【7月6日の市場概況】日経平均終値:11,603円(-13円)
日経平均株価は小幅続落。輸出株の一角が堅調で日経平均は取引時間の大半を前日比プラスで推移したが、大引け間際に前日終値を下回った。
三菱東京FG、三井住友FGなど4大銀行株が安く、ホンダ、アドテスト、三洋電、川崎汽、ソフトバンク、ミレアHDが下落した。半面、トヨタ、日産自が高く、マツダ、千代建が年初来高値を更新。ソニー、松下、富士写が買われた。武田、大日薬が上昇し、花王は半年ぶりに年初来高値を更新した。イオン、イトヨーカも高い。
【株式投資の記録:7月日】
①ソニー(07/05買建@3,820*1,500株)
@3,850-で1,500株とも返済しました。4万円ほどの儲けです。(神様に感謝!)
【司馬遼太郎:李朝と明治維新③】
司馬遼太郎「この国のかたち 四」(文春文庫)"89李朝と明治維新(174頁~)"
昨日の続きです。
『』が原文です。
『「海游録」によると、一行が対馬の城下厳原(いずはら)に着いたとき、藩の通訳が、藩主に拝謁させようとした。紀行文のなかで申維翰が咆哮した。
「この島は朝鮮の一州県にすぎない」朝鮮領であるというのは、儒教の"礼"の上での空論である。』
『さらに申維翰は、どなる。「対馬の島主は、わが国の藩臣(辺境の臣)である。」さらに、"朝鮮国王の直臣である自分が、一地方官になぜこちらから出むいてあいさつの礼をとらねばならないか"という意味のことを言ったのである。』
『それらはどうでもよいにせよ、小中華という架空の真実の中で生きる儒教の徒の申維翰は、日本人に対し、"人"という文字をつかわないのである。人とは文明人のことで、申維翰的定義では、中華と小中華の場合にのみつかわれるのに相違ない。』
『申維翰の文中では、不特定の人々をさすとき、群集といわず、群倭という。対馬藩の警備人のことを禁徒倭という。さまざまな人々というばあい、諸倭という。くどいほどに差を明らかにしている。
この場合の倭は、上代、日本の自称・他称が倭であったらしいこととは、用法がちがう。』
『申維翰の用法は、倭とは人間の形をとっているものの内容は野蛮人であるという意である。もし申維翰が、中国の北方の蒙古に使いしたとすれば、群狄(ぐんてき)、禁徒狄、諸狄と書くはずで、要するに人ではない。』
『また、朝鮮が小中華であると空想した以上、それに伴う辺境の蕃国が存在せねばならない。そういう秩序体系(礼)でいえば、対馬藩については、空論の上ながら朝鮮の蕃国にせざるをえないのである。』
『勢い、日本全体についてもまた、小中華の蕃国にしてしまう。現実がどうであれ、そうあらねばならないという態度を、「海游録」は終始とりつづけている。』
『やがて李朝では、日本のことを、ほとんど正称のようにして"倭夷"とよぶようになる。それが朝鮮儒教における礼というものであった。あとでいうが、礼とはお行儀のことではない。』
『ところが、その"群倭"が、一八六八年、明治維新という革命をおこした。
ついでながら、対馬藩は、江戸時代を通じ、釜山の西、草梁に二万坪ほどを李朝から租借し、長崎の出島のオランダ屋敷のように、商務などのために藩吏が常駐していた。藩吏が租借地から一歩も出られないことも、出島オランダ屋敷に似ていた。』
『維新成立の前年、最後の将軍徳川慶喜は、政権を朝廷にもどした旨、対馬藩を介して朝鮮に通告した。長い書簡だった。が、応答はなかった。さきにふれたが、礼とは、日本語の礼儀や行儀といった多分に互敬的な作法ではないのである。』
『二世紀にわたって外交関係があった徳川家の当主慶喜に対し、返事もしなかったところに、"礼"のもつ滑稽感がある。』
日経平均株価は小幅続落。輸出株の一角が堅調で日経平均は取引時間の大半を前日比プラスで推移したが、大引け間際に前日終値を下回った。
三菱東京FG、三井住友FGなど4大銀行株が安く、ホンダ、アドテスト、三洋電、川崎汽、ソフトバンク、ミレアHDが下落した。半面、トヨタ、日産自が高く、マツダ、千代建が年初来高値を更新。ソニー、松下、富士写が買われた。武田、大日薬が上昇し、花王は半年ぶりに年初来高値を更新した。イオン、イトヨーカも高い。
【株式投資の記録:7月日】
①ソニー(07/05買建@3,820*1,500株)
@3,850-で1,500株とも返済しました。4万円ほどの儲けです。(神様に感謝!)
