きもブログ

 「いやどみ☆こ~せい」のブログ。
後悔と、
希望。
これまでも、これからも、今を刻むブログです。

冷たい背中と胚芽ピザ

2009年02月26日 01時14分31秒 | Weblog
三㌔減量の自分へのご褒美に、ピザを注文した。しかも二枚。届けば「冷めないうちに」と称して、即食べ、早食い。どうもこの「早食い」っていうのが体に良くないらしい……と解っていつつも、どうして飲むように食べるんだか。
一方で、数年前から痛めている背中は一向に良くなる気配がない。鉛が入っているかのような……、時には針が刺さっているかのような……。触っていると、首から背中にかけて、いつも冷たい。なんなんだろう。
「何でも飲みこむように食べるからだよ」と、以前お世話になっていた整体師は話していた。胃もたれのような、消化不良のような、そんな痛みもあるし、これが原因なのかな。

思えば、何でも無理矢理「飲み込む」癖がある。言われてもよくわからないことに対して、とりあえず「はあ……」と答え、あとで何とかしようとする。誰かに聞いて調べりゃいいか、と。そうやって、今の自分を楽にさせる。「未来の自分がきっとやってくれる」と、望みを託す。そして、未来がどんどん濃い霧につつまれていく。近眼の眼と、鉛を背負った背中で、どうやって明るい明日を予想すりゃいいんだろう。

見るからに危険な「半熟たまごのてりやきピザ」は、即座に飲み込まれていった。
だめだな、俺。
ごめんね、俺。

酩酊と情熱のあいだに

2009年02月18日 00時59分57秒 | Weblog
中川財務長官が辞任した。
ニュースで幾度となく放映されたあの姿はどう見ても、志村けんの酔っ払いコントだった。あれが本当に「風邪薬の飲み過ぎ」が原因なら、俺はもう風邪薬のみたくねえぞ。

「舞台では、客から観られた姿が真実にならざるを得ない」というのが、これまで学んできた演劇観のひとつ。観た人がそう感じたら、ほとんどそれが真実で、弁解しても「いいわけ」にしか聞こえない。真実が別にあるなら悲しいことだけど、「誤解されること」を覚悟にしながら、人間生きて行かねばならない部分があると思う。
いやあ、難しいよ。観せながら生きていくってさ。

今日は、九年前の同僚と再開。食いすぎた。「こんにゃくダイエット」でせっかく2.5KG痩せたのに、ここでまた食っちゃうの?と、一瞬ためらったが、気付いたらシメのラーメンを食べていた。ああ、またサイコロをふりなおしだ。

あしたからまた、「真実」のつくりなおし。言い訳不要。出した結果が「答え」なら、つべこべ言わずコンニャク食うしかねえな。

あ、そういや台本書かなくちゃ。しかも二つ。舞台に間に合うかね……。

そんなアレコレを考えただけでも痩せそうなんだけどなあ。

惜別の日

2009年02月13日 00時43分35秒 | Weblog
今日が最終日。

まあ、正式な最終日ではないんだけどさ。

最終学年を三回連続でもつ。出会いと別れのバランスが、なんとなく「別れ」に傾いている俺の人生。神は何を与えたいのか。俺はどこに向かうべきなのか。

さあ、
また岐路に立ったぞ。

去年の卒業生、元気にしてるか?電話、かみあわねえな。

一昨年の卒業生、どうしてる?まだ思い出にひたってくれてるか?

五年前の卒業生。おれもう、外見かわっちまったぞ?

今年卒業するお前ら。……うーん。通信読んでくれて、ありがと。

今日のこの日。
毎年くる、この日。
いつも迎え方、わかんねえや。笑って迎えたら、正解なのかな。

その先に何を描くか。

2009年02月09日 00時22分29秒 | Weblog
買ったばかりなのに余り活用できていないAQUOS。久々にテレビをつけてみると、久々に見る顔が……。
たぶん工藤夕貴……だと思う。「工藤さん」と呼ばれているし。慣れた手つきで日曜大工や農作業をしている。
『SAYURI』や『ラッシュアワー』に出て、和製ハリウッド女優の道まっしぐら……だろうなと予想していた彼女を、このような姿で見たのには驚いた。昔はドリフにも出ていた愛嬌のあるアイドルだった。歌手もしてたかもしれない。ところが、舞台俳優、映画俳優と、「役者としての理想」を一通り経験した彼女が今選んでいる道は、「自給自足」なのである。

