大峰奥駈七十五靡の名称と道程 宮城信雅
四十四 楊子の宿(ようしのしゆく)
此處(こゝ)の少し手前、左方(さほう)の谷に十六丈の青不動(自然の岩石にて不動尊を髣髴(ほうけつ)す)を拝(はい)する事が出来る。本年は濃霧(のうむ)の為拝(ためはい)せ なかつたのは残念、弥山(みせん)より約三里(やくさんり)。
こゝにて昔弥治兵衛(むかしやじべい)なるもの凍死(とうし)せしと、勤行回向(ごんぎやうえこう)する例なり。
前日(ぜんじつ)の行者還(ぎやうじやがへ)りよりこの處十数ケ所(ところじゆうすうかしよ)までは、前年大阪三郷講(ぜんねんおおさかさんごうこう)から、石標(せきへう)、小祠(せうし)を建立(こんりう)せられたのは結構な事実であり、ことに石標に施主(せしう)の名を掲(かゝ)げる様な俗なるものではなく、風致(ふうち)に適応(てきおう)せる様につくられ、更(さら)に続行(ぞくかう)の目的であつたそうだが、ある事情(じじやう)の為(た)めこの處(ところ)にて中止されたるは残念な事であつた。峰中神聖(みねちうしんせい)の處に小祠の祀(まつ)つてあるのは心地(こゝち)のよいものである。
尚(なほ)この事情(じじやう)のいきさつから大峰山名所旧跡保存会(おおみねさんめいしよきうせきほぞんくわい)なるものが大峰山上関係者(おおみねさんじやうくわんけいしや)によつて造(つく)られたとの事、将来共々(しやうらいともゝ)に、高尚(かうせい)にこの霊山(れいざん)の名所旧跡を保存(ほぞん)し、又廃(またすた)れたるものを興(おこ)したいものである。