【司馬遼太郎:李朝と明治維新③】
司馬遼太郎「この国のかたち 四」(文春文庫)"89李朝と明治維新(174頁~)"
昨日の続きです。
『』が原文です。
『「海游録」によると、一行が対馬の城下厳原(いずはら)に着いたとき、藩の通訳が、藩主に拝謁させようとした。紀行文のなかで申維翰が咆哮した。
「この島は朝鮮の一州県にすぎない」朝鮮領であるというのは、儒教の"礼"の上での空論である。』
『さらに申維翰は、どなる。「対馬の島主は、わが国の藩臣(辺境の臣)である。」さらに、"朝鮮国王の直臣である自分が、一地方官になぜこちらから出むいてあいさつの礼をとらねばならないか"という意味のことを言ったのである。』
『それらはどうでもよいにせよ、小中華という架空の真実の中で生きる儒教の徒の申維翰は、日本人に対し、"人"という文字をつかわないのである。人とは文明人のことで、申維翰的定義では、中華と小中華の場合にのみつかわれるのに相違ない。』
『申維翰の文中では、不特定の人々をさすとき、群集といわず、群倭という。対馬藩の警備人のことを禁徒倭という。さまざまな人々というばあい、諸倭という。くどいほどに差を明らかにしている。
この場合の倭は、上代、日本の自称・他称が倭であったらしいこととは、用法がちがう。』
『申維翰の用法は、倭とは人間の形をとっているものの内容は野蛮人であるという意である。もし申維翰が、中国の北方の蒙古に使いしたとすれば、群狄(ぐんてき)、禁徒狄、諸狄と書くはずで、要するに人ではない。』
『また、朝鮮が小中華であると空想した以上、それに伴う辺境の蕃国が存在せねばならない。そういう秩序体系(礼)でいえば、対馬藩については、空論の上ながら朝鮮の蕃国にせざるをえないのである。』
『勢い、日本全体についてもまた、小中華の蕃国にしてしまう。現実がどうであれ、そうあらねばならないという態度を、「海游録」は終始とりつづけている。』
『やがて李朝では、日本のことを、ほとんど正称のようにして"倭夷"とよぶようになる。それが朝鮮儒教における礼というものであった。あとでいうが、礼とはお行儀のことではない。』
『ところが、その"群倭"が、一八六八年、明治維新という革命をおこした。
ついでながら、対馬藩は、江戸時代を通じ、釜山の西、草梁に二万坪ほどを李朝から租借し、長崎の出島のオランダ屋敷のように、商務などのために藩吏が常駐していた。藩吏が租借地から一歩も出られないことも、出島オランダ屋敷に似ていた。』
『維新成立の前年、最後の将軍徳川慶喜は、政権を朝廷にもどした旨、対馬藩を介して朝鮮に通告した。長い書簡だった。が、応答はなかった。さきにふれたが、礼とは、日本語の礼儀や行儀といった多分に互敬的な作法ではないのである。』
『二世紀にわたって外交関係があった徳川家の当主慶喜に対し、返事もしなかったところに、"礼"のもつ滑稽感がある。』