夢、というのは人それぞれである。なかでも「女優になりたい!」という、ありがちで途方もない夢を具体化した工藤。その彼女の今の姿を見て、こういうのが意外と「人間の究極の理想」なのかもしれないな、と思った。
映画やドラマでも、「最後は夫婦二人、農場でのんびりと…」なんてグッドエンドをたまに見る。束縛のない自由?まさしく究極かもしれないな。今そうしたいとは思わないけど、いずれそうしたいと願うことになる、ような気がする。みんなそうなるんだろうか……。だとしたら、今のうちに「その道」に進んでおいたら、30年後、俺は地域のパイオニア的存在になれるな……。

狩猟をし、耕作をし、製造をし……、そして娯楽へ。科学も文明も、発達にはまだまだ余力を残している。でも人間は、ひょっとしたら余計なことをやりすぎているのかもしれない。メタボや薬害で苦しまなくちゃいけない時代。自分から死を選ぶ、なんて不条理極まりない選択を、簡単にしてしまう時代。温暖化でほてった地球をクーラーで冷やすような、余計に余計を重ねた結果、愚かさに気付いた人間は、もはや疲れてしまってる。極致を見てしまった人間は、原始的生活への回帰を無意識に目指しているのかもしれない。

液晶AQUOSのデジタルハイビジョンに映ってた工藤夕貴。現代文明が、顔の一本一本のシワをリアルに映していたが、彼女の描く人生にそんなものは関係ない。
少し未来の、憧れ。
本当の幸せが何かを考えれば、いつも「今」が馬鹿馬鹿しく思えて、笑えてくる。

欠けない月

2009年02月04日 01時39分56秒 | Weblog
釈迦が生きていた頃の話。
ある家の子どもが水難で溺死してしまい、その母は悲しんでいた。我が子を何とかして生き返らせたいと思った母は、釈迦のもとに行く。釈迦は、「死者が一人も出ていない家に行き、その庭に実っているケシの実を死んだ子に食べさせれば、生き返る。」と告げる。しかし、母親は「死者が一人も出ていない家」を見つけることができない。そして「死は誰にでも訪れるものなのだ」と悟る。どのような形であれ、人には平等に死が訪れるのだ、と。

この説話を、祖母が亡くなったとき、お寺の和尚さんが僕たちに話してくれた。まだ若かった僕の心にひっかかったのは「平等」という言葉。僕はそれを「皆死ぬということ」というより、「生と死に隔たりはない」という意味での平等だと、なんとなく解釈した。

最近、亡くなった人たちの夢を、よく見る。一緒にバスに乗ったり、近況を話したりする夢。で、夢の中で、「そういえばこの人、亡くなってたんだよね」というふうに思い出した瞬間、その人は別人にすりかえられてしまう。そんな夢。
夢の中だけど、確実に僕はコミュニケーションをとっている。翌朝、あまり思い出せないけど、確実に。
仏教には、「輪廻」という考え方がある。都合よく考えれば、僕の夢の中で、あのひとたちは「輪廻」している。「転生」ではないかもしれないけれど……。

「心の中で生きている」というフレーズを極端に嫌う現実主義者がいる。コミュニケーションとは、語義通り、「相手が実在して」こそのものだ、と考えるのが普通だろう。だから、「心の中で生きている」という考え方を、単なる独りよがりや自己満足に過ぎない、と考えてしまうのだろう。

でも僕は、普段の「コミュニケーション」そのものが、独りよがりと自己満足に満ち溢れているように思えてならない。生身の人間同士の接触こそ、不確かで流動性のある危ういものだと感じているから。
「対話」をし、今の「自己」のありかたを確認する。相手は頷き、その表情を読み取って、シンパシーが生まれたように感じる。しかしそれはすべて、自己満足という前提で成り立つもの。だって、他人の脳内にでも入り込まない限り、いかなる時も自己満足の域を出ることはないのだから。

そう考える。拡大解釈的に。

そうすると、生きるもの、もう生きていないものの区別が、僕の中で曖昧になる。実体があろうがなかろうが、夢だろうがうつつだろうが、同じレベルでの対話もできるし、コミュニケーションもとれる。大差はない。これは生身の他者を拒絶しているという意味ではない。ただ、誰にとっても、いつも座標の中心は自分に向けられているから、コミュニケーションの質に差はないということ。

今、僕が頼りにしているのは、10年近く前に亡くなった祖父(養父)の言葉。あのまま生き続けているメッセージとの対話。そして、今同時に呼吸している、隣人たちの言葉。生き様。イメージ。

僕がこのままでいいのか、一緒に考えている。

天井に浮かぶ、欠けない月を眺めながら。