東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

目黒の旧跡を尋ねる~その三:権之助坂、下目黒

2015-01-05 18:48:57 | 目黒区
JRの目黒駅というのは、知っている方も多いかと思うが、品川区にある。品川駅が港区にあったりもするわけだが、この辺りのことは駅にその名が付くことで本来の地域からずれたエリアがその名前で認識されるようになるということは、各所で起きている。ここもそんな一つであるわけだが、地図を見ると品川区の先端が微妙に飛び出して目黒駅をカバーしていてというのは、どんな経緯で境界が決まったのか、興味深いものがある。そんなことから、駅前広場までは品川区ということになっていたりもする。そして、白金から伸びてきた道が目黒川に向かって下っていくメインストリートが権之助坂である。今は途中で二股に分かれて、目黒駅を挟むようになっているのだが、オリジナルは南側の道である。


この駅の周辺も、私にとっては地元ではなかったのだが、高校生の頃からうろうろしていたところで、駅周辺の変わり様には驚かされる。目黒区の住宅街へと伸びる目蒲線のターミナルで、商店は多かったけど、オフィス街という印象は当時はあまりなかった。かつての目黒の顔の一つが、パイオニアだった。当時はもちろんオーディオメーカーとしての存在感が大きかった時代で、レーザーディスクの推進元でもあった。その本社が新しく出来た坂の側にあったのだが、今はビルも建て替えられていて面影も残っていない。


その向かい側には、目黒シネマがある。ここは大蔵映画の直営館で、かつてはピンク映画をやっていた。目の前に当時はバス停があって、あれはばつが悪いものではないかと思っていた。大蔵映画は、日活ロマンポルノよりも明らかに低予算で、どこかポルノというよりはピンク映画という呼び方の似合う雰囲気があった。私はここで見たことはない。今は昔が嘘のように、綺麗な映画館になっている。この先下っていったところに、ウエストの目黒店があったのだが、ここも近年閉めてしまった。


権之助坂は、元禄時代に開かれた坂。行人坂の急峻さを緩和することを目的としたもの。菅沼権之助という人に由来すると言うのだが、その由来があまり明確ではないいらしい。坂が二股に分かれているよりも下までくると、少し昔ながらの雰囲気が残っている。この裏手には日出中学と高校がある。私のかつてのイメージでは、百恵ちゃんの学校という印象が強かった。


坂を見上げた方向。


行人坂下、雅叙園へ真っ直ぐに道が延びている。下りながら向かっていく様子がわかる。


目黒新橋。
「目黒新橋
 目黒新橋は、江戸時代初期(延宝年間)より橋が現在の位置にあったことが確認されています。昭和8年にアーチ橋としてかけられ、現在、東京都の著名橋に指定されています。修復などの際に少しづつ変わってしまった歴史的な橋の姿の原形復元を試みました。平成8年、橋の本来持っている橋梁美を残しつつ、新しい目黒新橋として再現しました。」(橋に設置されていた案内板より)


現在の橋は震災復興期のもの。大円寺にあった目黒川架橋の話は江戸中期のことと出ていたが、あれは架け替えであったのだろうか。


目黒川の上流方向を望む。今はこの辺りまで高僧ビル化が進んでいる。


下流方向。見えているのが前回掲載した太鼓橋。中央が雅叙園アルコタワーである。


目黒川を越えて進んでいくと、左手に階段があって、露地があった。つい惹かれて足を踏み入れてみる。


渋い板塀の続く路地が奥へと誘う。目黒通りはさんざん通ってきたが、ここで裏へ入ってみるのは初めてだった。


歩き回っていると、鳥居がある、間口は狭いが奥へとのビル敷地の小さな神社。


境内には大きく育った木がある。都市化する以前からあったのだろうか。


瘡護稲荷大明神。「かさもりいなりだいみょうじん」で疱瘡除けの神様である。住宅街で、幹線道路のすぐ裏手になるのだが、掃除や手入れは行き届いていて、大事にされていることが伝わってくる。


社殿前から振り返って見たところ。細長い境内に立派な木が育っているのが分かるだろうか。由来など調べてみたが、不明だった。


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