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司馬遼太郎:日韓断想②

2005年07月10日 18時42分48秒 | 本・司馬遼太郎
【司馬遼太郎:日韓断想②】
 昨日の続きです。
  『』が原文です。

  『金素雲先生は天才だから、実例として適当でないかもしれないが、私の場合は、モゴル語を学んで大きなメリット(merit)を得たと思っている。ほんの一例として、ウラル・アルタイ語は情緒を述べるのに、(不必要なほど)適しすぎている。私どもは自分の情緒という水分過剰な言語に足をすくわれてはならない、という反省もモンゴル語を学ぶことによって得た。その反省として、自分の日本語文章を、なんとか乾いた言語にし、しかも日本語の情緒的特質をうしなうことなく、論理的な明晰さ(フランス人が大切にするところのクラルテ)に近づけたいと思いつづけてきた。』


  『言語は文明の核心である。
 おなじインド・ヨーロッパ語族である欧州人が、たがいの方言(各国語)を学びあうことによって、自国語を豊富にしてきた。たとえば、英語の70パーセントは、フランス語からの輸入語だと私はきいている。或るときそのことを、英国の或る愛国的な知識人にいうと、
「いいえ、75パーセントです」
 と、訂正した。言語の借用という文明現象は、愛国心とは何のかかわりもない別の系列の問題なのである。ヨーロッパは、アーリア人種が方言と地理的環境(ときに政治的理由)によって国々に分かれてきて、しかも相互模倣(体裁よくいえば文化交流)によって大文明をつくりあげた。西洋史を読むと、法制、芸術、学問の諸分野において、旺盛な相互模倣の歴史であるといわざるをえない。
 この点、アジアはそういう条件をわずかしかもっていない。』


  『私が属する国の言語史でいうと、古代の言語資料である「古事記」や「万葉集」は、ほぼ土語で書かれた。英語でいうとフランス語を差し引いた25パーセントで書かれたために、抽象的な概念はまず出て来ない。たとえば具体的な恋愛感情や物語は展開されていても「愛」という抽象語は出て来ない。親孝行の寓話が出てきても「孝」ということばは存在しない。言語としての仁はなく、義もなく、礼も智も信も存在しなかった。そのような抽象語を持たない以上、古代日本人は、物事を抽象化して考える手段をもたなかった。そこで、"文化交流"が必要だった。』

  『いわば言語的に未開状態にある日本列島のひとびとに対し、漢字文明圏の抽象的な思想と言語を、滝のような勢いで送り込んでくれたひとびとは、おなじウラル・アルタイ語族に属する古代朝鮮人だった。』

  『七世紀には、この現象の最終列車というべき一大渡来があった。六六三年、百済が新羅に敗北したあと、ほとんど一国が引っ越しするような規模の大きさで百済人たちが日本に移住したのである。そのなかには、漢字文明を豊かに身につけた知識人も多かった。渡来早々、文部大臣に似た職についた人もあり、また官吏になる人も多かった。当時の「日本国政府」は百済の先進性を尊敬していたこともあって、身分の上下にかかわらず、彼らに首都の所在地であるいまの奈良県や、首都に近い滋賀県などの肥沃な田地をあたえた。「万葉集」における代表的詩人のひとりである山上憶良(660~733?)も、幼時、父の憶仁とともにその渡来の大波のなかにまじっていたという説がある(中西進氏の説)。』

  『そういう背景を考えつつ憶良の詩を読むと、他の「万葉集」の詩人たちときわだってちがった特徴をもっていることに気づかされる。形而上的な文明を知った者しか持つことがない知的な哀愁というべきものである。憶良の詩がいまなお私どもの心を打つのは、その点であるといえる。』


  『ここに、欄外の落書きのつもりで、「文明」と「文化」についての私の定義を申しのべておく。文明とは多分に技術的でどの民族でもそれを採用でき、使用できるものを指す。その意味ではローマ字も漢字も文明に属する。別の例でいえば航空機も自動車も一定の操縦法を心得れは万人が動かしうる。また民間航空に乗ると、乗客は乗務員の指示に従ってベルトを締め、禁煙の表示をみると、タバコをのむことをしない。この点、大韓航空でもエール・フランスでも同じルールが支配している。この現象を文明とよびたい。普遍性といいかえてもよい。』

  『これに対し、文化は特殊なものである。その家の家風、あるいは他民族にはない特異な迷信や風習、慣習をさす。
「たれでも参加できます」
 というのが文明である以上、文明は高度に合理的である。しかし人間は文明だけでは暮らせない。一方において、
「おまえたち他民族には理解できまい」
 という文化をどの民族でも一枚の紙の表裏のようにして持っている。したがって文化は不合理なものといえる。という以上に不合理なものであればあるほど、その文化はその民族の内部では刺激的であるといっていい。』

  『たとえば、韓国社会も日本社会も、はるかな古代、シベリアで発生したシャーマニズムの精神的慣習を形を変えてなおもっている。仏教は本来、普遍的で文明であるはずだが、日本仏教の一部ではいまなお仏教は紙の表で、内実は現世利益や鎮魂のための祈祷をやるという呪術性が裏打ちされている。キリスト教も、仏教以上に普遍性の高い宗教文明だが、韓国のキリスト教の場合、信者の側にシャーマニズムの要素が絶無であるとは言いがたい。(ヨーロッパのキリスト教もそうだろう。イエスの普遍思想がヨーロッパに根付くのは、土俗信仰という「文化」との集合があったればこそであった)。』

  『以上は、私の用語での文明と文化の関係を理解してもらうために例としてのべている。ついでながら私の叙述方は、われながら変だと思うことがある。長いロープ(この場合は実例)を塔のように巻きあげていって、なかに中空ができる。その中空が、私が言おうとする主題なのだが、その主題も言葉で直接説明することをしない。読む人に察してもらうしかない。この物言いの仕方は、多分に日本的である。「どうも西洋人にはわかりにくいですね」といわれたことがあるが、おそらく朝鮮人にもわかりにくいはずである。朝鮮人は日本人同様、情緒的でありながら、日本人よりはるかに論理的である。その論理には、しばしば刃物のような味がする。それにくらべ、私の叙述法は、絵画のようである。一枚の絵には、遠景、中景、近景があるが、いま遠景と中景をのべている。しばらくつきあって頂きたい。』
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