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天台寺門修験

修験道の教義は如何に

修験第二十號 (大正十五年九月一日發行) - 大峰山の霊蹟に就て - 

2011年08月04日 07時53分48秒 | 大峰奥駈

    大峰奥駈七十五靡の名称と道程        宮城信雅  

  五十九 七曜(しちよう)ケ嶽(だけ) 『国見嶽(くにみだけ)』

 七曜ケ嶽はさほど高くはないが急峻険阻(きうしゆんけんそ)である。頂上(ちやうじやう)よりは山上(さんじやう)、普賢(ふげん)、弥山稲村等(みせんいなむらとう)の高峰(こうほう)を眺(なが)めて絶景(ぜつけい)である。

 稚児泊(ちごどまり)より七曜岳に至(いた)る間(あいだ)に七ツ池と云(い)深い空澤(からさわ)がある。高役(かうやく)が大蛇(だいじや)を封じられたと云う伝説がある。


修験第二十號 (大正十五年九月一日發行) - 大峰山の霊蹟に就て - 

2011年07月21日 07時43分49秒 | 大峰奥駈

 

 大峰奥駈七十五靡の名称と道程        宮城信雅  

 六十  稚児泊(ちごどまり) 

 弥勒(みろく)の横駈(よこがけ)より稚児泊(ちごどまり)に至る間に護摩ころけと云(い)ふ難所(なんしよ)がある。実(じつ)に木(き)の根岩角(ねいはかど)をつたつての急阪(きうはん)の下りである稚児泊には都合(つがふ)のよい腰掛石(こしかけいし)がころがつてゐるので、本山入峰修行(ほんざんにふぶしうぎやう)には少々時刻(せうせうじこく)は早くても、こゝで弁当を半分食つて、次に行者還(ぎやうじやがへり)で残りの半分を食う例になつてゐる。普賢(ふけん)より約(やく)一里(り) 。


修験第二十號 (大正十五年九月一日發行) - 大峰山の霊蹟に就て - 

2011年07月20日 08時05分40秒 | 大峰奥駈

 大峰奥駈七十五靡の名称と道程        宮城信雅  

 六十二 笙の窟(しやうのいはや)

 普賢岳(ふげんだけ)を少し下りて左に分れ、急阪(きうはん)を下ること約(やく)二十五町(ちやう)、幾百間(いくひやくけん)の断崖(だんがい)の下に岩屋(いはや)あり、行尊僧正(ぎやうそんさうじやう)、日蔵上人(にちざうしやうにん)の岩屋籠修行(いはやこもりしうぎやう)された處(ところ)として知られてゐる。

 こいけの岩(いは)やなに露(つゆ)けしと思(おも)ひけんもらぬ岩屋(いはや)も袖(そで)はぬれけり         行尊 僧正

 寂莫(じやくまく)の苔(こけ)の岩屋(いはや)のしづけくて涙(なみだ)の雨(あめ)のふらぬ日(ひ)ぞなき       日蔵 上人

 本山(ほんざん)の大峰修行(おおみねしうぎやう)は、熊野行(くまのゆき)と、岩屋巡(いはやめぐ)りと隔年(かくねん)になつてゐる。本年(ほんねん)は岩屋へ参拝(さんぱい)しなかつた。明年(めいねん)は前鬼山(ぜんきざん)より谷筋(たにすじ)を通り各岩屋を巡拝(じゆんぱい)する事になつている。           笙岩屋付近(しやういわやふきん)に、鷲岩屋(わしいわや)、朝日(あさひ)の岩屋がある、七十五町下(ちやうくだ)れば北山村西原(きたやまむらにしはら)に至る。   

 


修験第二十號 (大正十五年九月一日發行) - 大峰山の霊蹟に就て - 

2011年07月19日 17時15分04秒 | 大峰奥駈

  大峰奥駈七十五靡の名称と道程        宮城信雅  

 六十三 普賢ケ嶽(ふげんだけ)

