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天台寺門修験

修験道の教義は如何に

修験第二十號 (大正十五年九月一日發行) - 大峰山の霊蹟に就て -

2011年08月17日 08時09分54秒 | 大峰奥駈

  大峰奥駈七十五靡の名称と道程        宮城信雅  

  四十四  楊子の宿(ようしのしゆく) 

 

 此處(こゝ)の少し手前、左方(さほう)の谷に十六丈の青不動(自然の岩石にて不動尊を髣髴(ほうけつ)す)を拝(はい)する事が出来る。本年は濃霧(のうむ)の為拝(ためはい) なかつたのは残念、弥山(みせん)より約三里(やくさんり)

 こゝにて昔弥治兵衛(むかしやじべい)なるもの凍死(とうし)せしと、勤行回向(ごんぎやうえこう)する例なり。

 前日(ぜんじつ)の行者還(ぎやうじやがへ)りよりこの處十数ケ所(ところじゆうすうかしよ)までは、前年大阪三郷講(ぜんねんおおさかさんごうこう)から、石標(せきへう)、小祠(せうし)を建立(こんりう)せられたのは結構な事実であり、ことに石標に施主(せしう)の名を掲(かゝ)げる様な俗なるものではなく、風致(ふうち)に適応(てきおう)せる様につくられ、更(さら)に続行(ぞくかう)の目的であつたそうだが、ある事情(じじやう)の為(た)めこの處(ところ)にて中止されたるは残念な事であつた。峰中神聖(みねちうしんせい)の處に小祠の祀(まつ)つてあるのは心地(こゝち)のよいものである。

 尚(なほ)この事情(じじやう)のいきさつから大峰山名所旧跡保存会(おおみねさんめいしよきうせきほぞんくわい)なるものが大峰山上関係者(おおみねさんじやうくわんけいしや)によつて造(つく)られたとの事、将来共々(しやうらいともゝ)に、高尚(かうせい)にこの霊山(れいざん)の名所旧跡を保存(ほぞん)し、又廃(またすた)れたるものを興(おこ)したいものである。


修験第二十號 (大正十五年九月一日發行) - 大峰山の霊蹟に就て -

2011年08月10日 09時04分12秒 | 大峰奥駈

  大峰奥駈七十五靡の名称と道程        宮城信雅  

  四十五  七面山(しちめんざん)

 

 (ふね)の多和(たわ)より少しく行きて右方(うはう)に見ゆる大岩壁(だいがんぺき)の険嶺(けんれい)、遥拝(えいはい)す。


修験第二十號 (大正十五年九月一日發行) - 大峰山の霊蹟に就て -

2011年08月10日 08時51分52秒 | 大峰奥駈

  大峰奥駈七十五靡の名称と道程        宮城信雅  

  四十九   菊の窟(きくのいはや)

 

  左方(さほう)の渓谷中(けいこくちう)にあり、峰中第一(みねちうだいいち)の魔所(ましよ)であつて、はいつたものは、誰も出て来たものがないと云(い)ふ。


修験第二十號 (大正十五年九月一日發行) - 大峰山の霊蹟に就て -

2011年08月10日 08時46分50秒 | 大峰奥駈

  大峰奥駈七十五靡の名称と道程        宮城信雅  

 五十   明星ケ嶽(めいじやうけだけ)

 弥山(みせん)より一里半許(いちりはんばか)りもあらう。頂上(ちやうじやう)へは登らず、中腹(ちうふく)にて勤行(ごんぎやう)す。


修験第二十號 (大正十五年九月一日發行) - 大峰山の霊蹟に就て -

2011年08月10日 08時36分08秒 | 大峰奥駈

    大峰奥駈七十五靡の名称と道程        宮城信雅  

  五十一  八経岳(はちきやうだけ) 

 奥駈全体(おくがけぜんたい)の最高峰(さいこうほう)にして、標高六千五百三十五尺(しやく)を示(しめ)してゐる。高祖役行者法華経八巻(こうそえんぎやうじやほけきやうはちかん)を埋納(まいなう)したる處(ところ)である。

