東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

要町から新井薬師へ(17):新井薬師

2015-09-12 10:42:47 | 中野区
さて、新井薬師。新井薬師の名前は正月の初詣のテレビコマーシャルやら、西武新宿線の駅名で知ってはいても、それ以上の何かというのはあまり縁がなかった。バイクや車を運転するようになってから、この周辺の道を良く通ったりはしていたものの、それも通過するだけで参詣することも、町を歩くこともなかった。こんな機会を得て歩いてみて、中々面白かった。やはり町は歩いてみて回るのが一番楽しい。

西武新宿線の新井薬師前駅からシャッター気味の商店街を抜けていくと、新井薬師の参道に出てくる。この参道は早稲田通りから分岐してここまで伸びてきた道。


新井薬師入口のすぐ横に、小さな稲荷社が祀られていた。豊川稲荷の扁額が掛けられている。そして、鳥居には新井薬師境内から伸びてきた枝が絡みつくよう。


何となく、不思議な感じ。


さて、新井薬師は真言宗豊山派の梅照院というお寺である。
「梅照院(ばいしょういん/新井薬師)のご本尊は、薬師如来と如意輪観音の ニ仏一体の黄金仏で、高さ一寸八分(約5.5cm)の御尊像です。 この御本尊は弘法大師御作と言われており、鎌倉時代の代表的な武将、 新田家代々の守護仏でした。 しかし、鎌倉時代から南北朝にかけての戦乱のさなかに、ある日の夕方、 御尊像を納めたお城の仏間から忽然と光が放たれ、それとともに御尊像は 消え失せてしまいました。
その後、相模国(神奈川県)から行春(ぎょうしゅん)という沙門(僧)が、 新井の里を訪れて草庵を結びました。清水の湧きいずるこの地こそ、 真言密教の行にふさわしい土地と感じてのことですが、不思議なことに、 草庵の庭の梅の古木から光が出るという現象が夜毎に起こり、 天正14年(1586年)3月21日、その梅の木の穴から新田家ゆかりのご尊像が発見されました。 この御尊像を安置するために、行春が新たにお堂を建立したのが、 梅照院の始まりです。
不思議な出来事とともに出現した薬師如来は、その後、広く、深く信仰されました。特に、二代将軍秀忠公の第五子和子の方(東福門院)が患った 悪質な眼病が、祈願して快癒したことなどから「目の薬師」と呼ばれ、 あるいは第五世玄鏡が元和3年(1617年)に如来の啓示によって、 秀れた小児薬を調整したことなどから「子育て薬師」とも呼ばれて、 今日まで大変多くの方に、篤く信仰されております。」(「新井薬師」サイトより)


栄えてきたお寺らしく、風情のある境内。訪問時が節分会の前だったので、そのお知らせなど掲示されていた。


提灯に新井薬師と書かれている。


山門を入って直ぐ、左手の御堂。


「本堂再建供養塔
 この塔は、梅照院(新井薬師)の再建に尽くした住職運樹の業績と信徒の信仰心にこたえるため、安永八年(一七七九)後継者の英俊が高野山延命院の引導地蔵尊を模して建立したものです。
 碑文によれば、
「梅照院は、天正十四年(一五八六)行春が建てたことに始まる。本尊の薬師仏は弘法大師の手刻といわれている。住職が薬師仏のお告げでつくった小児の妙薬(夢想丸)は、どんな難病にも効能があった。延享元年(一七四四)運樹が住職に迎えられると御利益が広まり、いっそう寺運が盛んとなった。明和元年(一七六四)寺院が焼失した。老僧運樹は直ちに仮仏殿を造り、さらに本堂再建の大願をたて、趣意書を示して広く喜捨を募った。しかし明和四年(一七六七)本堂の建立をまたず七十五歳で没した。あとを継いだ英俊は、十年以上も苦労の末、安永八年(一七七九)の春、ついに本堂の落成に至った。」ことが記されています。
 昭和五十六年三月 中野区教育委員会」


向かい合うようにある、右手の御堂。


そして、手水舎が並ぶ。


奥には本堂。これが安永八年にできた本堂なのだろう。節分に備えてステージが作られている。


信仰の場であると同時に、遊山の場でもあったわけで、見て歩いて行くというのは昔ながらの楽しみ方に近いのかもしれない。


鐘楼も立派なもの。


庫裡も押し出しの強い、唐破風。


境内の様子。


裏に出ていくと公園があって、哲学堂に繋がる道が延びている。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 要町から新井薬師へ(16)... | トップ | 要町から新井薬師へ(18)... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

中野区」カテゴリの最新記事