東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

東京・遠く近きを読む(58)生地死地

2014-01-20 00:10:56 | 東京・遠く近き
「東京・遠く近き」というタイトルのエッセイは、登山関係の評論で知られる近藤信行氏の著作で、丸善から発行されている「学鐙」に1990年から1998年頃に掛けて全105回に渡り連載されていた作品である。氏は1931年深川清澄町の生まれで、早稲田大学仏文から大学院修士課程を修了され、中央公論社で活躍された。その後、文芸雑誌「海」を創刊し、現在は山梨県立文学館館長を務められている。残念ながら書籍化されていないので、その内容を紹介しながら思うところなど書いていこうという趣向である。今回は、両国横網町界隈の話である。

「このところ街を歩いていて気づくのは、その土地にまつわる歴史と人物にたいする関心が深まったことであろう。道ばたに、街かどに、その由縁をしめす碑が立てられている。碑といっても石造りのものぱかりではない。鉄板であったり、ジュラルミン製の標柱であったりする。故事来歴、人物略伝を記して、その場所の特徴を明らかにしようとする。施工者は自治体である。教育委員会とか社会教育課などが中心になって、つくっているらしい。それは東京ばかりでなく、全国各地に共通する現象だ。
 区役所とかその出張所に行ってみると、さまざまな小柵子が出されている。文化財めぐり、人物誌、町名沿革史から行事案内、美味礼讃イラストマップまで、至れり盡せりである。なかには風光と歴史と文化を映像化して、大きな画面にうつしだすところもあった。自治体はあらゆる角度からわか郷土の誇りをとりだしてみせる。いわぱ、街はなりふりをかまうようになったのである。」

 そのお陰で、随分と町を歩くということが一般的な趣味として認知されるようになったし、情報を入手しやすくなったことは実感される。このブログ始めた辺りに掲載している1980年代前半頃には、カメラを持って町中を歩いていても同じ様な人を見掛けることはなかった。谷中や佃島と言った、今では半ば観光名所化している様なところでも、当時はそんな様子のまるで無いところだった。その当時から見れば、本当に随分と様変わりしたものだと思う。平日ですら町歩きを楽しむ人の姿を見ない日はないという状態になっている訳で、行政のバックアップというのも、こういう状況の一助になっていることだと思う。

「「芥川龍之介生育の地」の標柱は、京葉道路北側の歩道上に建てられている。母の実家の本所小泉町十五番地は、いまの両国三丁目二十二-十一にあたるそうだ。ここは眼につきやすいところだし、芥川の盛名もあって、人はよく立ちどまって説明文を読んでいる。ところが「斎藤緑雨住居跡」の碑(両国二丁目十三)には、人はほとんど眼をとめない様子だった。そこはかつての本所横網町一丁目十七番地、彼の終焉の場所である。「僕本月本日を以て目出度死去致候」の死亡広告を馬場孤蝶に口述したのはここであった。ジュラルミンの標柱にはつぎの文が書かれている。
「緑雨は慶応二年(一八六七)伊勢国神戸に斉藤利光・のぶ吉の長男として生れました。本名賢、のち緑町に因み緑雨と号しました。十一歳の時、両親と上京、やがて父が藤堂家の侍医となったため本所緑三丁目(現二丁目)の藤堂邸に住みました。小学校は弥勤寺に近い土屋学校や江東小学校(現両国小)他数校を転々とし、最後は明治法律学校(明治大学の前身)を中退して終わっています。
 しかし、年少から才気あふれ、筆力は冴え、観察は鋭く人々を驚嘆させました。十八歳の時、其角堂永機に俳諸を学び、その紹介で仮名垣魯文を訪ね、彼が主筆の『今日新開』の校正係となりました。やがて作家の途を進み、『油地獄』等の傑作や、幸辣な文壇批評で識られました。明治三十七年四月、奇行の多い人生をこの地に閉じました。戒名『春暁院緑雨酔客』は幸田露伴がつけました。」
 この碑の建てられた場所は、両国駅西口を出て道路をわたった先の左手の路上、ガソリンスタンドの前である。JR高架線の下の角といえばすぐわかるにちがいない。駅のすぐそぱにあるのだが、緑雨に関心一かなけれぱ人は見過してしまう。駅から出てくる客は、国技館か江戸東京博物館へ、そして安田庭園のほうへ、あるいは回向院かコア・ビル(旧国技館の跡地)のほうへ行ってしまうので、わざわざ道路をわたることはない。駅前の混雑を前にしながら、この一角はひっそりとしているのであった。
 まえに書いたように、横網町は両国橋の東詰の小さな一角であった。地名事典によると「もと南本所横網町と称し、無届けで町屋を建てていたが、宝永元年家作の許しを得て、町奉行支配となる」とあり、明治にはいって北の武家地が横網町に組み入れられた。緑雨が晩年に住んだのはその町屋の一角である。ここには東武線が乗り入れ、総武線の両国橋駅(現両国駅)ができつつあったから、このあたりの道路はひろげられていたにちかいない。ちなみに総武線の両国橋停車場の開設は明治三十七年四月五日、緑雨が死んだのはその直後の四月十三日である。十一月十三日には両国橋の鉄橋改架が完成、開通式が若こなわれた。こう考えてみると、晩年の彼の住居は、いわゆる向両国、東両国のあたらしい発展のまっただなかにあったことがわかる。」