 眺望豁達全山(てうぼうかつたつぜんざん)を見渡(みわた)す事が出来るのであるが、本年は霧深(きりふか)くしてどこも見えなかった。


修験第二十號 (大正十五年九月一日發行) - 大峰山の霊蹟に就て -

2011年08月10日 08時21分33秒 | 大峰奥駈

  大峰奥駈七十五靡の名称と道程        宮城信雅  

 五十二  古今宿(ふるいましゆく)

 右の二ケ所は現今通(げんこんとほ)らない。以前(いぜん)は八経(きやう)へ登らず、朝鮮ケ嶽(ちやうせんけだけ)に回(まは)り、八経の横を迂回(うかい)して明星嶽(めいじやうだけ)に出(い)でたが、明治十九年頃、楠本眞成行者(くすもとしんじやうぎやうじや)が、八経頂上へ直行(ちよくこう)する道を発見したとの事である。現今(げんこん)は遥拝(ようはい)して行(ゆ)く。


修験第二十號 (大正十五年九月一日發行) - 大峰山の霊蹟に就て - 

2011年08月09日 08時10分08秒 | 大峰奥駈

  大峰奥駈七十五靡の名称と道程        宮城信雅  

 五十四   弥山(みせん)

 講婆世宿(こうばせしゆく)より所謂聖寶八町(いはゆるしやうほうはちちやう)と云(い)ふ峻阪(しゆんはん)、登つめると籠所(こもりしよ)がある。百余(よ)を容(い)るゝ小屋(こや)としては立派(りつぱ)なものが出来てiゐる。二町(ちやう)ばかりにして弁天(べんてん)を祀(まつ)る小堂(せいどう)がある弁天堂前(べんてんだうまへ)にて採燈大護摩供修行(さいとうおほごまくしうぎやう)。峰中八経岳(みねちうはちきやうだけ)につぐ高(かうほう)にして六千数(すう)百尺(しやく)、こゝにたき火(び)をしながら一宿(しゆく)する。近来(きんらい)は天川村坪内(あまかはむらつぼうち)より夏期出張(かきしゆつちやう)して食料の用意をしてゐるので、心配はない。こゝに一宿(しゆく)

 山上嶽(さんじやういだけ)より七里半許(しちりはんばかり)の里程(りてい)であらうけれ共(ども)、山上嶽を午前五時頃出発して、こゝへつくのが大抵(たいてい)四時頃にはなるそれだけ道が難渋(なんじふ)なのである。


修験第二十號 (大正十五年九月一日發行) - 大峰山の霊蹟に就て - 

2011年08月04日 08時32分44秒 | 大峰奥駈

  大峰奥駈七十五靡の名称と道程        宮城信雅  

 五十五  講婆世宿(こうばせしゆく)

 

 理源大師(りげんだいし)の銅像(どうぞう)を祀(まつ)る。たまり水(みづ)あり、行者還(ぎやうじやがえ)りより約三里(やくさんり)


修験第二十號 (大正十五年九月一日發行) - 大峰山の霊蹟に就て - 

2011年08月04日 08時26分05秒 | 大峰奥駈

  大峰奥駈七十五靡の名称と道程        宮城信雅  

 

 五十七  一の多和(たわ) 

 たまり水(みづ)がある。靡(なびき)には特殊(とくしゆ)のものゝ外(ほか)すべて金剛童子(こんごうどうじ)を祀(まつ)つてあるのである。


修験第二十號 (大正十五年九月一日發行) - 大峰山の霊蹟に就て - 

2011年08月04日 08時08分30秒 | 大峰奥駈

  大峰奥駈七十五靡の名称と道程        宮城信雅  

 五十八  行者還(ぎやうじやがへ)り

 七曜岳(しちようだけ)をこえ二三の登(のぼ)り下(くだ)りがあつて、行者還りの急阪(きうはん)を下(くだ)る。薩摩(さつま)ころげといづれおとらぬ難所(なんしよ)、下(くだ)りつめた處(ところ)の岩窟(いはや)に金剛蔵王(こんごうざうおう)をまつる。清水(しみづ)の滴(したゝ)るあり。

 行者還嶽(ぎやうじやがへりだけ)はあまりに絶壁(ぜつぺき)なるを以(もつ)て、行者(ぎやうじや)も一寸立(ちよつとたち)もどつて道を考へられたと云(い)ふので行者還りと云ふ名があると傳(つた)へてゐる。