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万葉集をわかりやすく解説~石上神宮とその周辺~

2019-08-02 08:45:05 | 地域と文化

作者 未詳 巻十 一九二七番歌

 石上 布留の神杉(かむすぎ) 神びにし われやさらさら 恋に逢ひにける

 

訳:石上の布留の神杉のように神々しく押しを取ってしまったのか、まだまだ恋に逢ったのかなあ。

 

解説

 恋に年齢は関係ない、といいますが、皆さんはどう思いますか。幼ければ幼いなりに、年齢を重ねた人にはそれなりに、人を恋しく思う気持ちは生まれるように思います。しかもそれは、あるとき突然やってくるもののようです。

 この歌では、「恋に逢ひにける」と、思いがけず恋というものに出会ってしまったとあります。しかも「神びにし」とは神々しく人間離れした、恋とは真逆の状態をいいます。つまり、久しく恋とは無縁の生活を送っていた年を取った自分が、また恋に出会ってしまった、というのです。若い頃は多くの恋をしたけれど、今になってまたこんな恋をするなんて、とまどいつつも新鮮な感動を味わったものかもしれません。

 そうした、みずみずしい恋の驚きを導く表現として「石上布留の神杉」が詠まれています。「神杉」と「神びにし」と同じ音を重ねることで、つながりが生まれます。

 「石上」といえば、石上神宮が有名です。周辺には現在も「石上町」や「布留町」という地名が残っています。石上神宮は「日本書紀」にも登場する最古の神社の一つで、この歌でも、石上神宮の境内にあった神聖な「神杉」だからこそ「神び」にかかる象徴的な表現として相応(ふさわ)しかったようです。よく似た歌に「石上布留の神杉さびて恋をもわれは更にするかも」(巻十一 二四一七番歌)があります。ほぼ同じ意味ですから、よくうたわれていたのかもしれません。

現在もご神木の杉が神々しく境内にそびえています。

 

万葉集ゆかりの地~石上神宮~

 石上神宮は、大和盆地の中央東寄り、龍王山(りゅうおうざん)の西の麓、布留山(ふるやま・標高266メートル)の北西麓の高台に鎮座し、境内はうっそうとした常緑樹に囲まれ、神さびた自然の姿を今に残しています。北方には布留川が流れ、周辺は古墳密集地帯として知られています。

 石上神宮は、日本最古の神社の一つで、武門の棟梁たる物部氏の総氏神として古代信仰の中でも特に異彩を放ち、健康長寿・病気平癒・除災招福・百事成就の守護神として信仰されてきました。

 総称して石上大神(いそのかみのおおかみ)と仰がれる御祭神は、第10代崇神天皇7年に現地、石上布留(ふる)の高庭(たかにわ)に祀られました。古典には「石上神宮」「石上振神宮(いそのかみふるじんぐう)」「石上坐布都御魂神社(いそのかみにますふつのみたまじんじゃ)」等と記され、この他「石上社」「布留社」とも呼ばれていました。

 中世に入ると、興福寺の荘園拡大・守護権力の強大化により、布留川を挟み南北二郷からなる布留郷を中心とした氏人は、同寺とたびたび抗争しました。戦国時代に至り、織田尾張勢の乱入により社頭は破却され、壱千石と称した神領も没収され衰微していきました。しかし、氏人たちの力強い信仰に支えられて明治を迎え、神祇の国家管理が行われるに伴い、明治4年官幣大社に列し、同16年には神宮号復称が許されました。

 当初石上神宮には本殿がなく、拝殿後方の禁足地(きんそくち)を御本地(ごほんち)と称し、その中央に主祭神が埋斎され、諸神は拝殿に配祀されていました。明治7年菅政友(かんまさとも)大宮司により禁足地が発掘され、御神体の出御を仰ぎ、大正2年御本殿が造営されました。 

 

              

 

 

          

 

         

内山永久寺跡

 内山永久寺(うちやまえいきゅうじ)は天理市杣之内町にかつて存在した廃寺です。平安時代後期の永久2(1114)年に鳥羽天皇の勅願により興福寺僧頼実が創建したと伝えられ、往時は壮麗な大伽藍を誇ったといわれます。しかし、明治年間の廃仏毀釈より徹底的な破壊を受け、いまは境内の池などにわずかに面影を残すに過ぎません。

 内山永久寺は院号を金剛乗院といい、真言宗(古義派)に属し、阿弥陀如来を安置していたとされます。創建時の年号によって永久寺と称し、その地が五鈷杵(ごこしょ)の形をして内に一つの山があったので内山と号したといわれています。

 鎌倉時代の古文書によって寺運の隆盛が偲ばれ、延元元(1336)年には後醍醐天皇も吉野に行幸する際に当寺に立ち寄っています。室町時代には「大乗院寺社雑事記」にしばしば金剛乗院または内山永久寺のことが記載されています。寺領は最盛期には971石に達し、境内は五町四方の広大な地域をしめたといわれます。江戸時代末期まで40有余坊の伽藍があり、上街道の浄国寺北側より永久寺西門に至る間に石畳を敷き、参詣者が常に絶えなかったといいます。元治元(1864)年には勤王派の絵師冷泉為恭(れいぜいためちか)も一時この寺に身を寄せた記録が残っています。 

 明治維新後に寺領の返還、境内の土地や伽藍の売却などの変事があり、明治9(1877)年までに「大和の日光」ともうたわれた豪華な堂坊が礎石から瓦一枚に至るまでとりのぞかれました。現在は本堂池がわずかに当時の面影を残すのみとなっています。貴重な仏像、障壁画、仏画等は散逸し、一部は国外にも流出しています。 


         


          


          


            

 



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