きもブログ

 「いやどみ☆こ~せい」のブログ。
後悔と、
希望。
これまでも、これからも、今を刻むブログです。

物語の終焉は、いつも少しだけ無念を遺して

2009年10月06日 02時56分11秒 | Weblog
今日の仕事が終わった。
ずいぶん晩くなっちゃったな。
やりたいことが全て後回しになってしまった。
今、風呂を入れているところ。以前と違って、このマンションは10分足らずでお風呂が沸く。こういう時に、「金で時間を買ってしまったな」なんて思ったりする。
前の住まいは風呂の準備中にブログを更新したりして、それはそれでよかった。一日の終焉が間延びして、振り返る時間が与えられたぶん、それまでの24時間に重みが増す。
どんな物事にも始まりと終わりがあり、終焉は何よりも大事だ。自身にとっても。他者に向きあうときも。

終焉から先は、人は歳をとることも成長することもできないからだ。挽回も、抱擁も、失敗する機会もなく、ゆえに終焉のイメージのまま、人の記憶に組み込まれてしまうからだ。


中川昭一氏が亡くなった。
北海道の振興。拉致被害者への支援。派閥や党を超えて笑顔を交換していた議会の映像。
人間味のある政治家だったようだ。

不器用ゆえに酒に身を委ね、招いてしまった失態。
「日本全体が恥をかいた」となじられた、あの姿。

多くの人にとっては、「あの会見をやった人」。
身近な人たちにとっては許しがたい世間の反応だったろう。
「中川さんを誤解してほしくない。」だからこそ、あの姿は許せなかったに違いない。

つまり、許してもらえない失態だった。

疲れたろう。
悔しかったろう。

疲れ果て、ベットの上に俯せになる夫。
起こしちゃいけないと、見守って部屋を離れた妻。

その終焉が、すごく切なく思い浮かべられてしまう。
世間の評価のために、人は生をうけたのか。
終焉のために、人は歩みを進めるのか。


そうじゃない。
そうじゃないような気がする。

大物議員と呼ばれている、いい歳をしたオッサンたちが、訃報を知り恥じらいもなく見せた涙。

「死因」だの「転落」だのにこだわるマスコミとはかけ離れた次元で、その流れていた議員たちの涙が、いつもと違ってとても美しく感じられたからだ。