 芥川にも紙数は割かれているのだが、近藤氏の視線は今は思い出す人も少なくなっている斎藤緑雨へと向かう。今の両国駅周辺の様相からは、緑雨が暮らした町を想像することも難しい。まして、震災と戦災の二つの劫火が焼き尽くした上に、バブルという時代も経過しているから、明治の町がどんな風であったのか、想像するだに難しい。私は緑雨についてその名前を聞いたことがあると言う以上の知識はない。だから、この辺りの文章は、時代背景とその当時の両国周辺の知識とを併せた中で想像して読んでいる。両国駅が元々は両国橋駅と呼ばれていたこと、そしてそこへ都心部への乗り入れルートを求めていた東武鉄道が乗り入れていたことは知っていた。当時、東京の私鉄は都心部への乗り入れを熱望しながら、東京市の許可は下りず、また、市街地に後から鉄道建設を行う困難さにも阻まれて苦労していた。東武鉄道と京成電鉄は、隅田川を越えて都心を目指そうとしていたが、なかなかそのルートを見出せなかった。様々なルートから都心へ向かおうと試みては破れていた。この両国乗り入れも、そんな試みの一つであった。そして、何よりも両国駅が永らく千葉、房総方面への鉄道の玄関口であったということが、そろそろ忘れられ始めている。両国駅を始終着にする列車は既に無く、かつてはターミナル駅の風格を見せていた構内も閑散とし、列車ホームも一つだけが辛うじて残るのみである。東京地下駅が出来た後でも、私が小学校の臨海学校に岩井へ向かうときには、両国始発の貸し切りの電車に乗って行ったことを覚えている。今、東京の小学生は臨海学校に行ったりしているのだろうか?今では、両国駅も只の途中駅として認識されるようになっている様だ。
 そして、両国橋の鉄橋改架については、橋の向こう側の住人であった木村荘八が当時の様子など書き残している。明治三十年の川開きの際に起きた木橋の欄干崩落事故から、鉄橋への改架が決定されて着工されたもので、現在の両国橋の前の代になる橋である。トラス型の橋でその一部が今も南高橋として現存している。そして、木橋時代からは橋の位置が上流側にずれて、両国広小路を無意味化することになる改架でもあった。木橋時代の橋のたもとを広場化した場所が両国広小路であり、橋が移設されてしまったことで、広小路は存在意義を失ってしまうことになる。そして、江戸以来の盛り場であった両国がその賑わいを失っていく決定的なきっかけでもあった。
 そんな時代に、緑雨はその人生を終えていった。