小篠(をざさ)より 五十余町よちやう)、眺望(てうぼう)よし、頂上(ちやうじやう)よりすこし手前に左に折れて、経筥石の行場がある。高祖大士(こうそだいし)が法華経(ほけきやう)を納(おさ)められた處(ところ)と云ふ。けづりたてた様やう)な、がけ道を木や石にかぢりついて下る。絶壁(ぜつぺき)の岩石(がんせき)に経(きやう)を納められた處がある。


修験第二十號 (大正十五年九月一日發行) - 大峰山の霊蹟に就て - 

2011年06月24日 18時33分03秒 | 大峰奥駈

 大峰奥駈七十五靡の名称と道程        宮城信雅  

 六十五  阿弥陀ケ森(あみだけもり) 

 川上(かわかみ)、柏木(かしはぎ)へ下る道と、奥駈道(おくかけみち)との分るゝ處(ところ)である。小篠(おざゝ)より二十町(ちやう)ばかり。


修験第二十號 (大正十五年九月一日發行) - 大峰山の霊蹟に就て - 

2011年06月24日 08時26分42秒 | 大峰奥駈

 

 大峰奥駈七十五靡の名称と道程        宮城信雅  

 六十六  小篠の宿(をざゝのしゆく)

 山上(さんじよう)より二十五町(ちやう)、神變尊(じんべんそん)の小堂(せいだう)あり、採燈大護摩供(さいとうだいごまく)を修す(しう)。付近に大黒岩屋(だいこくいはや)あり。

 往時(わうじ)は数十の建物ありし所なりと、今尚石垣等(いまなほいしがきとう)も残つてゐる。往時の本人入峰(ほんざんにふぶ)の際は表道(おもてみち)をこの處(ところ)に至り、この處にて数ケ日滞在し、其間(そのかん)に種々(しゆじゆ)の行事あり、或(あるひ)は川上岩屋(かわかみいはや)、地蔵尊に参拝し、又は、洞川(どろかは)に下りて瀧泉寺(りうせんじ)、岩屋、天の川弁天等(あまのかはべんてんとう)に参拝して、更にこゝに引(ひき)かへして奥通道(おくとほりみち)を進まれたとの事である。

 清水(しみづ)がある、山上(さんじやう)より弥山迄(みせんまで)の間に、清水(せいすゐ)あるはこゝと行者還(ぎやうじやかへり)とのみである。


修験第二十號 (大正十五年九月一日發行) - 大峰山の霊蹟に就て - 

2011年06月22日 08時14分51秒 | 大峰奥駈

 大峰奥駈七十五靡の名称と道程        宮城信雅  

 六十七  山上ケ嶽(さんじやうけだけ)

 山上本堂(さんじやうほんどう)なり、湧出(ゆしゆつ)の峰とも云ふ。高祖神變大菩薩(こうそじんべんだいぼさつ)が、祈念せられて蔵王権現忿怒(ざわうごんげんふんぬ)の御姿(おすがた)の岩上(がんじやう)に湧出せられたるを感見(かんけん)せられた處(ところ)である。

 本山入峰では鐘掛(かねかけ)、西覗(にしのぞき)、裏行場(うらぎやうば)を修行し、本堂に参拝し、採燈護摩供(さいとうごまく)を修(しう)し、喜蔵院参籠所(きざういんさんろうしよ)に宿泊する。山上(さんじやう)には本堂、本堂事務所の外に、吉野山(よしのざん)の竹林院(ちくりんいん)、喜蔵院、櫻本坊(さくらもとぼう)、東南院(とうなんいん)の四ケ場(じやう)、と洞川瀧泉寺(どろかわりうせんじ)の参籠所(さんろうしよ)とがあるのみである。


修験第二十號 (大正十五年九月一日發行) - 大峰山の霊蹟に就て - 

2011年06月21日 08時28分05秒 | 大峰奥駈

 

 大峰奥駈七十五靡の名称と道程        宮城信雅  

 六十八  淨心門(じやうしんもん) 

