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天台寺門修験

修験道の教義は如何に

修験第二十號 (大正十五年九月一日發行) - 大峰山の霊蹟に就て -

2011年11月05日 08時29分53秒 | 大峰奥駈

  大峰奥駈七十五靡の名称と道程        宮城信雅  

  ニ十九  前鬼山(ぜんきざん)

 深山(しんせん)より五十町(ちやう)の急阪(きうはん)を下りて前鬼(ぜんき)に達す。前鬼は、先述(せんじゆつ)の通り高祖大士(かうそだいし)に、釈迦嶽(しやかだけ)の霊山(れいざん)、深山の霊場(れいじやう)を守護(しゆご)すべく命(めい)ぜられた、五鬼(き)の子孫(しそん)が、この地(ち)を開拓(かいたく)して永住(えいじう)し今日に及べるものである。以前は森本坊(もりもとぼう)、小仲坊(こなかぼう)、不動坊(ふどうぼう)、行者坊(ぎやうじやぼう)、中の坊(なかのぼう)の五ケ坊あつたが、現今は森本坊、小仲坊のニ坊となつてゐる。歴史上尊重(れきしじやうそんちよう)すべきこのニケ坊があつて、どうか、この霊山のみは俗化(ぞくくわ)しない様に、修行者(しうぎやうしや)の為(た)め、神聖観念(しんせいかんねん)を起(おこ)さす様に、永久保護(えいきうほご)されたいものである。

 本山修行には森本坊と小仲坊と隔年(かくねん)に宿泊する。本年は小仲坊に宿泊す。


修験第二十號 (大正十五年九月一日發行) - 大峰山の霊蹟に就て -

2011年11月05日 08時19分42秒 | 大峰奥駈

  大峰奥駈七十五靡の名称と道程        宮城信雅  

  三十  千草岳(ちぐさだけ)

以前はこの三ケ所を迂回(うくわい)して前鬼(ぜんき)に出でたやうであるが現今(げんこん)は直(ただ)ちに前鬼に下(くだ)る。

前鬼山(ぜんきざん)に下るまでに、両童子岩の行場(ぎやうば)あり、困難なる行場なり。


修験第二十號 (大正十五年九月一日發行) - 大峰山の霊蹟に就て -

2011年09月28日 09時18分47秒 | 大峰奥駈

 

   大峰奥駈七十五靡の名称と道程        宮城信雅  

  三十五  大日嶽(だいにちだけ) 

 道僅(みちわづ)かなれ共峯中最(どもぶちうもつと)も険峻(けんしゆん)の峯(みね)、七八間(けん)の鎖(くさり)を攀(よ)ぢて登る。頂上大日如来(ちようじやうだいにちにょらい)を祭(まつ)る。


修験第二十號 (大正十五年九月一日發行) - 大峰山の霊蹟に就て -

2011年08月21日 10時07分15秒 | 大峰奥駈

  大峰奥駈七十五靡の名称と道程        宮城信雅  

  三十六  五角仙(ごかくせん)

 

 この二ケ所は深山(しんせん)より大日岳(だいにちだけ)に到(いた)る中間(ちうかん)にあり森をなし岩あり、三ケ月石と云(い)ふあり。


修験第二十號 (大正十五年九月一日發行) - 大峰山の霊蹟に就て -

2011年08月21日 09時37分28秒 | 大峰奥駈

  

    大峰奥駈七十五靡の名称と道程        宮城信雅  

  三十八  深仙宿(しんぜんしゆく)

 

 (また)は神山(しんせん)とも深禅(しんぜん)とも云(い)ふ。峯中(みねちう)の中台(ちうだい)にして、釈迦嶽(しやかだけ)より二十五町下(ちやうくだ)りたる處(ところ)、大日岳(だいにちだけ)との中間(ちうかん)にあり。

 修験傳燈(しゆげんでんとう)の道場(だうじやう)にして、高祖大士以来綿々相承(かうそだいしいらいめんゝさうしやう)の深山灌頂(しんざんかんちやう)の行はれる所(ところ)である。付近(ふきん)に香精水と云ふ峯中第一の霊水(れいすい)があり、灌頂水に用(もち)ふる。行者堂(ぎやうじやだう)ありて神変尊(じんべんそん)を祭る。以前(いぜん)は灌頂堂があつたが、今はない。先年聖門主恭随大先達(せんねんせいもんしゆきよずゐだいせんだち)の灌頂せられた時(とき)は行者堂を中心として付近に幕(まく)をめぐらし、蒼天(さうてん)を天蓋(てんがい)とし、草(くさ)を敷(し)いて座(ざ)として行はれたのである。

