花恋人

山野草や蝶・トンボなどの昆虫、冬は野鳥です。

前橋探訪 その15

2007-01-26 | Weblog
その15は前橋藩 刑場跡供養塔です。

この供養塔は天川松並木の西端に建てられています。
詳しくは下の説明文をお読み下さい。
説明文以外で調べたことを、最下に個条書きします。

1、供養塔脇にある看板の説明文です。


2、これが前橋藩刑場跡供養塔です。


3、供養塔の西側にある道しるべには、正面中央に「南無阿弥陀仏」、左右に分けて「宝暦五歳」と「亥十月吉日」、
下に「右江戸みち、左あ徒満道」と記されています。
松並木は江戸時代、前橋候や沼田候が参勤交代する際の公道でした。


4、供養塔は昭和47年に現在地に移動されたもので、その前は現在地よリ100m程北にあった、
と文献に記してあったので地元のおばあちゃんにその場所まで案内してもらったら、ここ教習所入口にあったそうです。
写真右端に現在地の供養塔が見えます。執念で場所を特定できました。


5、説明文以外で調べたこと
 イ、江戸時代、生命を断つ処刑には鋸挽・磔・獄門・火罪・死罪・斬罪・下手人などがあった。
 ロ、処刑の場所は立石(藤岡市)・天川原(天川大島町)・諏訪町裏(城東町)・真政(南町)・田町(本町、表町)にあった。
 ハ、鋸挽の記録はなく、磔が一番重い。磔は酒井氏時代3件、松平氏時代2件あった。
 ニ、天川原での磔は松平氏時代の2件で、最後は万延元年(1860年)に行われた。
 ホ、この辺一帯は昔、松林と篠竹の密集している荒地で昼間でも気味悪いところであった。
 ヘ、広瀬川にかかる天大橋は涙橋といって昔、罪人がひかれてきて、橋のところまで来ると涙をながしたという。
 ト、天川大島の刑場で一番最後に死刑になったのは、おさか、という人で、
   最後に役人から「食べたいものがあったらなんでも食べろ」といわれて、そばを食べたという。
 チ、処刑場はさびしい所で、追いはぎが出た。処刑の最後は女性で、明治に入ってからのことだった。
 リ、天大橋の西に東屋という店があり、唐丸かごでつれてこられた処刑される人に、好みのうどん、そばをたべさせた。
 ヌ、処刑場のあとの供養碑は、道の関係で三回動いている。
 ル、明治の中ごろ、刑場跡近辺は両毛線の敷設工事で線路の盛土をするため、
   あちこちで穴を掘り、その跡が沼地となって魚取りや泳いだりしたことがある。
 ヲ、沼となったあたりには木がうっそうとしげって人家もなく、自殺の名所だった。

以上です。何だか15にリキが入ってしまいました。ああくたびれた。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« まだ早いミズバショウです。 | トップ | 前橋探訪 その16 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事