起きて半畳 寝て一畳

株式投資の記録を中心に、日々感じた事や考えたこと、読んだ本のことなどなど

みずほ ブリジストン 日韓断想③

2005年07月11日 19時35分32秒 | 本・司馬遼太郎
【7月11日の市場概況】日経平均終値:11,674円(+108円
 日経平均株価は5営業日ぶりに反発。前週末の米株式市場でダウ工業株30種平均が146ドル高と大幅上昇した流れを引き継ぎ、東京株式市場も幅広い銘柄に買いが入った。

【株式投資の記録:7月11日】
 ①みずほFG
  ・@498,000-で10株買建しました。
  ・@493,000-で10株買建しました。
 ②ブリジストン
  @2,125-で2,000株買建しました。
 

【司馬遼太郎:日韓断想③(文春文庫「以下、無用のことながら」より)】
 昨日の続きです。
  『』が原文です。

  『日朝両民族は、漢字という「文明」を共有した。これは私の両民族風景における中景にあたるだろう。漢字は、いうまでもなく中国の発明である。
 ――便利だから、他民族も利用する。
 というのが文明である以上、東アジアで漢字ほど重宝がられた文明はなかった。』

  『古代、中国は広大な農業の適地であったために、巨大な文明を興すことができた。漢民族は本来のものとしては存在せず、いわば醸成された。周辺にいて多様な文化(特殊なもの)をもつ諸民族が、食と生活の安定をもとめて流入してきた。考古学的に最古の王朝とされる殷も夷(野蛮人)であり、それを倒した周もまた別の夷であったという説がある。私は正しいと思っている。夷とは、この文書の定義でいえば、自分なりの「文化」を持つひとびとである。中国にはいまでも五十余種類の少数民族がいるが、それらの先祖が中国大陸という巨大なるつぼにそれぞれの文化を持ちこんで熔かしあった。その結果の産物が漢民族であり、中国文明である。』

  『――文明は、たれもが参加できるもの。
 と、さきに触れたが、中国という広大な土地と多様なひとびとは「文明」でなければ統治されがたいのである。一例をあげると、中国は多様な言語群をもっている。音の多様さを無視して、意味をもつ形(漢字という表意文字)でもって互いに理解しあうという文明を採用した。もし漢字という文明の利器が無かったら、中国は統一された国家としては決して存在しなかったろう。また漢字は、文章を構成する。漢文は中国各地に通用する共通の言語となり、文章で意思を通じあった。これによって高度に文章が発達したが、副作用として高い表現力をもつ口語がながく未発達の段階にとどまり、中国史における文明の停頓の一原因にもなった。しかしべつの言い方をすれば、名誉或る停頓であったともいえる。なぜならばわれわれに漢文という巨大な言語遺産をのこしてくれたからである。』

  『漢字にふれたついでに文明としての儒教にもふれておかねばならない。
 中国の戦国のころ、儒教はあるいは二流の勢力の一教団にすぎなかったかもしれない。漢の武帝(紀元前156~前87)が董仲舒の意見を採用し、国内の思想統一のために儒教を国教とした。儒教は、文明になった。異民族でも儒教に参加すれば華(文明)になる。』

  『本来の儒教は、後世の儒者(とくに李氏朝鮮の儒者たち)が精密にし、厳格にしたほどには、むずかしいものではなかった。孝を中心とする家族倫理で、そこから派生して礼がうまれる。いわば、それだけである。そのように、枝葉の神学論争を必要としない簡単なものでなければ「文明」とはいえないのである。漢民族のたれもがこれに参加し、"華人"になった。後世、本家以上に儒教の優等生になった李氏朝鮮は、小華と自称したり、中国から東方礼儀の国とよばれたりしたが、要するに朝鮮も儒教イデオロギーの上での華である。』

  『この点、大海をへだてた島国である日本は"華"であったことは一度もない。
 本来、おなじウラル・アルタイ語族である朝鮮と日本の社会体質が決定的にちがってくるのは、両国における儒教の密疎による。朝鮮においては濃密であり、日本においては粗放でしかない。』

  『一例をあげる。日本は李氏朝鮮勃興期の十四世紀末から十五世紀にかけて大いに対明貿易をおこなった。日本から持ち出すのは金・銀であり、明から買う品目の筆頭は、官貿易、私貿易を問わず、つねに書籍であった。それほど日本において書籍の需要が大きかった。そのくせイデオロギーとしては儒教を受容していない。日本の体制は、強いて中国思想史の用語をあてはめれば法家というべきものに近い。』

  『「倭」という言葉は、古代は日本の地理的呼称だったが、その後は中国語でも朝鮮語でも蔑視語である。私は、儒教のたてまえからいえばそういう蔑視語があってもいいとおもっている。儒教は華夷の美を立てている。"華"の内部に居る場合のみ、人間は人である。儒教では"華"のそとにいる人間は「ある種の人間」もしくは「ケモノに近い人間」とされる。倭も人間そのものではなく、どうよんでもいいが、やはり倭とよぶしか原理上しかたあるまい。』

  『「海游録」という本がある。十八世紀初頭、徳川日本が招待した形式の外交官(通信使)として来日した申維翰(しんいかん)の日本紀行文である。ここでは群集ということばでさえ「群倭」と書かれている。衆は多数の人間という意味だが、日本人はpeopleでさえない。これが、儒教の華夷における文明意識である。』
コメント
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