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日本書紀ゆかりの地を巡る(藤原京)

2019-10-01 07:10:16 | 地域と文化

飛鳥宮から藤原京へ遷都

 七世紀末、飛鳥の北、大和三山を取り囲むようにして日本で最初の本格的な都が造営されました。中国の都城を手本に、東西南北を碁盤の目のように区画する「条坊制」を採用した「藤原京」です。「日本書紀」には新益京(しんやくのみやこ)と記され、694年に遷都が行われたとされています。

 藤原京は、天武天皇が新しい国造りを目的に構想し、皇后の持統天皇が造営を推進しました。持統天皇は夫の崩御後に自ら天皇となって政務を受け継ぎ、国家の礎となる法令「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」の施行、戸籍の整備など、律令国家体制の整備を行ったのです。

 「日本書紀」には、夫との思い出の地である吉野へ30回以上も行幸したことや、天武天皇が妻の持統天皇の病気回復を祈って、薬師寺を建立したエピソードも記されています。そして「日本書紀」は、持統天皇が、孫である軽皇子(かるのみこ)に譲位したという記載で結ばれています。

 現在、特別史跡藤原宮跡から南へ少し進んだ所に、檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)がひっそりとたたんずんでいます。ここに、さまざまな苦楽を共にした天武天皇・持統天皇夫婦は寄り添うように眠っています。

「檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)」(天武・持統天皇陵)

 奈良県高市郡明日香村にある野口王墓は宮内庁により檜隈大内陵(天武・持統天皇陵)として治定され、平成27年度には日本遺産に認定されました。

 日本最大の内乱、壬申の乱の戦火の中で後の天武天皇と、戦いを支え続けた後の持統天皇。愛と絆で困難を乗り越えた両天皇の事績を知り、見晴らしのいい陵を見ていると古人の声が聞こえてくるかも

        

 檜隈大内陵は「ひのくまのおおうちのみささぎ」と読みます。宮内庁により第40代天武天皇・第41代持統天皇陵と治定されているこの場所ですが、日本書紀に大内陵と記されていることが関係しています。檜隈大内陵が正式名称ですが、一般には天武・持統天皇陵で認識されていますし、数ある陵の中で歴史的経緯から両天皇の陵であることが確実となっています。

 石段を上がっての陵となり、東西やく68m、南北45m、高さ9mの円墳状となっています。古墳は八角形となっており内部は二室に分かれていて、そこが墓室となっていました。残念ながら後に盗掘によって荒らされておりました。

 墳丘から見下ろすこの風景を、約1300年前の持統天皇も見られたのではないでしょうか。686年(朱鳥元年)に崩御された天武天皇のために築かれたのがこの場所なのです。その後、702年(大宝2年)に持統天皇が崩御され、天皇として初めての火葬の後、合葬されました。

   

 

       

 

       

             

 

 

 

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