奈良の山寺を散策~壷阪寺~
南に桜の名所吉野山を控え、北に万葉のふるさと大和三山や奈良盆地を一望におさめる壺阪の山に建っています。
大宝三年(703年)に元興寺の弁基上人がこの山で修行していたところ、愛用の水晶の壺を坂の上の庵に納め、感得した像を刻んでまつったのが始で、その後朝廷より壺阪山南法華寺の正式寺号を賜ったのです。
歴史ある南法華寺ですが、壺阪寺や壺阪観音の名称でよく知られておりますが、壺阪寺の魅力を感じながら境内を歩いてみましょう。
~壺阪山南法華寺(壺阪寺)の縁起~
近鉄吉野線「壺阪山」駅を下車し、駅前から、奈良交通バス「壺阪寺前」行きに乗車し、終点の「壺阪寺前」で下車し、上り坂を道なり進むと、左手に南法華寺(壺阪寺)に向かって坂を下りる歩道があり、バス停から壺阪寺まで徒歩約10分です。
壺阪山の庵を結んでいた弁基上人は水晶の壺を愛でていたが、大宝3年(703年)、その壺の中に千手観音像を感得したという。弁基上人はその姿を刻み、像を庵に安置したとされており、これがこの寺の創始と伝えられており、壺阪の名もこれに由来しているといわれています。
元正天皇はこれを知り、養老元年(717年)に八角殿を建て、ここに壺と観音像を安置し、南法華寺の名を与えたという。
南法華寺は平安時代に全盛期を迎え、36堂60坊の大伽藍が造営されたと伝えられています。その後、数度の大火に遭遇し諸堂が焼失したのです。現在の諸堂は室町時代に再建されたものが基になっているようです。
壺阪寺の本尊は眼病に霊験のある仏として昔から信仰され、元正天皇、一条天皇、桓武天皇をはじめ眼病平癒を祈願する人は多かったとされていますが、特に、近年壺阪寺が眼病患者を救う観音を祀る寺として有名になったのは、明治時代に失明回復祈願にまつわるお里沢市の夫婦愛を描いた浄瑠璃、壺阪霊験記が世間に共感をよんだことによるといわれています。
~壺阪寺と持統天皇の関係~
持統天皇は壬申の乱で有名な天武天皇の妻で、夫婦で合葬されており、歴代の天皇の中でもおしどり夫婦でしたが、持統天皇は大宝2年(702年)12月22日に亡くなっております。
天皇や貴族など身分の高い人が亡くなったときはもがりといって1年ほど本葬をする前に、遺骸を納めて祀る期間があり、実際の火葬は1年後の大宝3年(703年)で、この年に壺阪寺が創設されています。
続日本記によれば大宝3年12月17日に飛鳥の村の岡で火葬され、26日に天武天皇陵である大内山陵に合葬されたと記載されています。