 役行者(えんぎやうじや)が最後にこの山と分れをつける時、髭(ひげ)をおとし弟子前鬼後鬼及五鬼(でしぜんきごきおよびごき)を、五十町下(ちやうした)の前鬼山(ぜんきざん)に残してこの山の守護(しゆご)を托(たく)し、去(さ)って箕面(みのお)の天上岳(てんじやうだけ)より登天せられたと云(い)ふ。採燈大護摩供(さいとうだいごまく)を勤修(ごんしう)す。 


修験第二十號 (大正十五年九月一日發行) - 大峰山の霊蹟に就て -

2011年08月19日 17時38分16秒 | 大峰奥駈

  大峰奥駈七十五靡の名称と道程        宮城信雅  

  三十九  都津門(とつもん)

 

 釈迦嶽(しやかがだけ)の中腹(ちうふく)にあり、俗(ぞく)に胎内くゞりと云(い)ふ危険な行場(ぎやうば)である。幾百尺(いくひやくしやく)の絶壁(ぜつぺき)にある岩穴(いはあな)をくゞり、其端(そのはし)をまわるのである。こゝではいかなるものも、一生懸命(いつしやうけんめい)、御真言(ごしんごん)の声がでる。


修験第二十號 (大正十五年九月一日發行) - 大峰山の霊蹟に就て -

2011年08月19日 12時50分19秒 | 大峰奥駈

 

  大峰奥駈七十五靡の名称と道程        宮城信雅  

  四十  釈迦嶽(しやかだけ)

 

 空鉢(くうはち)より杖捨、念仏橋、馬の背の険(けん)を超えて釈迦嶽頂上(しやかだけてうぜう)に至る。

 頂上には大阪佛立会(おおさかぶつりうくわい)の建立(こんりう)せる釈尊(しやくそん)の大銅像(だいどうざう)が一昨年建立(いちさくねんこんりう)せられた。立派なものである。尚佛立会(なおぶつりうくわい)は縁(ゑん)の鼻(はな)に蔵王権現(ざうわうごんげん)の立像(りつざう)、大日嶽(だいにちだけ)に大日尊(だいにちそん)の座像(ざざう)を建立された。

 三郷講(さんごうこう)の事業と共(とも)に、峯中(みねちう)に於(お)ける称賛(しやうさん)すべき事業である。往昔(わうせき)は釈迦堂(しやかだう)あり、閻浮檀金(えんふだんこん)の釈迦三尊(しやかさんぞん)が祭(あつ)られてゐたのであるが、現今(げんこん)は前鬼山(ぜんきざん)に祭られてゐる。こゝ亦峯中(またみねちう)での眺望(てうぼう)よき處(ところ)である。


修験第二十號 (大正十五年九月一日發行) - 大峰山の霊蹟に就て -

2011年08月18日 08時29分03秒 | 大峰奥駈

  大峰奥駈七十五靡の名称と道程        宮城信雅  

  四十一  空鉢ケ岳(くうばちケだけ)

 

 大岸壁(だいがんぺき)の下に小祠(せうし)をまつる。孔雀岳(くじやくだけ)より、このあたりに至る、道路最大(だうろさいだい)の険阻名所亦多(けいそめいしよまたおほ)し。

 極楽の東門、孔雀より少しく行きて路(みち)の左方深(さほうふか)き谷間(たにま)にあり絶景(ぜつけい)なり。

 両部分け、岸壁(がんぺき)のさけ目をわたる。胎金両部曼荼羅(たいこんりやうぶまんだら)の分け目と云ふ。

 五百羅漢、道の左方谷間に、つくつくと奇岩兀立(きがんこつりつ)す。

 緑の鼻、眼下(ぐわんか)は絶壁の渓間(けいかん)、前方に七面山(しちめんざん)、左方に十六羅漢石(じゆうろくらかんいし)の一部をながめ、左端釈迦嶽(さたんしやかだけ)の険峰峙(けんほうそばだ)ち、峰中第一(みねちうだいいち)の絶景なり。

 十六羅漢、縁の鼻(ゑんのはな)より少しく行きて右方谷間(うほうたにま)に兀立(こつりつ)す。鉄鉢石、空鉢(くうはち)の少しく手前(てまへ)、大岸壁の上に鉄鉢(てつばち)をのせたる如(ごと)き形(かたち)あり。


修験第二十號 (大正十五年九月一日發行) - 大峰山の霊蹟に就て -

2011年08月17日 08時47分50秒 | 大峰奥駈

  大峰奥駈七十五靡の名称と道程        宮城信雅  

  四十二  孔雀ケ岳(くじやくケだけ)

 

 こゝにて弁当(べんとう)を食す。佛性釈迦(ぶつしやうしやか)と共(とも)に八経(きやう)につぐ高峰(かうほう)である。弥山(みせん)より前鬼(ぜんき)まで約八里(り)とすれば、この辺(へん)が中央(ちうあう)であらうと思う。