときません。

 「満州族の清が二百数十年と、かなり長く続いたのは、彼らが豚を飼っていたからだ」というのは、初耳の興味深い説です。それと、「そのために、満州族は遊牧民族の中で、『豚飼い』と、鼻つまみにされていた」というお話は、なんだかマンガチックな面白さがあって、笑ってしまいました。
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陳舜臣「日本人と中国人」第八章われら隣人 ⑤

2006年02月04日 12時15分50秒 | 本・陳舜臣
2日の続きです。
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陳舜臣「日本人と中国人」(集英社文庫)
第八章われら隣人
【竜と鳳】
[竜的人間に鳳的性格を呼びさました毛沢東](212ページ)

 竜はおなじみの、あの怪奇な想像上の獣である。鳳もまた想像上の鳥だが、形状はそれほど怪奇ではない。鳥類図鑑に鳳がまぎれこんでも、ついうっかりと見すごしてしまいそうだ。が、もし動物図鑑に竜の絵がはいっておれば、小学校の子どもでも、
 ――こんなのは動物園にもいないや。
 と、ただちに指摘するだろう。

 怪奇な『竜』の部族はおそろしく、実在の鳥とあまり異ならない『鳳』の部族はおとなしいのか?
 いや、じつはその正反対なのだ。
 竜も鳳も、もとは部族のシンボル・マーク、すなわち民俗学でいうトーテムであろう。今でも未開の社会では、自分たちを犬の子孫だとか、馬の子孫だなどと信じて、その絵を神聖なシンボルにしている例がある。

 部族の間で戦争がおこる。犬の部族が馬の部族に勝てば、後者はおのれのシンボルを失い、犬の旗じるしの下で、奴隷などにされてしまう。ところが、両者がそれほど激突せずに、ある程度妥協するなら、犬と馬のアイノコのような別の動物をシンボルに採用して、たがいに共存をはかろうとするだろう。

 竜の図をよくみると、頭は馬であり、そこに生えている角は鹿である。体は蛇であり、足の爪は犬らしい。全身のウロコは魚類のものなのだ。つまり。馬、鹿、蛇、犬、魚など、さまざまな種類の部族が、相手のシンボルを消滅させるほどの、はげしい戦争をせずに講和し、その結果つくられた連合旗が、ほかならぬ竜であった。平和的連合のシンボルであるから、これはけっしておそろしいものではない。

 それにくらべると、鳳は実在の鳥といってよいほどすっきりしている。すっきりしているのは、妥協を排して、まっしぐらに突進してきた結果ではあるまいか。犬の部族を征服すると、犬の痕跡を完膚なきまでに消し去る。蛇の部族を負かすと、蛇らしいものは踏みにじってしまう。それで、おのれのもとのすがた――『鳥』を保ってきたのである。このほうこそおそろしいのだ。

 『竜鳳』とならべて、中国では皇帝のシンボルのようになった。皇帝の顔を『竜顔』といい、皇帝の乗り物を『鳳輦(ほうれん)』と称する。聞一太の説によれば、夏王朝は竜族で、殷王朝は鳳族であったという。農耕民族が竜で、遊牧民族が鳳であるともいえよう。

 地理的には――これは異論もあるだろうが――大雑把にいって、南方は竜で、北方は鳳である。きびしい作法を強要する儒教の孔子は鳳で、人びとの自由をたっとぶ老子は竜である。げんに孔子は老子に会ったあと、『竜を見た』と言っている。楚の狂者の接輿(せつよ)が孔子のそばを通りすぎるとき、『鳳よ、鳳よ、何ぞ徳の衰えたる――』と呼びかけることが、『論語』の『微子篇』にみえる。

 これも一般論であるが、中国的性格として、いま表面にあらわれているのは、おもに妥協によって怪奇な形になった『竜』的性格である。しかし、妥協を知らぬ『鳳』的性格がかくされていることも見落としてはならない。

 ベンダサンのことばは、つぎのように言いかえるべきだ。
 ――竜的性格の強いいまの中国人に、鳳的性格を呼びさますように働きかけた。・・・・・・

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 続く


「竜が平和的連合のシンボルである」というのは面白い(興味深い)お話です。 
 「中国的性格として、いま表面にあらわれているのは、おもに妥協によって怪奇な形になった『竜』的性格である」とありますが、解説によると、このエッセイが出版されたのが昭和46年8月のことです。当時は毛沢東も周恩来も健在で、アメリカのニクソン訪中が決定し、翌昭和47年秋には、田中訪中が実現し、日中国交正常化の共同声明が発表されています。

