第一章 序 章
宗学講述態度
茲(ここ)に寺門(じもん)の宗学を講述(こうじゆつ)するに當(あた)つて、一家教学研究(いちけけうがくけんきう)の困難性を指摘しよう。第一に気付くのは、寺門天台(じもんてんだい)は一般の天台史と消長(ぜうてう)を共にしたのであつて時代により説明なり組織に甚(はなは)だしい変遷(へんせん)があつて、名目三年(めいもくさんねん)といはれる如くそれに患(わづら)はされ全般を捕捉(ほそく)するは容易ではない。第二に先哲(せんてつ)の違著(ゐちよ)を通観(つうかん)するに、分科法門(ぶんかはふもん)の一々個々の学として宗学研鑽(しうがくけんさん)の資(し)とするのは多いのであるが、未(いま)だ宗学全体を一つのものとして概説(がいせつ)されたのは殆(ほとん)ど見出(みいだ)すことが出来ない。第三に、圓蜜等(ゑんみつなど)を始め各法門(かくはふもん)を単独に扱ふ為め、同一の語(ご)を説明するにも各法門の立場(たちば)に於いてする故(ゆゑ)、区々雑多(く々ざつた)で然(しか)も確説(かくせつ)がない。これ等(ら)は宗学(しうがく)がその組成(そせい)に於いて多種(たしゆ)の法門があり、その教学方法は帰納的(きのうてき)より演檡的(えんたくてき)であり、自由討究(じいうたうけん)の解釈法(かいしやくほう)を採用した為(ため)であろう。
故(ゆゑ)に新時代に即応(そくおう)した観点(かんてん)より、宗学全体に亙(わた)る新組織を要望される現下(げんか)に於て、本書(ほんしよ)は過去に於ける教学を顧(かへ)りみて従来(じうらい)の見方はそのまゝとし、清新(せいしん)な独自(どくじ)の見地(けんち)から宗学を眺(なが)め、且(か)つその組織に於ても説明に於ても、必ずしも舊説(ぎうせつ)に拘泥(こうでい)することなく学的立場(がくてきたちば)より取捨選択(しゆしやせんたく)を行(おこな)ひなし得(う)る限り簡明(かんめい)と平易(へいい)を旨(むね)として宗学の大要(たいよう)を会得(えとく)せしむる様に努めたいのであります。