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東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

豊島郡衙への古道を歩く

2011-08-06 16:52:25 | 北区
少し前から興味を持っている身近な古道を歩いてみた。東京に暮らしていると、なかなか中世に繋がる歴史の長さを体感できることは非常に少ない。徳川家康の江戸入府以前からこの地に人は暮らしていたわけだし、当然歴史はあるのだが。たまたましばらく前に「豊島氏とその時代」という本を図書館で借りて読んでみたところ、なかなか面白かった。やはり江戸時代よりも古い時代のことは資料も少なく分からないことが多いようなのだが、逆に想像力を働かせる余地があるとも言えるわけでもある。

そんな中で、私の住む板橋では仲宿交差点から板橋区役所の横を抜けて、子易神社の脇を通って東武東上線と交差して、池袋本町を通って行く道が高田道といい、非常に古い道であると言うことを聞いていた。勿論、幹線になった中山道や川越街道も古い道筋を整備していったものだろうが、古い時代の姿のまま残されている道というのはどこか興味を惹かれる。この道は、現在の川越街道の富士見橋という山手線を越える橋の辺りで都市の道路に飲み込まれてしまう。

戦前の板橋の地図を見ていて、その端っこの西巣鴨交差点の辺りが妙に気になっていた。昭和16年頃の地図だが、その地図では明治通りが開通しておらず、国道17号線は開通済みという状況になっている。その地図では、今の西巣鴨交差点の辺りで道路が左へ向かいかけて直角に折れたりしているのだった。今はコンビニのある交差点の角には以前はガソリンスタンドがあったが、その昔からその裏側を細い道が通っていた。国道17号線を挟んだ反対側は、今もガソリンスタンドがあるのだが、その裏手にもそこから繋がるように空間がある。首都高速道路王子線が出来て、辺りの様相が一変してしまったのだが、それでもその様子は分かる。その道は面白い具合にずんずんと繋がっているのだった。まずは全体像を見て頂こう。

この地図は私が作成してみたのだが、黄色っぽい色で示したのが今回取り上げている道である。

出発点は西巣鴨交差点のコンビニの裏側。ここから逆方向は明治通りに飲み込まれている。


国道17号を渡ってガソリンスタンドの裏側を抜けると直行する道路にぶつかる。右手を見ると明治通りを突き抜けて繋がっている。


直進すると滝野川八幡商店街へと入っていく。滝野川八幡神社は13世紀頃の建立と言われているので、八幡商店街は非常に歴史ある集落であるのかもしれない。


滝野川のこの辺りの商店街は御代の台商店街といい、非常に興味を惹かれるのだが、それは今回は置いておいて、明治通りの方へと戻る。


斜めに入っていく道というのは、なにがしかの意味合いを持っていることが多い。近代的に計画された街路では道路は直行するから、斜めであるのはそれ以前の時代の何かを引き摺っていることが多い。


振り返ってみたところ。道が繋がっていることがお分かりになるだろうか。道がくねっているのも、古い道である証拠。過去に川であった道もそうなるケースが多いが、ここは地形的にそうではないと思われる。


直進していくとT字路に突き当たるようだが、よく見ると細い道が真っ直ぐに続いている。右に行くと旧外語大跡の公園に行く。


都電荒川線の踏切を越えると、商店が並んでいる。手前の広い道よりも商店が多く、不思議な印象。さらに進むと坂を下りる。


坂の名を「道音坂」という。北区教育委員会の案内が立っている。


坂下はT字になっているが、左へ向かう。右へ行くと、旧外語大跡のみんなの公園の所へ出る。この辺りも商店が並んでいて、不思議なところ。その一角に西谷戸新道の道標が立っている。ここから霜降橋へ向かう道筋のことだろうか。


そのまま真っ直ぐ進んでいくと、荒川線の滝野川一丁目の所から来ている道と交差する。そのまま渡ると、道筋は続いていく。


谷戸という名が出てきた辺りは、その名の通りで低地だった。巣鴨青果市場の辺りが水源の谷田川が流れ出して霜降橋へと流れていくのだが、その流れが長い間に削り取った地域なのだろうか?交差して進むと、道は上り坂に変わる。道はくねっている。


うねりながら高度を上げていく上り坂。


住宅街を抜けて行く裏通りといえばそうでもあるのだが、この道は鎌倉時代から続く古い道筋。1、000年前から人が往き来してきた道筋なのだ、と思いながら歩いてみると面白い。


飛鳥山公園から続く尾根筋の頂点に向けて道は続く。


いくつもの路地と交差し、合流しながら道は続いていく。


鎌倉道の終点が見えてきた。国立印刷局東京病院の前に出てくる。


この先の信号を渡ると、平塚神社の前である。この辺りに10世紀にこの一体を支配していた豊島郡衙が置かれていたという。


最初に書いた板橋から高田馬場の辺りへと通じていた高田道は多分現在の池袋六又交差点辺りで分岐して、現在の明治通りに近い経路で西巣鴨まで来ていたのだろう。そこで滝野川八幡神社へ向かう道筋と、豊島郡衛へ向かう道筋に別れていたのだろうと思われる。現在の岩槻街道の道筋も赤羽に至る尾根筋の道であり、今でも尾根伝いに上野まで繋がっている。この道筋も恐らくは相当に古い年代から存在した道だろうと思う。そんな想像をしながらこの道筋を歩いてみると、江戸成立以前の関東の姿ということを考えてみるのも面白い。

また、都電荒川線は王子電車として1911年に飛鳥山から大塚の間を開通させてその歴史が始まった。その当時は明治通りはまだ出来ていなかったわけで、その路線をどうしてこの経路にしたのかということを考えてみるのも面白い。私はまだ明治期のこの辺りの地図を見ていないのだが、興味深いところだと思う。荒川線開通から今年は100周年でもあり、その成り立ちについても探求して行ければと思う。


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