 それにしても、毛沢東はどうして、「竜的性格の強い(当時の)中国人に、妥協を知らぬ鳳的性格を呼びさますように働きかけた」のだろうか?
 確かに今の中国をみていると、おそろしい『鳳』的性格が強くなっていると思う。
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陳舜臣「日本人と中国人」第八章われら隣人 ④

2006年02月02日 22時05分45秒 | 本・陳舜臣
1月31日の続きです。
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陳舜臣「日本人と中国人」(集英社文庫)
第八章われら隣人
【竜と鳳】
[中国人はキャンペーン型民族か?](211ページ)

 気にかかる観察をする人がいる。
 イザヤ・ベンダサンという人が、『日本人とユダヤ人』という本の中で、
 ――毛沢東のことを考えると、彼は、孫文が流砂の民と評したこの民族を、一つのキャンペーン型民族にかえようとしているかに見える。端的にいえば、中国人を日本人に改造しようとしているのであろう。
 と述べている。

 キャンペーン型民族というのは、『追いつけ、追い越せ!』とか『打倒××』といったスローガンで突進する――いや、もうそのようなスローガンの必要さえなく、あるいは独裁者の指導もなしに、全員一致して同一行動の採れる民族のことである。

 さきにも述べたように文化大革命はいたって中国的なものだ。なにか変えなければならないときは、何年もかかって説得運動をするのだから、これがもし日本であれば、軍扇のひと振りで解決される。

 では中国的な方法で、中国人を日本人に変えようとするのか?
 ベンダサンの思いすごしである。
 中国ではむかしから、アウタルキー(自給自足)が理想であった。
 十八世紀の末に、通商条約を結ぼうとして北京までやってきたイギリス使節にたいして、乾隆帝は、
 ――天朝は物産豊盈(ほうえい)、有らざる所なく、原(も)とより外夷(外国)の貨物に藉(よ)って以って有無を通ぜず。
 という勅諭を与えて追い返した。

 なんでもあるのだ。――いまは失われているかもしれないが、かっては何でもあったというのが、現在でも中国人の信念である。だから、お手本も外国に仰ぐことはない。中国人は自分たちを改造しようとするときも、モデルはもともと自分のうちにあったものからえらぶだろう。

 戦後暗殺された聞一太(ぶんいつた)という詩人は、古代史家でもあったが、彼の論文をみると、中国ではむかし竜の部族と鳳の部族とが、交替して政権の座についた、といった意味のことが説かれている。

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 続く
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陳舜臣「日本人と中国人」第八章われら隣人 ③

2006年01月31日 21時08分11秒 | 本・陳舜臣
29日の続きです。
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陳舜臣「日本人と中国人」(集英社文庫)
第八章われら隣人
【名と実】
["清"の歴史が編纂されるのはこれから](208ページ)

 なにが間違っていてもかまわないが、歴史だけは誤謬は許されない。なぜなら、それは人間がすべてを托すものだからである。
 歴史は人間にとって、神聖な土俵である。それが歪んでいては、はじめから勝負ができないではないか。
 現実的といわれる中国人が、ときに不可解と思える行動に出るのは、たいてい「歴史」を意識したのだと思えば間違いない。

 『史記』を筆頭とする正史は二十五史であるが、このうち『新元史』などは二十世紀になってから完成したものだ。じつに王朝滅亡後五百年を超える。
 今年(昭和四十六年)は辛亥(しんがい)の年だから、清朝が滅びてちょうど六十年になるが、正史の清史はまだ編纂されていない。文化大革命で批判を受けた『三家村札記』のなかに、そろそろ清朝の正史を編もうという提案があった。明史のごときも、百年以上かかってできたのだから、清史が書かれるのがとくに遅いけではない。

 だから、現在の自分およびそのまわりを歴史に書くのは、いまそのあたりで万歳、万歳と叫んでいる連中ではない。政権がなんども交替して、自分にたいして情け容赦もない後代の学者が担当するのだ。
 政治的人間は、そのような歴史を意識する。
 キリスト教徒が、『神かけて・・・』というところを、中国人は『歴史にかけて・・・』というだろう。

