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陳舜臣「唐詩新選」牡丹

2006年01月15日 13時06分21秒 | 本・陳舜臣
 陳舜臣さんの「唐詩新選」(中公文庫)をパラパラとめくっていたら、「牡丹」と題する章に目がとまり、そのまま章の最後まで読んでしまいました。
 その日本語の肌さわりのよさ、滑らかさは正に一級品と思います。早速その文章を書き写してみようと思ったのですが、漢詩のところで漢字変換にかなり手こずりそうな予感がしましたので、やや及び腰になっています。

とりあえずはその書き出しの部分だけをご紹介します。
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陳舜臣「唐詩新選」牡丹(中公文庫)61ページ

 いま日本で「花見」といえば桜をみることだが、「花は桜」と定着したのは、そんなに古いことではないという。「万葉集」では、梅をよんだ歌は百十八首あるのに、桜の歌は四十四首しかない。梅と桜が逆転したのは『古今和歌集』からである。花の代表は、時代によって変わるようだ。

 中国では辛亥革命の後、国花を定めることになり、梅派と牡丹派が大論争したといわれる。「花は梅」なのか「花は牡丹」なのかで、意見が分かれたのである。軍配は梅にあがった。華麗な牡丹もよいが、建国早々、難問が山積みしている時代では、寒さにめげず、春にさきがけて咲く梅をとるべきである、という判定であった。

 きびしい時代には、厳しさに雄々しく耐える花が好ましい。絢爛豪華な唐という時代は、おなじ意味で、牡丹がよく似合ったはずである。だが、「牡丹」という名称は以外に新しく、唐以前にはなかったといわれている。「芍薬(しゃくやく)」は古くからある名称で、紀元前五世紀ごろ、孔子によって編まれた『詩経』にすでにみえる。こちらのほうが、きわめて古いので、牡丹ははじめ自前の名がなく「木芍薬」と呼ばれたとする説がある。

 『酉陽雑俎(ゆうようざっそ)』のなかに、謝霊運(385-433)の文集に、永嘉(えいか)(彼が太守として赴任した浙江温州)の竹間に牡丹が多い、という句がみえるとある。謝霊運の『唐楽文集』は大部分が亡佚して、右の句がどこにあったのかわからない。

 段成式は隋の種植法をみたが牡丹はのせていないという。宋の李石の『続博物志』には、謝霊運のいう牡丹とは、永嘉という土地からみて、芍薬のことだろうと推測している。呉越(江蘇・浙江)には芍薬が多かった。とくに揚州は、「旧譜に載せるもの三十九種」といわれたほど芍薬の名所であった。

 北斉の画人楊子華が言及したとか、隋の宮苑に移植されたといった話が伝わっているが、いずれも六世紀で、唐に近い時代である。

 どうやら牡丹は唐以前は、きわめてかすんだ存在であったらしい。詩文の中で誰もとりあげてくれない。それが盛唐以降になると、にわかに「花のなかの花」になったのである。文人たちにかえりみられなかった牡丹が、「時代」に迎えられたのであろう
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 調べてみると、台湾では今も梅が国花になっていました。
 梅は「冬の寒さに耐える花であり、寒ければ寒いほど美しく咲くことから、強さと清らかさを持つ花を、国の象徴としたのである。また3つの蕾と5つの花弁を持っているため、三民主義(国父・孫文が唱えた思想)と五権憲法(中華民国は5権分立を採用している)を象徴している」そうです。

 共産中国(中華人民共和国)はどうなのかというと、一応は牡丹が国花のようですが、現在、改めて国花を制定する作業が行われている由です。牡丹、蓮、菊、梅、蘭が候補にあがっているそうです。
コメント (2)
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