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日本で最初の仏教寺院「飛鳥寺」

2020-06-27 07:46:24 | 地域と文化
~日本最初の仏教寺院“飛鳥寺”~
 甘樫丘を挟んで飛鳥川の西に飛鳥寺があります。近鉄吉野線飛鳥駅から明日香周遊バスに乗り飛鳥大仏バス停で降りたところにあり、所在地は明日香村飛鳥です。
寺の周辺は、飛鳥の自然が広がっていますので、バスもいいですが、歩いて回るのもよい地域です。
~飛鳥寺の草創~
飛鳥寺の現在の寺院は、安吾院といい真言宗豊山派です。
飛鳥寺ですが、建てたのは蘇我馬子といわれており、建立の目的ですが、権力を誇示することが必要だったといわれています。
用明2年5月蘇我馬子は政敵であった物部守屋を河内で倒したのです。この戦いには聖徳太子も蘇我氏の陣営におり、この結果、蘇我馬子はほぼ全権力を手中に収めることになるのですが、それを確固たるものにするためにその強大な権力を皇族、豪族、民衆に誇示し畏服させる必要がありました。その一つの方法として古今東西の権力者が常套手段としてきたもので、人が驚きその力に畏怖するほどの巨大で斬新な建造物の造立で、それが飛鳥寺だったのです。
飛鳥寺の建立までの軌跡ですが、崇峻元年(588年)に造営が開始され、推古4年(596年)、一応の完成を見せ馬子は息子の膳徳を寺司に任命し、僧を居住させ、推古13年(605年)に本尊の鋳造を開始した際に、高麗国の大興王から黄金三百両が送られ、推古14年(606年)に本尊が完成して金堂に安置して寺として完成しました。
法号は法興寺または元興寺といわれており、飛鳥寺は当時の朝鮮半島の先端技術によって建立された本格的な伽藍をもった我が国最初の仏教寺院です。
~創建時の伽藍配置~
 昭和31年(1956年)~昭和32年(1957年)に行われた発掘調査で、伽藍配置は、南大門、中門、塔、中金堂、講堂と一直線上に並び、更に塔の東西に金堂を配置するという「一塔三金堂」式伽藍であったことが判明したのです。
この結果、四天王寺式伽藍配置が我が国で最も古いとされていた定設を覆すことになったのです。
この伽藍配置は高句麗の寺院跡にその例が見られるといわれ、当時の朝鮮半島の寺院建立形式が色濃く反映されています。
飛鳥寺の建築技術は、古代朝鮮半島の先端技術が導入されました。
飛鳥寺は蘇我氏と結びつきが強く、渡来人に繋がる朝鮮半島の百済国などから6人の僧、寺大工、露盤博士、瓦博士、画工などの派遣を受けたと日本書紀に記されており、彼らの指導の下に建立されたと考えられ、また聖徳太子の師といわれる高句麗の高僧、恵慈など、既に日本に渡来していた僧もその指導に加わっていたであろうと推測されています。
伽藍の規模ですが、飛鳥寺の寺域は、南北293m、北辺215m、南辺260mの台形であったことも発掘調査の結果で明らかになっています。
~飛鳥寺は日本仏教の先導者~
 飛鳥寺完成を契機にして、仏教は当時の支配者層である豪族へ急速に広がりを見せ興隆したのです。飛鳥寺は、その興隆の常に中心にあってそれを支え、また、その先導者として大変重要な役割を果たしたのです。
つまり、聖徳太子の師といわれる高句麗の高僧の恵慈や完成時に来朝した百済の高僧である恵聡などがこの寺に住して本格的な教学研究の場となったのです。
下って推古天皇33年(625年)に高句麗僧の恵灌が来朝して法興寺に入り、三論宗を講説して我が国に初めて体系的な仏教教学を伝へ、さらに斉明天皇7年(661年)に飛鳥寺の僧である道昭が唐留学を終え帰朝して玄奘三蔵より学んだ唯識設(法相宗)を初めて伝えています。さらに下って天平期には飛鳥寺(平城京・元興寺)の僧である智光が三論宗の「空」の概念から、後の浄土思想の源流となる観想浄土系の浄土思想を独自に展開したのです。これらの史実が示すとおり、三論宗や法相宗を初めとする日本仏教は、この寺から全て出発し発展したのです。つまり、日本仏教のルーツはこの法興寺にあるといえるのです。

  


         



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