現在の両国駅。


「年代あわせをするようで恐縮だが、緑雨の亡くなったこの明治三十七年、横網町では舟橋聖一が生まれている。誕生は十二月二十五日だった。おなじ年、おなじ町、おもえぱ不思議なめぐりあわせである。
 両国駅から北へ、新国技館のまえをすすむとそのとなりに北越製紙ビルがあって、ピルの左角に「花の生涯」の自筆文字を刻みこんだ舟橋聖一生誕の碑がある。やや小ぶりだが黒御影の碑である。そこには井上靖の筆蹟でつぎの文章(横書き)がある。
「作家舟橋聖一は明治三十七年(一九〇四)十二月二十五日、本所区横網町二丁目二番地に生る。作家、国文学者として盛名高く、数々の名作を遺すも、その七十二年の生涯は権威に屈せず、市井の文人・文学者として独自の風格を似て貫かれている。
 代表作の一つ、『花の生涯』は井伊大老の生涯を綴った醇乎たる逸品であるが、文学者、文化人として前人未踏の道を歩いた作者の人生行路もまた、そのまま花の生涯と坪ぶにふさわしいものである。」
 そして左側面には、つぎのように刻まれている。
「昭和六十一年四月吉日建之北越製紙株式会社」
 とすると、芥川龍之介生育の地、斎藤緑雨住居跡の標柱より五年前に設けられたことになる。横網の安田庭園や東京都慰霊堂(震災記念堂)にむかうとき、よくみかけていた碑だが、企業も味なことをするとおもった。ビルの竣工は六十二年三月である。したがって建設中に少々でも地所を削って、このような記念碑を建てたことになる。私はかねがねそれを不思議におもっていた。
 そんなことから建立経過を知りたくて、私は北越製紙の本杜(日本橋本石町)に電話で問いあわせてみた、すると、総務部長の相沢重雄氏が答えるには、そこには以前から舟橋聖一生誕の地をしめす小さな木標があったというのである。
「写真でしかみたことはありませんが、それは誰も気がつかないような小さなものでした。あの場所には、私の会社の木造の倉庫がありまして、昭和六十年からビルの新築をはじめました。そのとき、木標をどうするかが問題になりました。社長と担当専務がこれは大切なものだ、横網のシンボル的なものだ、大事に扱わなければならないと判断いたしましてお嬢さんの舟橋美加子さんと相談して碑を作ったんですね」」

 舟橋聖一という作家、この人もその名はもちろん知っているのだが、正直に言えばあまり身近というわけではない。ただ、「花の生涯」はNHKの大河ドラマになっているので、その名を知っている。調べてみると、大河ドラマの第一作として昭和38年に製作されたものだった。ということは、その後に何度か民放でもテレビドラマ化されているので、そういったことからその名を知ったと言うことだろうと思う。
 それにしても、その舟橋聖一の碑を北越製紙という企業が大切にして建てたという話は、近年のような殺伐とした時代とは背景が違うなと思わされる。はたして、今の時代に同じ様なことがあったとして、それ程の企業が同じ様な行動を取ることが出来るのだろうか。今はどこの企業も生き延びることに汲汲としている。バブルの時代に反り返って企業メセナとか標榜していた会社は数多いが、今日では遠い昔のことのように思えてしまう。北越製紙という企業の今を知っている訳ではないが、こんなことをしてきた会社であることを誇りにする会社であって欲しいと思う。
 行政は、町興しとか、そういった名目で、地元の歴史を掘りかえし、これまでなら軍事関連などは暗黒時代扱いであったような事例まで、近代遺産とか産業遺産といった名目で案内板を建て、振り返る対象に入れるようになって来ている。それだけに企業が、自らのある土地を大事に思い、心のある対応をしたという話は、今となってはより貴重に思える。