 歴史尊重主義が極端になると、まちがいなく形式主義になる。
 しかし、この形式主義があったからこそ、中国は一つにまとまってきたのだ。どんなに混血しても、外来の侵略者がかきまぜても、中国人意識――中国の文明を奉じるという形式さえ整っておれば、それを中国人と認めてきた。

 かって中国が帝国主義列強の餌食になっていたころ、
 ――中国は国家ではなく、ただの地域の称呼(しょうこ)にすぎない。
 という発想法から、しきりに中国分割論が唱えられた。

 中国の歴史でも、三国分立の時代もあれば南北朝もあった。だが、そのような分裂の時代の人たちも、それをけっして常態とは思わなかった。
 ――ほんとうは一つの国だ。
『二つの中国』を、中国人が嫌悪するのは本能的なもので、それは列強の切り取りご免時代の、にがい記憶につながる。

 満州族が政権を取って、人民に辮髪を強制したとき、それを拒んで何万という人が殺されていった。髪型は形式であるが、そのために人は死ぬことができる。
 中国人は現実的かもしれないが、けっして実利的な人間ではない。かんじんのところでは、むしろ実より名を取る。――後代の歴史家の筆を意識するときがそうなのだ。
---------------------------------------------------------------------
 続く

面白い意見だと思いますが、応用はかなり難しそうですね。
 "中国人は現実的かもしれないが、けっして実利的な人間ではない。かんじんのところでは、むしろ実より名を取る。――後代の歴史家の筆を意識するときがそうなのだ"とありますが、実より名をとる『かんじんのところ』というのが、結局は結果論でしか分わからないもののような気がします。
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陳舜臣「日本人と中国人」第八章われら隣人 ②

2006年01月29日 22時43分51秒 | 本・陳舜臣
26日の続きです。
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陳舜臣「日本人と中国人」(集英社文庫)
第八章われら隣人
【名と実】
[中国人が最も信頼するものは"歴史"](206ページ)

 中国人が最も固定しているものとみて、それになら、自分をすっかり預けてもよいと考えているものは何であろうか? キリスト教徒ならそれは「神」のはずである。神にも代わるべきもの、中国人の魂のよりどころというべきもの。――

 それは『歴史』ではあるまいか。
 書かれた歴史、これから書かれるであろう歴史を、人間生活そのものとして尊重する。大袈裟にいえば、歴史に記録されなかった人間は、生きていなかったのとおなじである。歴史に書かれなかった行動は、そんな行動がなかったのとおなじだ。――中国人の心理のなかには、そのような歴史主義がひそんでいる。

 司馬遷は『伯夷伝(はくいでん)』の論賛(ろんさん)として、彼のような隠士はほかにもいたのだが、多くは名が消えて今では賞賛されないことを述べ、
 ――悲しい哉(かな)
 と、ほんとうに悲しげに結んでいる。
 ――青史(歴史)に名をとどめる。
 これが男子の本懐なのだ。
 まだ志を得ない書生は、
 ――千年の史策、無名を恥ず。
 と、自分を励ましたものである。

 歴史を絶対視する一つのエピソードを紹介しよう。
 春秋時代、斉の国の実力者崔杼(さいじょ)が、主君の荘公(そうこう)を殺した。これは紀元前548年のことである。
 このとき、斉の史官は、
 ――崔杼、其の君を弑(しい)す。
 と記録した。
 崔杼は怒って、その史官を殺してしまった。すると、史官の弟が兄のあとをついで、おなじことを書いたので、崔杼はまたそれを殺した。
 史官にはまだもう一人弟がいた。当時は官職が世襲であって、一族が同じ仕事に就いていたようだ。その弟も政府の記録におなじことを書き入れた。
 さすがの崔杼もあきらめてしまった。
 一方、地方にいた史官が、中央の史官がことごとく殺されたという噂をきいて、記録用の竹簡を抱いて都へ急行した。事実を書きとめるためなのだ。
 しかし、最後の史官がすでに記録したときいて、安心して田舎にひきあげた。――
 これは『春秋左伝』にのっている。
 筆を曲げるよりは、死をえらぶという、勇気のある歴史家の物語として、よく引用された史実である。
 殺された史官、死を覚悟しても記録しようとした史官、あるいはわざわざ田舎から駆けつけた史官たちは、たしかに職務に忠実な人たちであった。
 しかし、このエピソードからは、われわれはそうした修身的教訓だけを教えられるのではない。
 歴史が中国人にとって、どういう意義をもっているか、このエピソードはそれを如実に告げている。