 山上鐘掛付近(さんじやうかねかけふきん)なり、洞川(どろかわ)より三里(さんり) 本山入峰修行は洞川を出発し、洞呂(ほら)の岩屋(いわや)、籠(かご)の岩屋に行(ぎやう)し、洞辻(どろつじ)を経て登る。洞辻は吉野よりの靡道(なびきみち)と出遇(であ)ふ所である。


修験第二十號 (大正十五年九月一日發行) - 大峰山の霊蹟に就て - 

2011年06月20日 15時14分48秒 | 大峰奥駈

大峰奥駈七十五靡の名称と道程        宮城信雅  

 六十九  二蔵宿(にぞうしゅく) 

 現今の百丁目茶屋(ひゃくちょうめちゃや)と云ふ所なり、吉野より百町ありと云ふ。これより小天井、大天井、蛇腹等の険阻(けんそ)を攀(よ)ぢて洞辻茶屋(どろつぢちゃや)に出(い)でたものであるが、現今では新道(しんみち)が出来て、小天井大天井(こてんじょうおほてんじょう)を通つてゐない。                

 本山入峰は金精明神(こんじやうめうじん)より右にとりて鳥住鳳閣寺(とりすみほうかくじ)に参拝し川戸(かほど)を経て米投峠(こめなげたふげ)を越え、洞川に至る。

 洞川   洞川は靡中(なびきちう)ではないが、吉野と共に今日の大峰登山者を迎える関門(かんもん)である。本山入峰では、洞川に着くと瀧泉寺(りうせんじ)に採燈護摩供(さいとうごまく)を修(しう)し、西村清五郎旅宿(にしむらせいごろうりょしゅく)に投(とう)ず、吉野より四里。


修験第二十號 (大正十五年九月一日發行) - 大峰山の霊蹟に就て - 

2011年06月02日 20時31分55秒 | 大峰奥駈

 

 

  大峰奥駈七十五靡の名称と道程        宮城信雅  

 七十  愛染の宿

 (いにし)へ安禅(あんぜん)の宿(しゆく)とも云ふ。本社より二三町登りたるあたり以前は立派な宿所(しゆくしよ)あつて、本山入峰の際は、安禅入成作法(あんぜんにふじやうさほふ)を行したる所である。付近三、四丁下(ちやうくだ)りたる所に西行庵あり。西行法師庵室(さいぎやうほふしあんしつ)を構へし処なりと。


修験第二十號 (大正十五年九月一日發行) - 大峰山の霊蹟に就て - 

2011年06月02日 20時20分48秒 | 大峰奥駈

 

  大峰奥駈七十五靡の名称と道程        宮城信雅  

 七十一  金精明神(金の御岳の社)

 今俗(いまごく)に本社(ほんしや)と云つてゐる。吉野山地主(よしのやまぢぬし)の神である。水分社(みづわけやしろ)より十三町、付近に義経(よしつね)の隠れ塔と云ふあり、新客(しんきやく)は本社にてお払ひをする。


修験第二十號 (大正十五年九月一日發行) - 大峰山の霊蹟に就て - 

2011年06月02日 20時09分03秒 | 大峰奥駈

  大峰奥駈七十五靡の名称と道程        宮城信雅  

 七十二  水分神社(子守神社)

  水分神社(みづわけじんじや)は桃山時代の代表的建築として立派なものである。蔵王堂(ぞうわうだう)より約十五町急阪(きうはん)なり。


修験第二十號 (大正十五年九月一日發行) - 大峰山の霊蹟に就て - 

2011年06月01日 18時46分20秒 | 大峰奥駈

 

   大峰奥駈七十五靡の名称と道程        宮城信雅  

 七十三  吉野山(よしのやま)

 金の鳥居(発心門)蔵王堂、山口神社等参拝、吉野山の説明は省略する。本山入峰は京都出発これにて第一日の行程を終わり宿坊喜蔵院に入る。柳の宿より五十町。