「「舟橋聖一は生地の横網町をよく描いた作家だった、明治四十一年横網から本郷西片町へ転居、四十二年には、東大助教授であった父舟橋了助の欧米留学を機会に、神奈川県腰越にあった母方の祖父の別荘に移り、小学校にはいっている。したかって横網には就学前のわずかな記憶しかないとおもえるが、そうではない。実に鮮かな記憶をよみがえらせているのである。たとえば『相撲記』(昭和十八年刊)第一章の一節に、
「明治四十二年に、待望の国技館が建つた頃には、母は結婚してゐた。私が生まれ、既に六歳であつた。藤代町からすこし離れた横網町に新居を持つた。『三人吉三』でお馴染みのお竹蔵と、堀割一つへだてた所である。」
 とある。この記述には少々ほかの文章とあわせて読む必要があるかもしれない。大川のそばの藤代町で育った母親の、江東小学校時代からの相撲への関心を描く前文を受けて書いているからである。了助と母近藤さわ子との結婚は明治三十六年、母はそのころ本所番場町に住んでいた。のちの「自伝風文芸史抄」(「小説中央公論」昭和三十八年連載)によると、
「両親の結婚は、東大の渡辺渡工博の媒酌で、披露宴は上野の『常盤華壇』で行われた。母は十九の箱入り娘だったので、結婚に対する漠然たる恐怖があり、『常盤華壇』を出た数台の人力車が、厩橋を渡って二つに分れ、母の親たちは川上の番場町へ、父と母は川下の横網町へと曲るとき、母の胸に湧いたのは、新婚生活への憧憬ではなくて、両親と別れて夫と名のつく見知らぬ人に自分だけがさらわれて行くような憂鬱な実感があったということを、私は母から聞いている。」
 この横網町の家というのは新婚夫婦の借家だった。藤代町、すなわち両国橋のたもとからくるとすると、百本杭を通って、対岸の代地の色町に通う富士見の渡しを左に見る。かつて御竹蔵に水を引いていた堀の御蔵橋をわたって右へまがると、三四軒おいて友綱部屋があった。「私の家は恰度その筋向ひに当たつてゐたのである。裏の堀割は、大川の水が、百本杭の手前で、左へ折れ、おくら橋の下を潜つて、お竹蔵の前へ鈍く澱むやうに入りこんでゐた。堀割の突当りには、芦が生え、昔本所七不思議の狸がポコボコと腹鼓を打つた音が時々その芦の中からも聞えたのだと、私は聞かされた」(『相撲記』)
とあるところから、当時の地図をとりだして考えてみると、彼の生家はいまの文学碑よりは、もっと奥まったところにあったどおもわれる。」

 この辺り、地図を見たり、現在の地図を重ね合わせて場所を探ってみるようなことをしていると、明治の地図が単なる地図ではなく、生きた町として立ちあがってくるような面白さがある。かつての御竹蔵は現在の第一ホテル両国、日大一高、両国中学などの一体であった。そこから現在の横網町公園まで含めた敷地が、陸軍被服敞になっていったわけである。この御竹蔵へ引き込まれていた堀は、戦後まで残されていた様で、昭和22年撮影の空中写真には写っている。両国貨物駅の裏手に辺り、鉄道の貨物と水運が連携していた痕跡を感じさせる。昭和38年の空中写真では埋め立てられており、都心部の堀と同じく戦災瓦礫の埋め立てが行われたのだろうかとも思う。
 それにしても、丁度かつて横網町に残る戦前からの家を見つけたその辺りが、舟橋聖一の生家のあった辺りと言うことになる。そこに至る道の入口の角にあるのが、北越製紙ビルであった。

この辺りだろうか。右側に見えているのが、北越製紙ビル。角に碑があるのだが、写真を撮っていなかった。


そのさらに奥は今もこんな感じの家が残る。


「私は出版社で仕事をしていたころ、いつのまにか舟橋聖一さんの係りになっていた。なにか用事があると、きまって呼び出される。入社早々の「中央公論」編集部で、「花實」という連載小説を担当したのが最初だった。それ以来、日本医大の病院で亡くなるまでの二十年間、おつきあいをさせていただいた。それだけに想い出は深い。舟橋さん生地の横網町の風景に関心があるのは、「自伝風文芸史抄」の連載を書いていただいたことがあったからである。」

 舟橋聖一についての熱の籠もった文章だと思っていたところ、近藤氏が個人的な繋がりを持たれていたのだという。その私的な感情のこめられたところに、この随筆の心惹かれるところがある。ただ東京と文学者にまつわる話と言うだけではない、想いであるとか、気持という部分に人間性を感じるからなのだ。この連載のことを私に教えてくれたのは、母の同級生で、中央公論社で近藤氏の後輩に当たる人であったのだが、彼女は既に亡い。近藤氏と親しかったというわけではないようだが、今となっては、感謝したくとも話も出来ないとはと思う。

旧安田庭園の石垣。ひょっとすると、これは震災前からあるのかもしれない。それとも、補修されたものだろうか。


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