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 続く
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陳舜臣「日本人と中国人」第八章われら隣人 ①

2006年01月26日 20時11分34秒 | 本・陳舜臣
 お正月に買った陳舜臣さんの「日本人と中国人」(集英社文庫)はやはり昔読んだことがありました。尾崎秀樹さんの「解説」によると、「昭和46年8月に祥伝社から、ノン・ブックの一冊として書下ろし刊行された」とありましたが、「祥伝社ノン・ブック」という言葉でどんな装丁の本だったか思い出しました。

 この本の最終章の第八章は「われら隣人―長短相補う国家、そこに摂理が・・・」と題して次のような構成になっています。

(1)名と実(204ページ)
  ①顔をふくとき、タオルを動かすかあるいは・・・
  ②中国人が最も信頼するものは"歴史"
  ③"清"の歴史が編纂されるのはこれから
(2)竜と鳳(211ページ)
  ①中国人はキャンペーン型民族か?
  ②竜的人間に鳳的性格を呼びさました毛沢東
  ③なぜ日本では根底的な変革がないのか
  ④人間の力をもってすればすべてが可能
  ⑤長短相補う国家、日本と中国

 30年以上昔に書かれたものですが、今読んでもなかなか興味深い読み物になっています。例によって、文章の練習を兼ねて書き写してみたいと思います。
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陳舜臣「日本人と中国人」第八章われら隣人(集英社文庫)
【名と実】
[顔をふくとき、タオルを動かすか、あるいは・・・](204ページ)

 実を取って名を捨てるか、名を取って実を捨てるか。―双葉山が強いか大鵬が強いか、に似た子供っぽい設問であるが、わかりやすく、どちらかに割り切ってもらおう。
 
 日本人は前者で、中国人は後者である。
 そういえば、物言いがつくかもしれない。
 だが、能率主義の軍事的集団員である日本人は、名と実をならべられると、ためらわずに『実』をえらぶ。それがわるいというのではない。勝つか、負けるか、ギリギリの線を行く集団であれば、そうしなければ生きのびることはできないのだ。

 終戦直後の世相をみれば、思い半ばにすぎるだろう。
 天皇陛下万歳が、一夜にして民主主義であり、鬼畜米英は、一転してハローになった。
 明治維新のときもそうである。廃仏棄釈で奈良のお寺の僧侶に、明日から春日神社の神主になれと新政府から命令が出ると、「はい」と、そのとおりにして、仏像を風呂の焚きつけにしてしまったという。

 歴代幕閣の首班を出す井伊藩では、幕府の旗色わるしとみると、ほとんど反対者もなく勤皇方になってしまった。
 信長から秀吉、そして家康へ。―当時の政権交代にあっても、織田恩顧、豊家恩顧の諸将も、右へならえで、あっさりとなびいてしまった。

 さらにいえば、現代の日本の政界も大体おなじではあるまいか。
 もし『名』が尊重されるようなことがあるとすれば、それは『実』を取るためのワン・クッションであるか、あるいはそのための手段ということが多い。

 仏教もそうである。中国の天台教学は、理法に即した真理、すなわち『理円』を重んじるが、それが日本にはいると、事象に即した真理『事円』のほうが重視される。道元も白隠もそうであった。

 理が名で、事が実であると、かんたんに置き換えられないが、事情は似ている。
 理法にはきまった経路があるが、事象は刻々と変化するものだ。『名』があるていど固定しているのに、『実』のほうはうごく。

 洗顔のとき、日本人はタオルを顔にあてて、タオルをうごかす。中国人はタオルを固定させて、顔の方をうごかす。――これは、例外の少なくない習性であるが、やはり性格の差というものがあらわれているようだ。

 日本人はタオルのような『物』をうごかしたり、使ったりするのが上手である。中国人はそのような道具さえ固定させてしまう。
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相手が陳舜臣さんでなければ、「それじゃあ、中国人は歯を磨くとき、歯ブラシを固定させて、歯の方をうごかすのか?」と、突っ込みを入れたくなるようなお話ですネ。
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