奈良の魅力を発信

奈良のグルメ情報や史跡・名勝・万葉集・古事記・日本書紀・昔話のゆかりの土地を紹介します
ので、よろしくです!!

万葉集をわかりやすく解説~大和三山の妻争い~

2020-03-04 14:21:36 | 地域と文化
万葉集をわかりやすく解説~大和三山の妻争い~

作者:中大兄皇子 (巻1・13番歌)

香具山は 畝傍ををしと 耳成と 相争ひき 神代(かむよ)より かくにあるらし 古(いにしへ)も しかにあれこそ 妻を 争ふらしき
(訳:香久山は畝傍山が愛しいといって、耳成山と争った。神代の時代からこんなふうであるらしい。昔もそうだからこそ、今の世でも妻を争うらしい。)
反歌
作者:中大兄皇子 (巻1・14番歌)

香具山と 耳成山と 闘(あ)ひし時 立ちて見に来(こ)し 印南国原(いなみくにはら)
(訳:ああ、ここが、香具山と耳成山とが争った時、阿菩大神(あぼのおおかみ)が立って見に来たという印南国原だ。)

作者:中大兄皇子 (巻1・15番歌)

海神(わたつみ)の 豊旗雲(とよはたくも)に 入日(いりひ)さし 今夜(こよひ)の月夜(つくよ) さやけくありこそ
(訳:大海原に大きくはためく雲に、燃えるような入り日の射すのを見た今夜は、月も澄み切って明るく照り輝いてほしい。)

・・・やさしく解説・・・
この長歌は有名な大和三山の妻争いの伝説を歌ったものです。
大和平野の南部には香具山・畝傍山・耳成山の三山が向かい合うようにあります。
この三山が妻争いをしたという伝説が「播磨国風土記」に記されています。それによれば、三山が争うと聞いて出雲の阿菩大神が仲裁に来たが、争いが止んだので、その地、播磨の国印南野に船を逆さに伏せて留まり、さて、この歌の三山の性別をmwぐっては、二説あります。
一つは、男山の香久山が女山の畝傍を「をしーーー愛し(=かわいい)」または「惜し(=失うのが惜しい)」と思い、男山の耳成と争ったというものです。
もう一つは、女山の香久山が男山の畝傍を「ををしーーー雄々しい(=男らしい)」と思い女山の耳成と争ったとするものです。
原文は「雄男志」とあり「雄々し」のようですが、現実には一人の女を争う方が自然であると思われます。
作者は中大兄皇子で、前述の新羅(しらぎ)遠征の際、伝説ゆかりの播磨の国印南野を過ぎた時に詠んだといいます。
また、この歌からは額田王を巡る、弟大海人皇子との妻争いが連想されます。
額田王は初め大海人皇子の妻で、十市皇女を生んだが、後に天智天皇となった中大兄皇子の後宮に入ったのです。
この時代の婚姻を今の感覚ではかるわけにはいけませんが、葛藤がなかったとはいえないだろうと思われます。
15番の歌は内容がかけ離れているので、反歌ではないとも言われてきたのです。「わたつみ」は海神から転じて海をさします。
「豊」は荘麗さを讃えるほめことば、「旗雲」は旗のように大空を横切って大きくはためく雲。神代を想わせる雄渾(ゆうこん)な調べであるといえます。





大和の石仏巡り~空海寺の神像石(奈良市)~

2020-03-04 07:16:28 | 地域と文化
大和の石仏巡り~空海寺の神像石(奈良市)~
 春日奥山ドライブウェイ手前の脇道に入ると民家が立ち並んでいます。
辺りは東大寺ゆかりの生業(なりわい)をする人たちが住んだ東大寺郷なのです。
そこに唐から帰った弘法大師空海が結んだ草庵があります。それが空海寺なのです。
左に聖徳太子像、右に不動明王を従えるのは、空海自らが彫ったという本尊、阿弥陀地蔵尊なのです。
穴地蔵と称された石仏で、本堂堂背の内陣に納められた秘仏だそうです。
この本堂前に高さ70㎝、幅約45㎝の長方形の板状石があります。枠取りされた中に、烏帽子(えぼし)を被り、貫頭衣を着て、両手で笏(しゃく)を持ち、腰に剣を指した男神像が佇んでいるのです。
像の高さは約41㎝、神の名前は不明なのですが、室町時代頃の作とされています。
奈良時代に神仏習合によって神宮寺と呼ばれる寺院が建てられ、同時に神像が造られたのです。
男神は冠や袍を着け笏を持った日本古来の姿で、女神は袖の無い上衣や十二単をまとった貴族の服装を身に着けた姿となったのです。
大将軍神、大黒天の姿の大国主命(おおくにぬしのみこと)、僧形の八幡神等が代表的な神像としてあげられます。
仏教伝来以来、日本の神々と仏を類似のものとする考えが浸透し、古来の神は排されることなく、神仏はともに尊いものとして並んだのです。
神と仏が融合したことで、平安時代後期には、仏(=本地)が人々を救うために仮の姿である神となって現れる(=垂迹(すいじゃく))と考えられるようになったのです。
この神仏習合思想の一つである本地垂迹に基づく思想が発展して、菩薩の名を持つ神が現れ、権現や明神という尊称も生じたと考えられます。
山王神道、本地垂迹思想、そして神への信仰が浄土往生思想へと結ばれると解釈することができます。
こうした神仏の一体化は、明治時代の神仏分離令まで続いたのです。